七夕飾りに願いごと

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 急に雨が降りだした。 夏の午後の空模様は気まぐれだ。 僕は駆け出して、カフェの軒下に滑り込んだ。 少し濡れただけで済んだけど、しばらくは止みそうもない。雨の匂いを嗅ぎながら、空を恨めしく見上げてため息をついた。 雨は嫌い。 ママとはぐれた時のことを思い出すから。 『ここで待ってるのよ』 言いつけを破ったのは僕だけど、初めて訪れたその場所に好奇心をかきたてられて、僕はつい約束を忘れてふらふらと足を踏み出していた。 気がついた時には、自分がどこにいるのかわからなかった。僕は急に不安になり、焦ってママを探し回った。 行き交う人たちは、みんな忙しそうに通りすぎていく。僕のことなんか気にも留めないで足早に行ってしまう。 この世界に一人取り残されたみたいで寂しくなって、僕は夢中でママを呼んだ。 時間にしたら10分足らずだったと思う。 だけど、あの時の胸をぎゅっと掴まれるような苦しさは、今でも僕の中に残っている。 僕を抱きしめてくれたママの匂いも、まだ。 あの時も雨が降っていた。 この湿った空気の匂い、覚えてる。 さらさらと涼しい音がして、僕はそっちに顔を向けた。うす緑の葉っぱが風に揺れて、くくりつけられた色とりどりの色紙がひらひらしている。 その綺麗な色に僕の心はうきうきしてきて、憂鬱な雨のことも忘れてしまいそうになる。 こんなに間近で見たのは初めてだった。 蒸し暑い空気が、少しだけ爽やかになったような気がした。 カラン ドアが開いてベルの音が聞こえた。 振り向くと若い女の人が顔を覗かせた。 「わあ。凄い降ってる」 空を見上げて独り言のように呟く。 綺麗な人だな… 僕の心臓がとくんと鳴った。 びっくりしたわけでもないのに、ドキドキが速くなってくる。僕はまだ子どもだけど、綺麗なものや素敵なものはちゃんと判断できる。 彼女はエプロンを着けていた。 このお店で働いているらしい。 「マスター。お使いは後でもいいかな」 「もちろん。急がないよ」 店の奥から答える男性の声が、くぐもって聞こえてきた。男の人はおっきくてちょっと怖い。にっこり笑ってくれても、どうしても押しつぶされそうな気がする。 「あれ」 彼女が僕に気がついた。 すっとそばに来てしゃがむと、僕と目線を合わせてくれる。僕が男だからってだけじゃなくて、女の人のこういう優しさはすごくほっとするんだ。 「雨宿りしてるの?」 笑顔で僕にそっと触れて、声を上げる。 「濡れてるじゃない。風邪ひいちゃう」 彼女はエプロンのポケットからハンカチを取り出して、雨に濡れた僕を優しく拭いてくれた。 彼女の指が動くたびに、ふわっといい匂いが鼻をかすめる。僕は嬉しいのと恥ずかしいのとで、何も言えなくて、ただうっとりと身を任せていた。 「七夕なのに雨だね。でも、君に会えて嬉しいな」 また独り言のように言う。 「どうしたの」 男の人の声がして、僕の体に緊張が走る。 でも、その柔らかい声の感じは優しそうだ。彼も僕を見つけると穏やかな笑顔を見せた。 「雨に降られちゃったのか」 大きな掌が近づいてきて、少しだけ首をすくめると、温かい手がわしゃわしゃと僕の頭を撫で回した。 「ねえ」 彼女の声は、今にも嬉しさが弾けそうだ。 「これって運命だと思わない?」 「今日が七夕だからか」 男の人はおかしそうに笑いをこらえている。 運命? 七夕?  どういう意味だろう ぼんやり考えてる僕を、彼女は無邪気な笑顔で抱き上げた。びっくりした僕は、思わず彼女の服にしがみついて、小さな爪を立てた。 愛おしそうに僕を胸に抱えてほおずりすると、彼女は軒先に飾られた綺麗な紙を指でつまんだ。ピンク色のその一枚に丸っこい文字が見えた。 『可愛い子猫が欲しい』 「お願いが叶うなんて嬉しい」 「天からの授かり物じゃ、断れないな」 「やったぁ。今日からここが君のお(うち)だよ」 運命がどういう意味かはわからなかったけど、お願いごとなら僕にもあった。 『ずっとこの人と一緒にいられますように』 僕を撫でる彼女の手にママの温もりを思い出して、僕は安心して目を閉じた。
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