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モーニングルーティン。
私にもある。
まずはじめに、目覚まし時計の音が鳴る前には目が覚めるのでタイマーを解除する。(タイマーをし忘れて、起きられないことを考えると目も当てられないので毎日保険のようにセットをすることは必須である)
寝起きはいいので、すぐに洗面所に直行し、洗顔をした後はテーブルの上のリモコンを手に取り、情報番組を点ける。
声を聞きながら、トーストとカフェオレの用意をし、イスに座る頃には芸能トピックスが始まるので微動だにせず内容をピックアップしながら時計のチェックは怠らない。
眉毛とリップを顔(夏はこの過程に日焼け止めが加わる)に施し、30秒でコーディネートをし、着替え終えると鞄を手に家を出ると階段を8階から駆け下り、自転車に乗ってバイト先に向かうのが日課となっている。
この時、7時45分を超えてはならない。
自転車でバイト先まで10分とかからないので、ドアノブを押してカウベルの音と共に出勤するのは、ほぼ7時54分。
店長がチラッと掛け時計で時間をチェックすればエアーでのタイムカード入力は完了したことになる。
そのまま休憩室兼ロッカールームに移動し、帽子と鞄をロッカーに入れ、エプロンを装着すればバイト開始となる。
そしてこの瞬間から私の朝が本格的にスタートする。
彼は、ほぼ毎日のように出勤前の8時過ぎに私のバイト先にやってくる。
持ち場につき、扉のガラス窓に映る自転車を店の前に止める彼の姿を私の目はスキャンし始めた。
常連である彼の朝のひと時を決して邪魔してはいけない。
「いらっしゃいませ」の挨拶は、大きすぎず、かと言って小さすぎないことを心掛け、他にお客さんがいない時はさりげなくレジ前の片づけをしている風を装い、何を選ぶかを注意深く観察している。
彼は、イチローやスティーブ・ジョブスのように毎日同じものを選ぶわけではない。
今日は、焼きそばパンとまるごとじゃがパン、ミニサラダにコーラのチョイスだった。
「今日はガッツリ系か・・・」
と心の中で呟きながらバーコードで商品を読み込んでいると、いつものように一つ結びにしていたレジ袋が登場し、入力し終えた商品を手際よく袋に詰め込んでいる。
その姿も何気ない振りをしながら、どんなささやかな行動の一挙手一投足にも目が離せないでいた。
「620円になります」
彼は電子マネー派ではなく現金派なので、至福の時間はあと数分続く。
几帳面なのか小銭入れも携帯しているので、小銭を選んで手に取る姿にも目が釘ずけとなってしまう。
顔を上げた一瞬、軽く会釈して立ち去る姿に心を鷲掴みにされたまま、「ありがとうございました」の一言を背中に向かって投げかける毎日になっていた。
ここまでが、私のモーニングルーティン。
スタンプカードは、確実に増え続け中盤を折り返していた。
挨拶しかしていない私が、どうすればもっと彼の記憶に残るようなワンランク上の関係へと昇格されるんだろう?
はぁ・・・、ため息も加算されていく。
この密やかな恋を知る人は誰もいない。
ということは情報提供者も不在なので、彼の足取りを報告してくれる人は皆無である。
私は朝のバイトがメインだけど、大学の授業が入っていなければ緊急要請も受け付け、夕方からのシフトもこなしている。
1か月に1度あるかないかだった。
そんなある日、梅雨真っ只中の6月22日18時52分、彼は突然現れた。
予想していないことが目の前に広がっている。
まさに緊急事態発生である。
冷静を装い、使用済みのトレーやトングを整理しながら、呼吸を整えているとドアの前で肩に広がっていた雨粒を払っていた彼が店の中に入ってきた。
朝とは違うちょっと疲れた表情を見せながら、何かを探していたのか急にレジの前で立ち止まった。
「あの・・・焼きそばパンは?」
「・・・焼きそばパン」
「はい。焼きそばパンはありますか」
探していたのは焼きそばパンだったのか。
残念なことに、5分ほど前に子ども連れのお母さんが買っていきましたよと心の中でもう一人の私が呟いていた。
「すみません。売り切れました」
申し訳ない思いで答えると、声にならない言葉が聞こえてきそうだった。
肩を落とすとはこういうことを言うのか、という見本が目の前で意気消沈している。
「よければソーセージパンと明太子パンはまだありますけど、どうでしょう?」
俯いていた彼の目に一瞬にして生気が戻ってきた。
すぐさま陳列棚に移動し、まさに駿足で商品を手にしている。
会計を済ませると、立ち去った後に一瞬止まったかと思ったら振り返って穏やかな声で話し出した。
「急な残業になって時間を見つけて買いに来たんだけれど、なんとか持ちこたえられそうです。ありがとう」
そう言うと、かつて見たことのない笑顔を見せて店を後にした。
その瞬間、腰が抜けてカウンターに手をついて座り込んでしまった。
あぁ、神様。今まで不平不満ばかりで申し訳ありませんでした。
日々、真面目に生きているとこんなご褒美も頂けるんですね。
ソーセージパンに明太子パンよ、ありがとう。
よくぞ売り切れずに残っていてくれました。
陳列棚の方に向かって深く一礼していた。
「桃、たいへんよくできました。明日も頑張ろう」
私は私に、エールをおくる。
『いらっしゃいませ』や『ありがとうございました』とは、違う言葉を交わしたことはおおいに一歩前進と言えるだろう。
停滞していたモチベーションが一気に加速していく。
まだ、恋は発展途中。
そして梅雨は始まったばかり。
梅雨が明けたら、さらにもう一歩進んでいるといいな、としみじみあの瞬間を噛みしめながら恋しい人に思いを馳せる。
恋する女子の妄想は際限がない。
ドアを開けて空を見上げたら、彼を濡らせた雨は上がっていた。
雨上がりの夜空には、今日を祝福するかのようなダイアモンドが輝いていた。
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