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弟
次の日――月曜の昼下がり。
通り過ぎたことすらもない文京区のとある地下鉄の駅の出口に、俺は立っていた。
空は重く雲が垂れ込めていて、今にも降り出しそうだ。
うすら寒い空気にうんざりしながら待ち合わせの場所に待っていると、灰色のスーツ姿の男がジロジロとこっちを見てくる。
完璧に撫で付けた七三の黒髪に眼鏡をかけた、いかにも神経質そうなオッサン。
対して俺は、ダメージジーンズに洋楽のライブTシャツ、スタッズの付いたベルト、耳には左三つ右二つピアスってな、いつもの家着だ。
ひとしきり俺を見定めて、男は声を掛けてきた。
「木原響さんですね。弁護士の野村です。お越し頂いて感謝しております」
言葉とは裏腹にニコリともしないその表情には、さっさとこの不本意な仕事を終わらせちまいたい、という本心がありありと透けている。
何も、そんな露骨に態度に表すことねぇじゃん、なんて思うのは、俺が一応「接客業」だからかね。
とはいえ、今更、他人のフリして帰る訳にもいかねぇ。
壊れかけたビニール傘を片手に、男のあとをノコノコとついていく。
たどり着いたのは、レモンクリーム色の分厚く高い塀に囲まれた、豪邸の門前だった。
来る途中、テレビでチラホラ聞いたような政治家の苗字がついた表札も見かけたから、この辺りは相当なお屋敷街なんだろう。
弁護士がインターホンを鳴らすと、どういう仕組みなんだか、立派な鉄の門が勝手にガラガラと横に開いた。
中は、白砂利に立派な松の木、石灯籠なんかが配置された、和風の庭園になっている。
キョロキョロ眺めながら通り過ぎると、今度は、正直そこだけで既に俺んちよりも広い、大理石の玄関に通された。
ボロボロのきったねぇスニーカーを脱いで上がると、今度はホテルのエントランスみたいな、天井の高い客間に通される。
都会のど真ん中だってのに、窓からは公園みたいな庭園が見える上、恐ろしいほど静かで、車の音ひとつ聞こえない。
相変わらず弁護士センセイは無言だし。
家政婦らしきおばあちゃんに出された紅茶の赤い水面を眺めながら、だんだんムカついてきた。
俺、マジで、何で呼ばれたんだろ?
道すがらも、俺なんかと余計なクチは聞きたくねぇって感じで、弁護士センセイは何も話してくれねぇしよ。
もしかして、後継ぎにこんなだらしねぇ兄がいると恥だから、DNA鑑定しろとか、木原を名乗るなとか、そういう話?
すげぇあり得る。リョウと付き合う前はゲイ向けAVも出てたし、窃盗でパクられたこともある。
こういう家にとっちゃあ、信じられねぇスキャンダルだろうしな。
だんだんむかついてきたぜ。
何言われてもキッパリ断ってやる。
斜向かいに座ってる弁護士センセイはどんな顔するだろうな?
いや……それよりもいい考えがあるぞ。
今、財産が俺の「弟」とやらのモンなら……その弟が死ねば、自動で俺に遺産が来るんじゃねぇの?
事故か、何かに見せかけて……。
そしたら俺は、借金返せるどころか、大金持ち……。
なんてな、まぁ、無理無理。悪い夢見すぎだっての。
よし、話振られたら、タダじゃ無理っつって、メチャクチャ手切れ金ふっかけてやろう。
そんで、お袋の骨と一緒に、マレーシアにでも移住すんのもいいかもなー。
パスポートの取り方とか知らねぇし、骨が飛行機乗れんのかも分かんねぇけどさ。
イライラと貧乏ゆすりしながら待ってたら、目の前の、金色のドアノブのついた重そうな木の扉がパッと開いた。
現れたのは、色素の薄い栗毛のショートカットの、天使みたいに整った容姿の女の子だ。
その睫毛の密生したクリクリのでっかい目が、一目俺を見た途端、さらにドングリみたいになった。
「お兄様!」
その声を聞いて、茶を盛大に吹き出しそうになった。
そのハスキーボイスは、明らかに、声変わり前後の少年そのもの。
しかも、言うに事欠いてこの俺に「お兄様」だ。
ってこたぁ、こいつが俺の「弟」ってやつか!?
どんどん相手が近寄ってくるので、俺は本能的にフカフカのソファを立ち上がった。
――絶対こいつ面倒臭いガキだし、そもそも頭が相当にヤバいヤツだ。
ウリ専のボーイの長年のカンてやつが警鐘を鳴らす。
だが、そのガキはあろうことか俺の行手を塞ぎ、ガバーッと正面から抱きついてきた。
「うげっ……!」
ガキに抱きつかれたのなんて人生で初めてだ。
しかもこいつ、顔はガキの癖に俺とほとんど身長かわんねぇじゃねぇか!
腕の中で完全に固まっていると、俺が黙ってるのをいいことに、「弟」は涙ぐみながら俺にまくしたてた。
「ああ、お兄様。ずっと、お会いしたかったんです! 来てくださって本当に嬉しいです、有難うございます……!」
――育ちの良さってのは、恐ろしいもんだよな。
どうやったら会ったこともねぇ人間に、そんなに夢を見られるんだよ。
それとも、なんか変なクスリでもキメてんのか?
ヤバい「弟」の名前は、木原高臣。
年齢は十四歳。日本一偏差値が高いらしい、名門男子中学のニ年生、しかも二年ですでに生徒会長をやってるとかいう、「秀才オボッチャマ」らしい。
病弱な母親が小学生の頃に他界して、今回父親のジジイも死んだことで、遺言書により、この立派な家の財産は全部高臣一人が受け継いだ。
弁護士センセイは爺さんの生前から指名されてた未成年後見人だという。
そして、今回のこの奇妙な出会いは、高臣が「どうしても」と望んだことらしい。
遺産整理で出てきた昔の写真で、俺の母親と、その息子の存在をウッカリ知ってしまったんだと。
実の母親も、父親もあの世。
親戚連中とは元々財産関係のことで関係が冷え切っていて、俺はこの世でたった一人の肉親なんだそうな……。
本当に血が繋がってるかどうかもわかんねぇのにな。
そんでもって、どうやら、縁を切るとかそんな話じゃあ無さそうだ。
むしろその反対、つまり……それ以上に面倒な話に巻き込まれつつあるのかも……。
悪い予感でいますぐ帰りたかったのに、うっかり「お兄様、お好きな食べ物は」などと聞かれて、「肉」と答えてしまったが為に、じゃあ夕飯まで――なんて話になり、俺は夜まで帰れないことになっちまった。
「――ここは僕の部屋です。お兄様も赤ちゃんの頃にここでお過ごしになったんですよ。お写真が残ってました」
夕飯までの間に、高臣に広大な屋敷を案内されることになり、あっちこっちウロウロと歩かされる。
お袋はここで暮らしてたこともあったんだろうが、俺の方はまさか覚えてる訳がない。
はしゃぎながら俺を案内する高臣の後ろで、弁護士の野村は苦虫を噛み潰したような顔をしてる。
……やっとセンセイの気持ちが分かったぜ。
親代わりにこのワガママ天真爛漫坊ちゃんに振り回されるなんて、気分がいい訳がない。
しかも、何を勘違いしたんだか、俺みたいなチンピラをお兄様扱いと来たらな。
歩きながらゲンナリしてると、まるで美術館の一室みたいな、腰高のガラスケースだらけの部屋に通された。
ケースの中は二段に分かれ、中に敷かれた緑の毛氈の上に、大小、細々した古そうな小物が並べられている。
「父は、アンティークや美術品の収集に凝ってたんですよ。ここはその父のコレクションの部屋です。凄いでしょう?」
「へぇ……」
……としか言えない。
金ピカのツボだの、何が書いてあんのかさっぱり分からん巻物やら掛け軸だの……全く価値がわかんねぇけど、多分、このへんの中の一つでも「ナントカ鑑定団」やらに持って行ったら、すげぇ値段になるんだろうな。
一つくらいコッソリパクってもバレねぇんじゃねえか、なんて思いながら眺めてると、部屋の一角に、妙に気になるものがあった。
部屋の一番奥に一つだけ、神棚みたいな立派な祭壇の上に鎮座した、白い光沢のある布を被ったお宝。
大きさは大人の手のひらくらいだろうか。
明らかに扱いが他のお宝と違う。
「なぁ、あそこには何が置いてあるんだ?」
初めて積極的に質問らしいものをした「オニイサマ」に、残念な「弟」は嬉しそうにぱっちり目をキラキラさせて答えた。
「あちらは、照魔鏡です」
「しょうまきょう……?」
「ええ。魔を照らす鏡、と書きます。あの鏡で照らされると、美男や美女に化けた魔物もたちまち正体を現すとか……。とても古いもので、元々は神社で御神体として祀られていたものみたいです。お父様はこの鏡を、この家の守り神だとおっしゃってました」
「ふうん。おもしれぇな」
――やっぱ、値打ちものか。
心の中で確信しつつ、その後も高臣の後について回った。
キンキラキンの鯉のいる池だの、立派なホテルの一室みたいなゲストルームだの。
そして最後に居間に戻ってきてソファで向かい合うと、はしゃいでいた高臣は急に真面目な顔になり、俺に向き合った。
「お兄様。良かったらですが、この屋敷で僕と一緒に、暮らしませんか」
ぬるくなった紅茶を、今度こそ吹き出しそうになって、慌てて飲み込んだ。
「は……?」
「本当に、ごめんなさい。お兄様が今、どんな生活をなさっているか、少し調べさせてもらいました。お家賃も、数ヶ月分滞納されてると伺っています」
「……。今、ダチが転がり込んできてて、そいつのせいで光熱費がかさんでるだけだ」
「そのご友人の方も、詐欺のグループの末端の構成員をされてるようですし……」
ゲッ。
時々スマホでなんかやり取りしてると思ったら、あいつ、そんなことやってたのか。
つか、俺もしらねぇそんなこと、どうやって調べたんだか。
「……だったとしても、今更驚きゃしねーよ。あいつクズだし」
つか、リョウについてそこまで調べてるってことは、俺の仕事も完全に割れてるってことだよな。
それ分かって、こんなこと言ってる?
狂ってんだろ……。
「……いつお兄様がトラブルに巻き込まれてしまうかも知れないと思うと、心配です。ご不自由は無いようにいたしますから。よろしかったら、二、三日お試しでも構いません」
マジかよ、何なんだコイツ。
何の権限があって、堂々と俺の人生にクビ突っ込んでこようとしてんだ?
――他人の、しかもガキのクセに。
痩せこけたカワイソーな野良犬が居たら、上から目線で抱き上げて、親から転がり込んできたカネで施し?
遺産はビタ一文くれねぇけど、オコボレで助けてやろうって?
完全にガキの発想なのに、下手に金持ってて、周りの大人を巻き込んでくるのがマジでタチが悪ィな。
完全に頭に来て、それから、社会ってやつをナメてるこいつのおめでたい頭に冷や水をかけて目を醒させてやるのも、兄としての勤めなんじゃねぇかと思えてきた。
だが、この場で「馬鹿にするんじゃねぇよ」と怒鳴ってみたって、こういうガキは理路整然と反論してくる。
それなら……。
いい考えが浮かんで、俺はニヤッと微笑んだ。
「……いいぜ。ちょうど今日明日は仕事、入れてねぇし。今夜、早速泊まらせてくれるんなら、『お試し』させてもらうよ」
高臣の色白で整った顔立ちが、パァッと明るくなる。
完璧な歯並びを覗かせながら、やつは何度も頭を下げた。
「お兄様、本当に有難うございます。この家を気に入ってもらえるように、僕、頑張りますから」
頑張るのはお前じゃなくて、お手伝いさんだろ。
そもそも、誰も俺のことなんて歓迎してねぇし。
横にいる弁護士先生なんぞ、顔色が真っ青だ。
そりゃそうだろうな。
今まで顔も知らなかったアカの他人のチンピラを、戸籍上の兄だって理由だけで家に招き入れるなんてな。
最初からメチャクチャに反対してて、それをこのガキに押し切られた挙句、最悪の事態になった――心境はそんな所だろう。
そんな野村弁護士に、俺はニヤつきながらわざと、深々と頭を下げてやった。
「ーーじゃあ。世話になりまーす」
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