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決断
翌日。
いつもと同じ時間に店へと来るであろう一希を、慧は何処か上の空で待っていた。試聴するため渡されていたCDに返事を書いた紙を挟み、渡してからその後の反応が不安になる。モデルの経験はあれど、誰かになりきり演技をすることなど経験したことがなかった。それ故の決断ではあったが、後悔だけはしたくないと思っていた。やりたいことを探した中での、寄り道のようなものだと自分に言い聞かせる。
「おはようございます!」
昨日と同じいつもの時間、彼はやはりやって来た。
「い…いらっしゃいませ」
「慧、おはよう…!あ、…CD、聞いてくれた…?その…色々、凄かっただろ…」
恐る恐る問いかけながら、慧の顔色を伺っている。内容を知っているからなのか、一希は1歩後ずさるように遠慮がちだ。
「…うん、聞いた。その…なんだ、」
何と形容していいのかわからず、慧は口籠ってしまう。しかし借りたCDを差し出しながら、小さい声で「お前はどっちだ」と呟いた。
「……え?」
「返事は中に書いてある。お前は…その、」
CDケースを開き、中に入っているメモを見て一希は目を見開いた。メモには『いいよ』としか書かれておらず、慧の顔をまじまじ見遣ると僅かに頬を赤らめていた。
「…ほんとに?」
「ああ。なんて言うか…悪くはなかったから」
慧のその言葉を意外そうに聞きながら、一希が少し嬉しそうに頷く。やはり見込んだだけはある、彼にCDを渡したのは私情だけではないのだからと自分に言い聞かせた。
「俺は…プロモーションとかマネジメントについては勉強中だし、演技に関してはド素人だから。練習次第じゃないかな」
「そっか。小柳がそう言うなら、俺も一緒だ」
「いつき、でいいよ。俺は変わらず名前で呼ぶから」
「ん…分かった」
声が低く、相手をリードする【さとる】とまだ変声期前の少年のような【かずき】。ふたりのうち、どちらを演じるかは慧の中ではまだ決まっていない。いざやろうと決めたはいいが、知らない事だらけなのは確かだ。イメージにふさわしい配役や設定など、そこはプロに任せた方が良いのだろうと判断した。
高校2年の同級生で、密やかに互いが惹かれ合っていたことと純真なラブストーリーが軸になっていると言うこともあり、ボーイズラブ作品を初めて手に取る人向けな作品だと一希が説明する。
「…おまえは良いのかよ、俺みたいなのが相手で。絶対に足を引っ張るぞ」
「絶対なんてものはないよ。むしろ…いや、何でもない」
「お二人さん、仕事の話もいいが時計を見た方が良いんじゃないのか」
唐突にマスターが二人に声を掛けると、一希と慧は互いに顔を見合わせた。
「…ご、ご注文は?」
「あ、えっと、今日はフルーツティーで。…うんと甘いのがいいな」
「喜んで」
苦手意識の塊でしかなかった一希に対し、少しだけ歩み寄ってやってもいいか、と慧は心の中で決めたのだった。
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