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出勤
こんなにも早く返事が来るとは思わなかった。少し恥ずかしそうにCDケースを返されて、喉から出てきそうな声を抑えるのに必死で自分の太ももをスラックスの上からツネったくらいだ。頭の中をからっぽにしたくなるけれど、これは単なる仕事でしかない。短期雇用の詳細とか契約内容とか、細かい打ち合わせは後日にと伝えて急ぎ職場に向かう。慧の淹れたフルーツティーは美味かった。
俺の務めるオフィス・ナツメはビジネス街の一角にある小さめのビルで、開放的な大きな窓と目立つように「NATSUME」と書かれた看板が特徴的だ。
社長の夏目真智子は過去に映画やドラマに何本も出ていたくらいの有名な女優だったけれど、紆余曲折あり独立して、小さな芸能系商社を立ち上げた。俺が生まれる前には女優業を引退していたそうで、今ではデジタルリマスターされたDVDぐらいでしかその勇姿は見られない。それでも職場のみんなから「社長」じゃなくて「先生」と呼ばれているのは、連続ドラマの主演として教師役を長年こなし、今もその片鱗が見えるからだった。営業時間の大半は社長室におらず、スタッフと打ち合わせをしたり仕入先に赴いている。急な来客にも対応できるように、タブレット端末やコードレスインカムを誰よりも使いこなしている。そして様々な説明の仕方や教え方がうまい。先生と呼ばれていることは社長自身恥ずかしいようで、たまに照れたように笑ってはいるけれど嬉しそうでもあった。
うちの職場は舞台装置、大道具や小道具の手配、モデルや若手の発掘など、芸能に関わる様々なことを担っている。20名から30名程度の少数精鋭で運営しているため、名のある芸能プロダクション程規模は大きくはない。それでも依頼や発注は沢山舞い込んでくる。一度に全て引き受けず、納期の調整やその時行う業務を取捨選択し、最終的には全ての依頼を成功させている。仕事やスケジュールをマネジメントするのは社員ひとりひとりと、上司のマンツーマンで行うため平均してみんなに仕事があり、手持ち無沙汰になるスタッフは殆どいなかった。それでも休憩時間はしっかり取れるし休みはキッチリ週休二日、土日祝日以外に二連休を取っても嫌な顔をされたことがない。
去年入ったばかりの俺でも、今回のプロモCMのような大きな仕事を任せてもらえた。その中でアイツの存在を思い出した。
成功すれば全員で祝杯を上げ、うまくいかないと何が悪かったのか、次にどう活かすか考えさせてくれるいい職場だ。
「おはようございます!」
「おはよう、小柳くん。…何だか嬉しそうね?」
「へへ、分かります?」
慧のスカウトが成功したことを上司…かつ社長に伝えるべく、書類諸々の準備を進めた。
× × ×
「……慧、顔洗ってこい」
「へ?」
「へ?じゃないだろ。何ニヤついてる…もうオープンしてるんだぞ」
「は!?俺が?何言ってるんですか」
呆れた顔のマスターが溜息をついていた。確かに多少は気が緩んでいたから、そう思われるのは仕方がない。とは思うけれど、ニヤついているなんて自分では分からなかった。思わず両頬を指先で持ち上げる。
中学の同級生(しかも苦手なヤツ)が常連なんて、とんでもない店だと思っていた。気づいた時にはバイトを辞めてやろうかと思ったけど、この店に転がり込んでいることを俺の両親に言わず、居候させてくれるのはとてもありがたい。それに馴染みの客も増え、自分が頼られたり必要とされるのは案外悪くないことだと気づいた。
「…おまえが誰を好きになろうが関係ないけどな、」
「俺がアイツを好きにだって!?冗談じゃ…」
「まだ誰とは言ってないだろ」
マスターはニヤリと笑ってコーヒーメーカーの手入れを済ませた。
まったくもって喰えないオヤジだ。
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