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婚約者に浮気がバレた。
弁解の余地もない。今夜は謝罪を込めて高級イタリアン。土下座も辞さない覚悟で臨んでいる。
なのに、だ──。
「美味しいね」
婚約者の美夢羅は、目の前でいつもと同じ笑みを浮かべている。浮気について言及する素振りも見せない。
居心地が悪い。責められた方がどんなに楽か。
『……で、その村さ、村の名前を口にしただけで呪われるってよ』
『何それ、こわぁい』
耳が隣席の会話を拾う。呑気なもんだ。俺は呪いの村なんかよりも、笑っている美夢羅の方が余程怖い。
テーブル上にはメインの牛フィレ肉。食欲はないが仕方なくナイフを通す。
「……ねえ、そう言えば」
不意に彼女が切り出した。ついに来たかと手を止め、生唾を飲み込む。
「……なに?」
「籍を入れる前に言っとくね」
しかし放たれたのは予期せぬ告白だった。
「私、佐藤って名乗ってるけど、本当は違うんだ」
「……え?」
戸惑う俺を他所に、彼女は淡々と続ける。
「訳あって母の旧姓を名乗ってるんだけど、本当の苗字は物井なの」
「……えっ、そうなの?」
「私の本名、ちょっと言ってみて」
唐突な上に意図がさっぱりだ。が、今日は逆らえる身分でもない。
「えっとモノイ? モノイミムラ」
だっけ、は言えなかった。何故か突然に。
「……カッ…………!?」
声が出なくなったのだ。
痛みはない。が、いくら絞り出そうとしても、全く音にならない。
「『呪い』なんて噂されてるけど、違うのよ」
代わりに彼女の声が響く。
「……?」
「『物忌』はね、浄化なの。何も喋らず、何も食べないことで、汚れを浄化する儀式」
理解が追いつかない。が、その言葉に嫌な予感がし、慌てて目の前の肉を口に放り込む。
「!!」
案の定だ。身体が拒絶して、どうしても飲み込むことができない。
「浮気する悪い心は、ちゃんと浄化しなくちゃね」
美夢羅が静かに微笑む。
──何も喋らず、何も食べない。
もはや声の出ない俺に「いつまで?」と訊くすべはなかった。
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