愛の看護であなたを治したい

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67de361b-f897-4964-82c1-610a977d7e6a 勤務する病院の隣には看護学校があった。 そこの学生が今日はこの病院にやって来る事になっている。 年はそれほど変わらない彼女たちに囲まれて、俺はある質問をされた。 「如月さん男の人だけど、どうして看護師を目指したんですか?」 「ん…ああ。俺の愛の看護で患者さんを治してあげるためだよ」 「へぇ〜」 そんな答えで納得してもらえたかはわからないが、同じ質問をよく聞かれる事がある。 その度に同じように答えていた。 「でも夜勤とかあるし、この仕事結構キツイですよね?」 「んーでもまぁ俺、強健だから」 「はぁ、そうなんですか」 正直夜勤はなんとかなっている。 でも、一人暮らしの家の中は常にグチャグチャで、悲惨な事になっていた。 たとえ彼女ができても、部屋には通せない。 趣味で集めたアナログカメラ、そして休みになると造るガンダムのプラモデルが棚という棚を埋め尽くしている。 患者さんを世話する以前に、自分の事がまともにできていないのだが。 なおかつ食事は全て外食か、スーパーかコンビニの惣菜弁当だ。 毎日、嫁が現れて自分を世話してくれないかと考えている。 なのに、彼女ができない。 なぜだろう? 患者さんの中に温厚そうな80代の女性がいて、その知恵を拝借しようと俺はその人に尋ねてみた。 「俺、見た目はそんなに悪くないと思うんですけど、なんでモテないんですかね?」 「え?なんでかね」 ボンヤリと焦点の合わないその患者さんは、ニコニコしながらそう言った。 なんか、はぐらかされた…? 患者さんにはそれぞれが投薬の時間があって、その薬を自分では飲めない人もいる。 担当の部屋によっては、体が不自由であるとか、認知機能に問題があって見守らなければならない事もあった。 カルテには介助しなければならない事項が記されていて、俺は片手が不自由になった中年女性の担当になった。 薬を飲む時にこの患者さんは、どうしても小さな錠剤を落としてしまう。 そもそも片手だから、錠剤をPTP包装シートと呼ばれるプラスチックをアルミで挟んだシートから外せない。 だから注意事項として、カルテには梱包を外して口に運ぶまでを見守るようにと指示してあった。 だから俺はいつものように、その患者さんの薬を全て梱包から外してやり、動かす事のできる手の方へと運んであげた。 「ありがとうございます」 その女性はいつもこうして、俯いたまま礼を言う。 その声はついこの間まで動いていた腕が全く動かなくなり、ダラリと垂れたままになっているのを深く悲しんでいて、沈んでいる。 その瞳は涙を押し殺して、海に沈み込んだ鉛を抱えているかのようだった。 俺はいつもの業務でなんとも思っていない。 落胆した患者が、鬱状態である事にも慣れている。 それなのに、なぜだか胸が痛んだ。 看護する者が、患者に流されて俯いていてどうする?! そうやって自分を鼓舞して来た。 それなのに、それができない。 どうしてだ。 辛くて悲しいのはこの患者さんだけじゃない、それなのにどうして引きずられているんだ?! 病室には脳血管障がいによって、手足の麻痺した患者が集められていた。 誰もが、自分の失った身体機能や背負った後遺症によって、意気消沈している。 そこで、看護師や介護士たちはキツイ勤務の中でも明るくあるよう努めている。 それなのに、どうもうまくいかない。 その女性患者は大きな瞳をしていて、その瞳を覗き込むと黒い瞳孔の中に漆黒の闇が渦巻き、悲しみに暮れた一つの部屋が見えた。 彼女はその暗い部屋の中で膝を抱えてうずくまり、枯れた涙で途方に暮れているかのようだ。 失ったものを嘆いて、取り戻せない過去を憂い、その先にある未来を見ないように目を伏せている。 ここはそんな患者を癒し、守る所だ。 泣かないで。 泣かないで。 いや、泣いたっていい。 そんな悲しみを自分に放り出してくれていい。 慰めてあげたい。 それなのに、 それは言葉にはならなかった。 あなたは、ここでもう治らないと分かっている病気と共に生きて行く。 退院という日がやって来て、あなたはその後遺症と共に生きて行く。 だけど、俺はあなたの悲しみを癒してあげられない。 医師にも治せない病気から解放してあげられない。 できる事は、今あなたにこの薬をそっと運ぶだけだ。 アルミ箔を破いて、その手に幾つかの錠剤をあなたの手のひらに転がすだけ。 あなたはそれを自分の口元に運んで行った。 ゴクリとのどが鳴って、それが流れて行くのを見守ると自分の中にホッとしたあたたかいものが流れて行く。 今日もあなたは生きている。 辛く悲しい世界にいても、あなたの鼓動は鳴り、あなたの息は部屋に満ちていく。 「ありがとうございます」 いつものように少し枯れた声がそう言った。 俺の中に爽やかなものが現れて、自分を納得させていく。 俺は患者さんを愛の看護で治したいと言っていた。 だけど、本当は看護を通して癒されていくのは自分の方だった。 あなたにこの薬を届けてあげる。 この薬はあなたを治すものじゃない。 だけど、この薬であなたが笑顔になれる日が来ると信じている。 あなたが飲み込む薬を運びながら、俺は自分の心に明るく灯るジンワリとした愛を感じた。 よくわからないけれど、人を愛するという事は体が交わるだけの事じゃない。 生きていて欲しい人に、その心を捧げる事でもある。 俺は患者さんたちを愛している。 失ったものや、痛めた体を嘆き続けなくてもいいように、俺は尽くす。 尽くす。 あなたたちに愛を届ける。 いつか俺も、あなたたちのように大切な何かを失って白いベットに横になるかもしれない。 そうしたらきっと現れるだろう。 「愛の看護で患者さんを治してあげたい」とか青い事を言っている奴に。 そいつが俺に薬を手渡して来たらきっとこう言うよ。 「ありがとう」って。 「本当は辛いんだ」って。 患者さんは退院して行った。 良かったなって、思うだろうか? いや、俺は毎回寂しい。 もう戻って来るなよ、って言うけど。 本当は元気になった姿をまた見たいと思うんだ。 でも、大抵はもう会えなくなる。 だから寂しい。 あなたに会えなくなるのが寂しい。 かつて彼女はナースコールを押して「湿布を貼ってください」と言った。 麻痺によって動かなくなった腕を毎日リハビリしている。 それによって腕や肩、背中には酷い筋肉痛や痛みが生じて眠れない程になっていた。 だから、彼女は1日に一回湿布の交換をする。 けれど背中側の肩には、自力で貼れない。 俺は彼女の為に準備されていた薬箱から彼女の割り当てられた湿布を掴んで持っていく。 胸が高鳴った。 今から俺はこれを彼女の背中に貼ってあげる。 本人に頼まれた事だ。 俺はただ、その日の部屋担当の看護師だというだけ。 彼女はカーテンの中でパジャマの上衣を脱ぐ。 その下にはカップ付きのキャミソールを着ていて、別に裸になった訳ではない。 背面側の肩から背中にかけて湿布を貼る為には、キャミソールの肩ヒモを下す必要があった。 俺は看護師だ。 彼女は患者だ。 何もいやらしい事をしている訳じゃない。 だけど、彼女の背中を見てその肌に触れた。 狭いカーテンの中のベッドのスペースで、看護師の俺が彼女に湿布を貼っているだけ。 「すいません」 彼女が恥ずかしそうに、そう呟いた。 「いえ」 彼女が指差す所へそれを貼ると、俺の心は何とも言えない気持ちになった。 半年程入院していた間に、ほとんど会話を交わす事もなかったのに、俺は彼女の看護をする間にその心を奪われていった。 尽くしても、それが報われるという事もない。 病院を出れば、何の関係もなくなってしまう人。 だけど、彼女は一人では何もできない状態になってしまって、俺の手が必要だった。 俺は必要とされている。 ただ錠剤を飲めないのを補佐するだけ、貼れなくなった湿布を貼ってあげるだけ。 それなのに、このサポートを通して関わるうちに、俺の心には得難い想いが生じていった。 俺はあなたの事が気になる。 これから先、彼女が立ち向かう事になる困難が彼女をどう変えてしまうのか気になる。 中途障がいを負った人間の苦悩が胸に迫って来て、心が苦しくなる。 この先あなたには、届かない背中に湿布を貼ってくれる人がいるのかどうか気になる。 けれど、退院の日はやって来て、あなたは去って行った。 もう会う事もないだろう。 その悲しみに暮れた瞳に明るい笑顔が溢れる日を俺は見る事はできない。 皆んなそうしてこの病院を去って行く。 俺たちはそれまでの間、患者さんを見届けるだけ。 さよなら、あなたの未来にきっと素敵な笑顔が戻る日が来るよ。 俺はそれを見る事はできない。 病院を去って行く人の未来に寄り添う事はできない。 彼女のベッドが運び出されて、また新たな患者さんのベッドが運び込まれる。 カルテに目を通し、その人の人生を考える。 病歴、注意事項、信条などが書き込まれたカルテに、その人の大切な何かは書かれていない。 今日も手足の自由が奪われた人がやって来た。 その瞳には憂いが現れている。 あなたの悲しみを癒してあげたい。 俺の愛で、あなたを癒してあげたい。
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