犬、魔術師様の番犬になる

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○  仔犬のころは病弱で、物覚えも悪く、王様やお妃様から心配されていた。  おれは、王様とお妃様がスラムの視察に来た日、とある老婦人から託された犬。あたしの娘が生んだ子なの、と老婦人は言ったそうだ。自分は高齢だし、娘は逃げたし、この子は獣人で普通の人間じゃないから育てられない。王様とお妃様、お慈悲があるなら、どうかこの子を育ててやってください――そう言われ、拾われた犬だった。  王様とお妃様には、子どもがいなかった。だから、おれはすごく優しくしてもらった。獣人はその希少性から保護されて愛玩されるか、奇異に見られて差別されるかのどちらかだ。おれを愛玩していることをよく思わない家臣や民もいたけれど、王様とお妃様は気にしていなかった。  おれは大事に大事に育てられた。あのころは、とても幸せだった。  そんなある日、おれはハスケル様と出会った。五歳のころだ。太陽がぎらぎらと眩しい、底抜けに暑い夏だった。  すぐに熱を出すからと、ふだんは水遊びは許されていなかったけど、その日はあまりに暑くて例外だった。乳母が見守る中、城の庭にある巨大な噴水で、上半身は裸になって水浴びをしていると、その美しい人は静かにやってきて、噴水の縁に腰を下ろした。  真っ白のシャツにグレーのベスト。濃紺のネクタイ。ぴかぴか光る革靴。そしてとっても綺麗な、銀色の髪。最初は髪が火花を放つようにきらめいていて、顔が見えなかった。その人は髪を掻き上げ、おれを見た。とんでもなく美しい人だった。 「こんにちは」  ハスケル様はおれを見て、微笑んだ。おれは馬鹿みたいに突っ立っているだけ。口から、ボールがぽろりと落ちた。  ハスケル様は腰を上げると、腕を伸ばして、ボールを拾ってくれた。赤い、小さなボール。おれが慌てて受け取ると、ハスケル様はまじまじとおれを見つめた。 「君、名前は?」 「……ぅわ、わ」  そのころ、おれは人間の言葉もろくにしゃべれなくて、ひどく恥ずかしくてばつが悪くなった。耳も尻尾も垂らして涙をこらえていると、ハスケル様はくすっと笑って、 「マリウスっていうんだね」  おれは驚いて、ハスケル様の綺麗な顔を見つめた。 「うわん、うわん! ぅわ?」 「うん、私にはわかるよ。あらゆる言語を理解するのは、初頭魔術の一つだから」  おれは驚いてしまって、そしてうれしくて、噴水の中を走ってハスケル様のそばまで寄っていった。 「わぅん! わぅ?」 「うん、そうだよ。私は魔術師だ。ミハエル・ハスケルという。王様とお妃様に雇われて、仕事をしているんだ。今は、少し疲れたので休憩をしに庭に出た。君は先客だったね」  優しく笑うハスケル様。その笑顔に、おれはなんだか泣きそうになってしまった。  王様もお妃様も、お優しい。でも、おれの言葉は理解してくれない。  そのときおれは、初めて自分が一人ぼっちじゃないと思ったんだ。物心ついてからずっと感じていた恐怖が少し薄れて、おれは噴水の水の中にしゃがみこんでしまった。  タイルで滑って溺れそうになったけど、力が抜けてしまって立てなかった。ハスケル様は靴のまま、噴水の中に飛び込んできた。水しぶきがあがって、きらきらとダイアモンドの粒のように光った。  おれを抱え上げたハスケル様は、噴水の縁に座ると、おれを膝に乗せて微笑んだ。おれの髪を掻き上げて、 「濡れるのも、たまにはいいね」  そう言って、微笑んでくれた。  ハスケル様の周りはきらきらしていて、美しかった。時間も空気も流れを止めた。世界はそこだけ静かだった。青い瞳がおれを見つめる。  だから、おれは決めたんだ。  ハスケル様が「溺れる」ときがあれば、おれが助けて差し上げよう、と。
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