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犬、魔術師様の番犬になる
おれは、ミハエル・ハスケル様に飼われるためにここにやって来た犬だ。名前はマリウスという。
ハスケル様はとてもお優しい方で、とてもお美しい。肩まであるふわふわの銀髪、澄んだ青い瞳、銀色の長い睫毛が、おれは大好きだ。きれいな形の眉も、すっきりとした鼻も、ミステリアスな微笑みを浮かべる唇も、すべてが美しい。
おれはと言うと、茶色の短髪に焦げ茶色の瞳、強面の、ただ厳ついだけの犬。四肢も腹も背中も引き締まっていて、筋肉質のがっちり体型だ。身長も一九〇センチある。頭には茶色い耳が生え、ケツからは尻尾も生えている。
おれは、人類の中で0.0002パーセントの割合で派生するという特殊人類、「獣人」だ。大型犬の。
昔は――仔犬のころは、「可愛い」と言ってもらったこともある。お妃様のお気に入りで、いつもあったかい毛布にくるんでもらって、幸せに暮らしていたっけ。
でもある日、「ユシュケル」という蛮族が王様と王妃様を殺し、おれを攫っていった。それからおれは蛮族の元で傭兵になる訓練を受け、長の孫娘を娶ることになっていたけれど――そんなつもりは、毛頭ない。おれは先日おれを攫った蛮族の長を殺し、今ここにこうして居る。
ハスケル様のお屋敷は、とても静かだ。
白亜の壁に繻子のカーテン、飴色に磨かれたテーブルには数々の魔導書が無造作に重ねて置かれている。開け放った窓から、そよそよと入ってくる心地のいい風。爽やかな、ユーカリと柑橘系の香り。得体の知れないオブジェや図像、世界地図に似ているようで似ていない地図――玄関ホールには得体の知れない物でいっぱいだったけど、見事に整頓されている。
「マリウス様、客間でお待ちになられませんか?」
メイドのアニーさんが、そう言ってくれる。おれは首を横に振る。ハスケル様のお部屋を汚したくないんですと言うと、アニーさんは優しく微笑んで、
「でしたら、そこのクッションで丸くなっていてもいいんですよ。お疲れのようですもの」
と、玄関脇のクッションを勧めてもらった。聞けば、ハスケル様がおれのために用意して下さったとのこと。お気持ちはうれしいけれど、断った。今日はハスケル様と久しぶりにお会いする日だから。
それでも、たっぷり詰め物が入った緋色のクッションは魅力的で、ちらちらと見てしまう。少しばかり、眠い。
部屋の真ん中にぼーっと立っていたら、玄関の扉が開く音がした。おれの耳が、おれよりも素早くぴくりと動く。
床に片膝をついて跪き、顔を伏せる。軽やかな靴音がして、視線の先に磨かれた黒い革靴の爪先が見えた。顔を上げたいのを我慢していると、頭上から低く柔らかな声が降ってきた。慈雨のように。
「久しぶりだね、マリウス」
おれは懐かしくて、うれしすぎて震えながら、目に涙がじわっと溜まっていくのを感じた。やっとのことで返事をする。
「お、お久しぶりです、ミハエル・ハスケル様。お変わりないようで、うれしく存じます」
「君はずいぶん大きくなったね。なんというか、背が伸びて、筋肉質になって、ずいぶん逞しくなったようだ」
「傭兵では、細いほうです」
「そうか。立って、顔を見せてくれるかな?」
おれがおずおずと立ちあがると、ハスケル様はおれの顔を下から覗きこんだ。ハスケル様も小柄なほうではないけれど――おれに比べると、小さくて華奢だ。
とてもお優しくて、とてもお美しい顔が、おれを見つめる。大天使ミカエルのようなその神々しさに、おれみたいなつまらない獣人の目は潰れてしまいそうだ。
「泣きそうな顔をしているね、マリウス」
「……っ、泣いて、ません」
デカい拳で目頭を拭うと、ハスケル様はくすっと笑って、おれの頭をぽんぽんと叩いた。
「一人でよく頑張った。今日からは私といっしょだよ。ここでゆっくり休みなさい」
「いえ! そんなのは、もったいないことです。おれは、ハスケル様の護衛をするためにここに来ました。雇っていただけますか? も、もちろん行くところはないので、置いていただけないのなら、おとなしく去ります」
おれはまた、犬っぽくふるふると震えていたのだろう。ハスケル様はもう一度くすっと笑って、おれの目を覗きこんだ。
「君を雇うよ、マリウス。まずはその泥だらけの格好をなんとかしないとね。血もついているし。ケガはしていないのか?」
「はい、大丈夫です!」
「雇うよ」の言葉にうれしくなってしまったおれは、危うくハスケル様の顔を舐め回しそうになった。いけない。こんな綺麗な顔を舐めたら、口が腫れる。
ハスケル様は振り向いて、鈴を鳴らした。扉が開いて、とびきり美しい赤毛のメイド、アニーさんが入ってくる。
「アニー、バスの用意を。この子が入浴できるように、着替えを用意してやってくれ」
「畏まりました」
ちらっとおれを見て、にこっと笑うアニーさん。綺麗で、笑顔がすてきな人だ。おれが見惚れていると、ハスケル様はおれの泥だらけのアーミーシャツをちょっと触って、
「お帰り、マリウス」
とびきりあたたかく笑ってくれた。
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