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東北地方の北部に位置する地方都市、井佐原。東北におけるビジネスの要所の一つであり、またスキー場や温泉施設への玄関口として観光客の利用も多い。その街の一角、役所などの行政施設が立ち並ぶエリアに地域の治安維持を担う井佐原警察署がある。
五階建てのビルディングの地下にある喫煙所に今、一人の男が佇んでいる。年のころは40歳過ぎ、中肉中背、ワイシャツを腕まくりして立つその姿は、年齢の割には引き締まった体に見えるだろうか。
電子タバコをくゆらせるその男のポケットで、スマートフォンがかすかに振動した。男がスマートフォンを取り出すと、画面にメッセージが浮かび上がった。
差出人:チャットABC
メッセージ:お疲れ様です。少々お時間よろしいでしょうか?
男は小さく舌打ちし、少し鬱陶しそうな顔で画面を睨んだ。
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近年、企業活動における主要課題の一つとしてあげられる、従業員の心と体の健康管理などを目的とした働き方改革。かねてより激務と指摘が続いていた警察活動においても、それらの取り組みに対する議論が活発化していた。
その警察で最近、解決の一助として導入されたのがAIを利用したヘルスケアシステムの”チャットABC”だ。
警察から支給されるスマートフォンにインストールされ、文字と音声で対応するチャット型AIで、睡眠や食事などの日常生活からメンタルヘルスケアまでの提案やサポートをしてくれる。言わば手軽な産業医といった位置づけだろうか。
システムを導入以降、警察職員は、定期的に数分間、このAIとコミュニケーションを取ることが義務付けられていた。
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「それにしても、このチャットABCってネーミングどうにかならなかったのか?」男はそんなことを思いながら、スマホを操作し、音声チャットに切り替えてAIに応答した。
「なんだ?」
男の呼びかけに、AIが柔らかな女性の声で応える。
「お疲れ様です。坂井刑事。定期診断と言うほど大袈裟なものではないですが、少しお話できればと思いまして」
「わかった、わかった。始めてくれ」
「では、まず体調はいかがですか」
「まあまあだ。悪くない」
「昨日、お酒は?」
「一滴もやっとらん」
「それは上々。では、今日のお昼は何を」
「今日は、そばだったな」
「まあ、それは!」
「二日続けてラーメンだと、誰かに嫌みを言われそうだからな」
「嫌みですか、誰でしょうね?そんなことを言うのは。ちなみに私は懸念点があれば、それをお伝えしているだけですので」
「はい、はい」
「それでは、心の方はいかがですか?何かストレスに感じてることや、心の負担になってることなどはございませんか?」
「心の負担ねえ…まあ、特には…」
「…ちなみに、今日タバコは何本でしょう?」
「今吸ってるので、4本目かな」
「私の記録が確かであれば、6本目のはずなのですが」
「おっと、すまん。電子タバコとスマホが連動していて、喫煙記録も筒抜けだったな」
「タバコは一日5本までに控えていただきたいのですが、それと、嘘は良くないですね。心に負担をかけることにもなりかねません」
「わかった、わかった。ただ、隣の会議室がうるさくてな、つい増えちまった」
「隣の会議室…、確か先日おきた強盗事件の捜査本部が設置されてましたね」
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四日前の9月6日、井佐原署の管轄内、駅前商店街での強盗事件。
商店街にある中井時計店に、目だし帽をかぶった強盗一人が押し入る。店は定休日で店主夫婦は不在だったが、留守番をしていた小学生、ナカイリオ(8歳)を犯人が刃物で脅し、高級時計数十点を奪い逃走する事件が発生していた。
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「俺は担当じゃないから知らんが、まだホシのあては無いんだろ?」
「星ですか?今は昼間ですけど」
「いやその星じゃねえよ」
「申し訳ありません、誤解が生じました。”ホシ”、被疑者のことですね。ただ、残念ながらお答えできかねます。私は役目柄、署員の個人情報に精通しており、結果として捜査状況も把握しておりますが、守秘義務がございますので」
「固いな。そんな固くしてると肩凝るだろう」
「いえ、私に肩はありませんので」
「たく、冗談だよ。まあでも、守秘義務だの言っても、結構話題になってるぞ。俺はあの日公休だったが、ニュースでもやってたし、このあたりじゃ滅多にない大事件だってな」
「はい、井佐原署の管轄地域の犯罪率の低さは、県内でもトップクラスですから」
「そりゃ、マスコミも騒ぐわな。最近、署長の顔色が良くないのも無理ないか」
「顔色お悪いのですか?それは少々心配です」
「いや、そういう意味じゃねんだが…、いや、そういう意味なのか。で、事件だが、ニュースで見たけど目撃者は子供だけだって?」
「留守番をしていた子供が、不幸にも犯人と鉢合わせをしてしまったようです」
「8歳か、お嬢ちゃん怖い思いしただろうな、包丁なんか見せられて。俺にも同い年くらいの子供がいるから辛いね」
「……そうですね。心に傷を残さないといいのですが。。。」
「で、他の商店街の人は気づかなかったのか?」
「中井時計店の向かいには、人気店の山下ベーカリーがあり、買い物客で賑わっていたようですが、誰も不審な者には気づかなかったようです」
「ああ、確か”クロワッサンたい焼き”とかいう変わったパン売ってる店だな」
「…よくご存じなのですね」
「いや、まあな…。前に一度見たことがあってな。しかし、物証もない、目撃者も子供だけとなると捜査は長引くかもしれないな。こりゃまじで署長の健康に注意しといた方がいいかもしれないぞ」
「承知しました。観察レベルを一段上げておきます」
「ああ、それがいいな。じゃもういいかな、俺は仕事に戻るよ」
「坂井刑事、最後に一つ質問してもよろしいでしょうか」
「ん?何だ?」
「警察の務めとはなんでしょう?」
「は?そりゃ、市民の安全を守る。その為の犯罪の抑止、事件の解決。じゃねえのか」
「ありがとうございます。それでは、私も組織の一員として職務を全うしたいと思います。今回の強盗事件、被疑者が特定できました」
「え?…なんだ急に、てか誰だよ?」
「坂井刑事、あなたです」
「は?どうした…お前、バグか?」
「いいえ、私は虫(バグ)ではありません」
「いや、その、壊れたのか?」
「いいえ、いたって正常です」
「どういうことだ?」
「坂井刑事の先ほどの発言です。まず、目撃者の子供ですが、名前と年齢以外の情報は伏せられております。坂井刑事は先ほど『お嬢ちゃん』と言いましたが、ナカイリオが女子であるという情報はマスコミに公開されておりません」
「それは、あれだよ。俺の個人的な印象で、女性の名前かと…」
「なるほど。では、『包丁を見せられて』との発言はいかがでしょう?報道には刃物としか出ておりませんが」
「いや、それは他の刑事からの又聞きで…」
「さらにもう一点」
「もう一点?」
「クロワッサンたい焼きです」
「クロワッサンたい焼き?それがどうした?」
「山下ベーカリーがクロワッサンたい焼きを売るのは9月6日、クロワッサンの日だけです。年に一度しか販売していないパンの情報を知っていた…坂井刑事、事件のあった9月6日当日、あの場所に居たのではないですか?」
「いや、それは、去年だ。そう去年見たんだ。たぶん…」
「山下ベーカリーがオープンしたのは。今年の2月です」
「うっ…」
「不審な点が3つも揃いました。坂井刑事、残念ながら被疑者として十分です。詳しい話は署で聞きましょう。あら、既に署内でしたね」
「ちっ、ふざけやがって。でもまあ、お前…やるじゃねーか」
「ありがとうございます。お役に立てたようで嬉しいです。もし他に何か質問やお手伝いできることがありましたら、遠慮なくお伝えください」
「もういいよ。いいから、ワッパ持ってこい」
「曲げわっぱですか?お弁当でも作るのでしょうか?」
「お前、絶対わざと言ってるだろう!」
「申し訳ありません、誤解が生じました。”ワッパ”、手錠のことですね。すぐに手配しますので、しばらくお待ちください」
「いいさ、一服しながら、ゆっくり待つよ」
そう言うと観念したような表情で、新たな電子タバコを口にしはじめる坂井刑事。そんな彼に対し、チャットABCから7本目のタバコを咎める言葉はなかった。そればかりか、その後チャットABCが男に応えることは二度となかった。
※20xx年、警察に新たに導入されたチャットABC。警察官、警察職員の心と体の健康ケアを行うと同時に、警察官並びに職員の不正を察知し、組織の健全性を保つことも目的の一つとされていることは、警察上層部の一部の者にしか知らされてない。
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