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1章
実家から持ってきた必要最低限の荷物は背中のリュックに詰まっている。家電を揃える資金はないが、どうにかなるだろう、多分。住む場所と働き口だけはあるのだから。
それ以外の荷物は休みの日にでも取りに来いと言われている。しかし、休みがいつなのかはわからない。
考えると不安になり実家へ帰りたくなってしまうので、咲良は極力何も考えないよう足を動かした。
真夏の太陽は容赦なく地表を照らし、アスファルトの照り返しも手伝い体力を奪う。
汗で前髪の貼り付いた額を手の甲で拭い、赤信号で一息つく。
不安よりも今は緊張感の方が強かった。知らない街で、知らない人に会いに行くのだ。働き口だけはある、と信じている咲良であるがそれが無くならない保証はどこにもない。
やはり不安も同じくらい大きいのかもしれない。
今から会う人物がNOと言えば途端に無職決定なのだから。
信号が青になる。横断歩道には咲良同様、色が変わるのを待っていた人達が一斉に動き出す。
徒競走のようだといつも感じる。そしていつも一番最後にゴールするのは咲良なのだ。
重い足取りは咲良の心中と似ている。
ここに至るまでの経緯を思い出しながら、先程よりも重いため息を吐いた。
***
「アンタ、一人暮らししたいって言ってたわよね」
3日前の夕飯時。肝っ玉母さん、という単語が似合う母、史緒里は咲良に視線を向け大声を出した。本人は大声と自覚していないが、とにかく地声がでかく良く通る。
独身時代は芸能事務所で働いていたなどと言っていたが、今はスーパーのレジ打ちをしている。
よく通る声は特売日などに店頭での賑やかしに一役買っているとかいないとか。
長身で体の厚みもある彼女は週末になると、バレーボールに勤しむママさんバレーボーラーでもある。
本人は高圧的に接している訳ではない。ただ声がでかく、ついでに態度もでかいだけだ。
いつもの事なので慣れているが、初見でこれは圧倒される人も少なくないだろう。
「……あぁ、うん……」
一人暮らししたいが、先立つものがない。
貯金もなければ、今は無職と言っていい。たまに近所でアルバイトをしているが、それで生活できる程の稼ぎはない。
食卓には高校生の妹と存在感の薄い父がいるが、二人が話に入ってこないのも常だ。だが、聞いてはいるようで動向を伺うように視線は母と咲良を往復する。
「住み込み、とはちょっと違うけど私の知り合いでハウスキーパーが欲しいって人がいてね、アンタ、ちょっと、行ってきてちょうだい」
「は?」
そこのスーパーまで醤油を買いに行ってきてちょうだい。というのと同じくらいのノリで史緒里は言う。
状況を飲み込めない咲良に構わず、史緒里は続けた。
「月曜日からだから、地図はあとで渡すわ、じゃあ、頼んだからね」
「ま、待ってよ、え?ハウスキーパー?なんで?」
「なんでって、アンタそれくらい出来るでしょ?暇なんだからお願いね」
「で、きる……?てゆか、ハウスキーパーって……掃除とか家のことやる人だよね……」
「そうそう、それ、アンタうちでも同じようなことやってるんだから、出来るでしょ」
「……」
そういう問題ではない。
働き手として行くのだ、それなりのレベルでないと相手だって納得しないだろう。
咲良と言えば、料理はアルバイトで培った経験があるので自信はあるが、それ以外の家事に関しては普通の主婦と同等がそれ以下だ。
とてもじゃないが、ハウスキーパーとして雇って貰えるレベルだとは思えない。
頭では分かっているが、いつもそうだ。反論したいのに言葉が出てこない。
それを納得したと思われるのもいつもの事だ。
妹はそれを情けないと言うし、父は同情するような目で見る。でも今回は違った。
「母さん、説明が雑だよ、もう少しちゃんと話てやらないと咲良も困るよ」
大柄な母と違い、小枝のような父から助け舟が出る。傍からは遠慮がちに話しているようにしか見えないが、父としては諭しているつもりなのだ。ついでに母もそのつもりで聞いているので、神妙に頷いている。
ギロリと大きな目を父の良照に向けたが、別に睨んだ訳ではない。やはり、傍からは食い殺そうとしているように見えるのだが。
二人のやり取りは険悪そうに見えるが、喧嘩をしている所を見たことは一度もなかった。
「そう?そうね、咲良もどんな所に行くのか知らないのは困るわよね」
豚肉の生姜焼きをご飯茶碗にのせ、白米と一緒にかきこんだ後、史緒里は思い出すように依頼主の話をした。
「20代……25か28……だったかしら、その位の男の人で、前のハウスキーパーのミツコさんは高齢で引退したんですって、で友達から誰かいないかって相談されたのよ、それなら咲良で丁度いいって思って行けるって言っておいたの」
「……お母さんまだ雑だよ」
「えー?そぉ?」
呆れた視線の妹が突っ込む。興味はあるのだろう、それでどんな人なの?と聞く。
「どんなって……なんか不定期の仕事をしてて、だから生活も不規則になりがちなんだって、部屋を片したりするのも面倒みたいだけど物が多い訳じゃないし部屋もそんなに広くないから掃除も大変じゃないって、洗濯物もそこまで多くないし、料理がそこそこ出来れば問題ないって、アンタ煮物とか作れるでしょ、煮物とか作れる人がいいんだって」
「……ふぅん……おにいの煮物美味しいもんね」
「そうだな、煮物作れる咲良にぴったりだな」
いや、まだ雑だろ、どんな人か全然分からない。無駄に前任の名前が出てきたが、今の説明だと25〜28歳の煮物が好きな面倒くさがりな男性としか情報ないぞ?褒められるのはうれしいけど。
「どんな煮物がすきなの?」
「えー、それは自分で聞きなさいよ」
「……よく、わからないけど……変な人とかではないんだよな……前にもハウスキーパー入ってたんだし……」
「変ではないけど、気難しい人みたい」
「は?嫌だよ、そんな所に行くの!」
「行ってよ、20日から行くって言っちゃったんだから、一人暮らしも出来るわよ、近くのアパート借りてくれるって、アンタの生活費は気にしなくていいって言うんだからいいじゃない、その上お給料貰えるのよ」
「……怪しくない?」
「怪しくないわよ、住み込みの家政婦なんだから待遇そんな感じでしょ」
「……給料は?」
そこで史緒里は口の端を上げニヤリと笑った。
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