1章

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 咲良は一軒家の前で立ち止まった。  地図に書かれた住所はここだ。でも、なんか思っていたのと違う。建物名が書いてなかったから一軒家だろうと思ったが、ハウスキーパーを雇う位だから豪邸とまでは行かなくてもその辺の家とは画するような家屋を想像していたのだが、咲良が見ているのはややくたびれた平屋だ。  提示されたバイト代は破格だったが、本当に貰えるのだろうかと心配になる程だ。  表札には篠葉の文字。間違えてはいない。  篠葉雷太(しのはらいた)という男性が雇主と聞いている。  ゴツゴツとしたブロックを積み上げた塀には、鉄製の黒い門扉がついている。表札は出ていたが、呼び鈴はなくアルミ製のポストの差込口がついているだけだ。 「こんにちは〜……」  ミンミンと蝉の音しか聞こえない。午前中の住宅街は思いの外静かだ。 「こんにちは!おじゃまします……」  最初は威勢よく挨拶したのだが、門扉の取っ手を押すと、呆気なく開く。鍵は掛かっていないようだ。 「おじゃまします……」  玄関まで行けば呼び鈴があるだろうと、咲良は敷地内に足を踏み入れた。  平屋までは大きな飛び石があり、それを渡ると直ぐに磨りガラスの引戸の玄関だ。  玄関左手には縁側があり、戸は開いているので回り込めば中の様子が見えそうだ。  縁側の前には小さな花壇と並びには畑があり、草などが生えていなことから手入れされているのが分かる。塀沿いに庭木が植わり、歩道からは想像出来ない程の緑があった。  呼び鈴はカメラ付の物で、そこだけ古い家屋にそぐわない。田舎暮らしを想像できる建物だが、ここは都内で住んでいるのは青年なのだから当然と言えば当然だろう。  白いボタンを押すとピンポンと大きな音が鳴る。  暫し待っても反応がないので、もう一度押した。 「こんにちは」  ついでに玄関内に向かい声をかける。  待っていると、ようやく中で人の気配がした。  緊張と不安で体がこわばる。どんな人物が出てきてもいいように、身構えながら待つ。  引戸に人影が見えたと思ったら、突然右側に戸が引かれた。 「誰……?」  出てきたのは咲良よりも一回り大きな男だった。  襟ぐりの伸びた白いTシャツに紺色のハーフパンツ、胸まである黒髪は服装に似合わず艶かだ。  見上げる咲良を、眼鏡の奥の胡乱な目が見つめてくる。 「あ、あの」 「新聞なら間に合ってるから」  ピシャリと戸が閉まる。  呆気に取られた咲良だったが、直ぐに我に返ると戸を開けた。鍵を閉められなくてよかった。 「あの、オレ、今日からハウスキーパーとして来たんですが……」  対応した男は既にそこにいなかった。  玄関の中は外気より数度低く感じる。三和土の先は廊下、右手に障子の部屋、左手は縁側。  男は直ぐに障子の部屋から顔を出した。 「は?……あぁ……ミツコさんの代わりか……」 「………」 「上がって」  それだけ言うと男はまた障子の部屋へ消えた。  この人物が雇主なのか名乗られていないが、前任の名前を口にしたので確信に変わる。  残された咲良はこれからこの人とやっていけるのか、不安しかなかった。 「おじゃまします……」  男のいる部屋に入ると、廊下と同じ飴色の板間でたぶん居間に当たる部屋のようだ。ひやりとした空気に無意識に息が漏れる。  入った正面に黒色の皮のソファー。そこに、男はだらしなく足を投げ出し座っていた。  ソファーの直ぐ側の床にはスマホやタブレットが無造作に置かれている。更にペッボトルが数本、脱ぎっぱなしのシャツにズボンが散乱し、お世辞にもきれいな部屋とは言い難かった。  入ってきた咲良に目をやると、面倒くさそうに口を開いた。さっきから無表情なので少し怖い。怒っている訳ではないだろうが、死んだように表情筋が動かない。 「今日からだっけ?」 「……そう、聞いているのですが……」 「ふぅん……まぁいいや、じゃあ、何か作って」 「……え?」 「ご飯作る人だろ?」 「え、あ、はい……えーと……キッチンは……」 「向こう」  向こうと言いながら指を指したのは隣の部屋だ。引戸で仕切られている次の間を開けると、板間が続き二人がけのダイニングテーブルとシステムキッチが見えた。 「えっと……何か食べたいもの……」  ありますか?と続けようとしたのだが、ソファーの下に無造作に放り出されていたスマートフォンが着信を告げた。  男は面倒くさそうにスマホを取り上げると、電話に出た。 「……もしもし……え?……そうだったっけ……うん……」  電話のやり取りを聞いているのも気まずいので、咲良はキッチンへ移動した。  こちらはエアコンの冷気が全くないので蒸し暑い。幸い扇風機が置いてあるので、料理をするときは使わせて貰おう。  何が食べたいか聞きたかったが、それよりも冷蔵庫に何があるのかを確かめる方が重要だろう。何か料理に使える物が入っていればよいのだが。  そう思いながら冷蔵庫に近付く。白い冷蔵庫は、ドアが一つに、その下に引き出しが二つ。冷凍庫と野菜室だろう。単身者にしては大きな冷蔵庫だ。  まずは扉を開ける。 「……」  ほぼ空と言ってもいい程に何もなかった。  入っているものはバター、6Pチーズの箱、いちごジャム。扉側は卵などある訳なく、麦茶のペットボトルと調味料がいくつか入っていた。  仕方ない。その下の冷凍庫はどうだろう。  せめて冷凍食品でも何かあればいいのだが。 「……まじか」  冷凍餃子が1パック。あとはファミリーパックのアイスの箱と、ラップに包まれた冷凍ご飯が二つ。食パンが二枚、これもラップに包まれている。  ご飯があるだけまだいいかもしれない、なんて思える程の備蓄だ。  残る野菜室も期待出来ない。だが、確認の為、最後の引き出しを開ける。 「……はぁ」  きゅうりとなすが一つずつ。あとワインボトルが一本。以上。  落胆しながら引出しを締めたのだが、ふと冷蔵庫横の段ボールが目に入った。腰を落としたままの体勢で箱の前に移る。  もしかしたら何か食材があるのでは?と微かな期待を込め、箱を開ければ。 「あるじゃん!」  じゃがいもが五個、小さめのかぼちゃが二個入っていた。何もないと思っていたが、これなら何とかなる。 「何かあった?」 「わっ?!」  背後からの不意打ちに咲良は飛び上がる程驚いた。キッチンへ来るとは思っていなかったが、そういえば電話の声はいつの間にか聞こえなくなっていた。 「あー、それ、ミツコさんが置いてってくれたやつだ」 「そうなんですか……」  また前任の名前だ。野菜が残っているのだから、直近までいたのだろう。できたら引継ぎがほしかった。  男はまたふらりとキッチンから出て行った。 「……」  いまいち掴みどころのない男だ。それが篠葉雷太への第一印象だった。
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