1章

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「あのー……」  男を追いかけるようにキッチンを出れば、男は部屋から出ていこうとしていた。背中に声をかける。 「あの、すみません」 「ん?あ、そうだ、やっぱりご飯いい、仕事だった」 「え?」 「帰ってくるまでに作って、えーと……」 「駒沢咲良(こまざわさくら)です」 「さくら……」  男の発音は桜の花の方だったが、初めて表情が動いた。よく見ればその顔は整っていて、眼鏡が邪魔して分からないがどこかで見たことがあるような気がした。 「さくら、ご飯作っておいて」 「……はい……」  今まで無表情だった男が急に笑みを浮かべた。穏やかで優しい笑みに、一瞬虚を付かれ答えるのが遅くなってしまう。 「ご飯……」  男が何かを言いかけると、玄関チャイムが鳴った。 「あ、やばい、着替えないと」 「え?」  さっきまでダラダラと動いていたというのに、ぱっと部屋から出ると勢いよく廊下を走り奥へと消えてしまった。  残された咲良はどうしたものかと思ったが、玄関チャイムがまた鳴り、続けて大声が聞こえた。 「ちょっと!いつも鍵はしておきなさいって言っているじゃない!ライ!時間よ!!」 「……?」  部屋から玄関へ顔を出すと、四十代位の紺色のスーツ姿の女性が立っていた。 「あの……すみません、いま着替えているみたいで……」 「あなたが……咲良くん?」 「はい……えっと……」 「史緒里にハウスキーパー頼んだのは私なの、よかった会えて、本当は事前に会いたかったんだけど昨日まで地方だったから……帰ってきたらちゃんとお話させてちょうだい、あ、私は宮城栄子(みやぎえいこ)と言います」  篠葉という男よりは話が通じそうだとほっとする。だが、母の友達というのが納得できる雰囲気の栄子に一抹の不安がよぎる。 「はい……」 「帰りは夕方……17か18時には戻ってくると思うわ、それまでは部屋の掃除とか……洗濯はどうなっているのかしら……もし、洗濯物があれば洗っておいてくれる?」 「はい」 「食事は……辛すぎないもの、野菜はセロリ、パクチーとか香りの強いものは食べないから……そうね、和食の方が好みね、できそう?」 「はぁ……たぶん……」  家でのやり取りに似ている。圧の強そうな所は母に似ていると思いはしたが、指示があるのはありがたかった。 「えーこさ〜ん」  長髪の黒髪は後で一つに縛り、半袖の白シャツにブラックジーンズという出で立ちで男は戻ってきた。  格好が変わったからか、さっきまでのだらしなさが消えている。 「あー!アンタ、髭くらい剃ってきなさいよ!!」 「えー、わかった」  素直に頷くとくるりと踵を返そうとするので、栄子が慌てて止める。 「時間ないの!!向こうでやるから早く車に乗って!!」 「はーい」 「ライ、家の鍵は?」 「鍵、あるよ」 「あるよ、じゃなくて、買い出し行ってもらわないとだろうから渡して」 「そっか……はい」  ジーンズのポケットから取り出したのは桜の写真が付いたキーホルダーだ。その先にはいくつかの鍵が付いている。 「私じゃなくて、咲良くんに!」 「はい」 「……え?……あの、これどれが……」  キーホルダーの先には鍵が三本付いている。困惑した顔の咲良にこれが家の鍵、と男は教えてくれた。 「それで、こっちが車の鍵」 「それはいいから!ライ!」 「はい、あ、そうだ、オレ、篠葉雷太」 「ライ〜!!自己紹介位先に済ませときなさいよ!!!」 「だから今してる」 「わかったわ、わかった、もういい、早く行きましょ」  疲れたような顔で栄子は雷太を急かす。  まだ出会って三十分と経っていないが、篠葉雷太という男はどうやらポンコツのようだ。あと、随分とマイペース。 「……じゃあ、悪いけど行くから、あとよろしくね!」 「はい……いってらっしゃい……」  雷太は咲良の顔を見ると、先程見せたような笑みを浮かべた。 「行ってきます」  その声はさっきまで面倒くさそうに話していた声とは違い、はっきりと意思を持つ力強い声音だった。  だから、何となく意外過ぎて、咲良は二人を呆然と見送ることしかできなかった。
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