―あるバーのエピソード―

1/1
前へ
/3ページ
次へ

―あるバーのエピソード―

 そのバーはJR神田駅のすぐそばにあった。その店は五階建ての古ぼけたビルの一階にあったが、二階より上とは趣の異なる雰囲気で、レンガ模様のタイルと合間に古ぼけた木目の肌が見える造りで、さすがにバーであるところの雰囲気を醸し出している。  店の名前は『ウインク』という。だからと言って、ピンクの店ではない。いかつい顔のマスターが一人いるだけである。マスターは少々頑固だが、人当たりについての評判は悪くなく、ある方面については結構なマニアでもある。それについては後々話すことになるだろうが、今は多少偏屈な男だと紹介しておこう。  また、この店の常連に緑川壮一郎という男がいた。きゃつは必ず週に一度は店に立ち寄り、お気に入りのウイスキーを飲んで帰るのである。店にはジョニーウォーカーやホワイトホースなど有名なスコッチが並んでいたが、きゃつはあくまでもバーボンを好み、ロックでチビチビ飲るのが好きだった。  同じく常連に筒井秀治という弁護士がいた。緑川ほどではないにせよ、月に二、三度は顔を見せていた。普段は緑川と筒井に接点はなく、特別なことがない限り、店の中でもさほど会話をする仲でもなかった。  特に互いの生業を知った後では、 「弁護士と探偵なんて所詮は水と油。いずれあい目見えるかもしれませんな」  などと、冷めた会話を交わす程度だった。昨年までは・・・。  ところが去年の秋、彼らを取り持つ縁が変わる事件が起きたのである。それはとても不思議な出来事だった。  プロ野球では、セパ両リーグの順位も確定し、そろそろ日本シリーズが始まろうとしていた。  大型新人が大活躍した東京シャインズとエースが堂々の実績を残した大阪ビームスとの対決となっていたが、筒井にも緑川にもさほどの関心はなかった。  そんなある夜。店には筒井が一人でたむろしていた。このところ割と暇な筒井は五時に事務員を帰すと、珍しく頻繁に店に顔を出していた。この日も暇を持て余す夕暮れにくだを巻きに来たのだ。  それは、筒井とマスターが景気の悪さと銀行の不甲斐なさを話題にしかけた時だった。不意にドアが開いて一人の女が店に入ってきた。  最近は女性客も増えてはきたが、女一人の客はまだ少なかった。その女は三十路を少し過ぎた頃であろうか、すっきりとした出で立ちの和風美人だったが、もうかなり酩酊しているようだった。女はフラフラとした足取りで筒井が座っていたカウンターの二つ隣の席を確保すると、おもむろにジョニーウォーカーのビンを指差し、 「あれをダブルで」  と、マスターに言った。 「おねいさん、もうかなり飲んでらっしゃるようですが大丈夫ですか?」  マスターも心配そうに声をかけたが、女は返事をすることなく、塞ぎ込むように顔を腕の中に埋めた。  ここは場末の酒場ではない。やけ酒を煽るにはあまり似つかわしくない店である。マスターとしても多少迷惑に感じる節があったのだろう。 「ますばこれをお飲みなさい」  そう言って、グラスに半分ほど注いだ水を女の前に差し出した。  女はそのグラスを抱え込むようにして飲み干し、空になったグラスをマスターに差し出すと、再びジョニーウォーカーのビンを指差してダブルでくれとねだった。 「よかったら、一緒に飲みませんか」  そう声をかけたのは筒井だった。最近は暇なので多少の拗れた問題にも付き合えそうだし、仕事になるかもなどという、半ば卑しい気持ちもあったことは否めない。 「アンタだれ?」  女は空になったグラスを握りしめたまま筒井の方に向き直った。 「なんだか荒れてらっしゃるようなので、よかったら少し話してみませんか?少しは楽になるかもしれませんよ。もしかしたらお役に立てるかもしれませんし」  と、言って筒井は懐から名刺を取り出して女に渡した。  女は食い入るようにその名刺を凝視していたが、やがて顔を皺くちゃにして泣き出した。女の急な変わりように筒井は驚いた。 「どうしたんですか」  筒井はグラスを握りしめていた女の手にそっと自分の手を重ねてみた。すると女はボロボロと涙を流しながら話し始めた。 「騙されたんです、信じていた友人に。何もかも取られてしまって。お金も恋人もマンションまで」 「私は弁護士です。詳しく聞かせていただけますか」 「でも、お金がないので、お礼のお支払いはできませんけど」 「そんなものは成功報酬で構いませんよ。ちょうど今日、私も体が空いたところですから」  筒井が笑顔で答えると、安心したのか、女は自身の生業から話し始めた。  まず女は自らを長野美月と名乗った。秋葉原に事務所を構えていた小さな音楽プロダクションを経営していたようだ。タレントは若くて才能がある無名の音楽家たちであり、彼らの技量に合わせて各方面のリサイタルやイベントなどに出演させる。そんなプロモーターのような仕事内容だった。大きなプロダクションのようにテレビやラジオへの出演依頼はあまり扱いがなかったが、音楽家専門のプロダクションということで重宝されていた。  美月が社長として事業を立ち上げたのは四年前。以前から個人で活動していたマネージメント事業がようやく軌道に乗った時、さる楽団の取締役が出資者となり、今の会社ができたという訳だ。  美月には吉井雄太郎という恋人がいた。あるコンサートで隣のシートだったのが最初の出会いだった。吉井が手元のコーヒーを溢して、美月のスカートを汚してしまった。お詫びにと食事を共にしたのが彼のナンパの手口だったとは知る由もなかった。  その時に連絡先を交換し、後日何度か食事会を重ねた。美月も二人だけで会うことは極力避けたが、いずれは吉井の情熱に押され、つきあうこととなったのである。  彼は全国でも有名な大手企業に勤めているという前振りだったが、つい最近になって、それが嘘だったと知ることになった。  そのキッカケとなったのがつい三日前にあった事件だった。  この春から音大を卒業した新しい音楽家がぞくぞく加盟してきたので、そのやりくりに奔走していた美月は、つい先週、さる楽団に派遣した女性バイオリニストから入ったクレームによってその事件が発覚したのだ。  その顛末というのは、ある若手バイオリニストが聞いていた現場に行くと、美月の代理だという人物がいて、急きょ現場が変わったと言われてタクシーに乗せられた。行った先がAVの撮影現場だったため、隙を見て逃げ出してきたのだと言う。  美月はすぐさま契約先のプロモーターに連絡したが、契約の変更については事務所の矢口奈美から連絡があったと聞き、確認したところ、吉井も現れてことの真相を聞かされることになったのだ。  事業化した頃から美月の片腕として働いていた矢口奈美という女が吉井と結託して、美月の追い出し工作を行っていた。さらには勝手に役員会を開催し、他の役員を懐柔して会社を乗っ取っていたのである。 「お前は仕事ばかりで、オレを蔑ろにした。奈美はそんなオレをちゃんとケアしてくれた、生活も仕事もな。会社の登記は全てオレの名義に変更した。その上でKプロダクションに身売りしてやった。これからはオレもそこで奈美とやっていく。お前はもういらないんだよ」  そうした吉井と矢口の動きに全く気付かず、美月の会社の名義を勝手に変更して、丸ごと大手のプロダクションに売却してしまったということらしい。  吉井は奈美を抱き寄せて美月の目の前でこれ見よがしにキスして見せた。 「もうあなたの居場所はないのよ。ああ、あなたのマンションも会社名義で買い取って、もうあなたの家じゃないからね。荷物は三日以内に片付けてね。来週には売却する予定だから」  奈美は無表情のまま冷たく美月に言い放った。  気持ちの整理がつかぬまま、マンションにたどり着いた美月はポストの中に退去命令の通知を見つけた。なすすべもなく荷物をまとめ、今はホテルに身を寄せているという。  あてもなく、ただ漠然と酒を煽る日々が続いた。この日も投げやり気味に飲み歩いているうちに、取引のあった楽団のマネジャーに連れられて来たことのある、この店を思い出してフラフラと入って来たということだった。 「大丈夫。おそらくマンションの方は取り戻すことができるでしょう。でも会社の方はもう少し調査が必要ですね。そうだよね緑川くん」  いつの間にかカウンターの一番奥のシートに陣取って、聞き耳を立てていたことはなんとなくわかっていた。彼が店に入って来たのは、美月がちょうど事件のことを話し始めた頃だった。それからしばらく、いつものシートで気配を消しながらたたずんでいたのである。 「もしかしたらキミの出番かもよ」
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加