秘密

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 ――『川田直次郎中尉殿 昭和二十年七月二日沖縄喜屋武(きゃん)岬に於て壮烈な戦死をとぐ、謹んで哀悼の意を表す』  学校から帰ると、ちゃぶ台に一枚の紙が乗っていた。その側で母さんが背中を丸めてじっと畳の目を凝視していた。 「母さん、これ……」 「さっき、届いたんよ」  けたたましい蝉の声にかき消されそうなほど小さな声で母さんが呟いた。 「とうとう直次郎まで帰ってこんかったわ」  終戦から一年も経って、突然こういう広報が届くことは珍しいことじゃない。この辺りでも戦地から戻って来たのは数人だけだったし、戦死者と不明者は山ほどいた。それでも僕は、あんなに頑丈な兄が死んだなんて信じられなかった。  体のどこかしこも青白く細い虚弱な僕とは違って、背の高く太い骨組みの兄さんは大木のようだった。冬でも真っ黒に日焼けしていて、大きい口を開けて笑うとあたり一面が光るような人だった。初めて母さんに紹介されたときはぎゅっと吊り上がった目もとが怖くて、でも兄弟になったらすぐその奥の瞳を好きになった。好きになり過ぎた。そんな僕の気持ちを打ち明けたのは兄さんに召集の赤紙が届いた夜で、兄さんは黙って抱きしめてくれた。そうして僕たちは仄かな秘密を持ったのだ。 『最悪のときは泳いで帰って来るよ。俺は泳ぎが得意じゃから』  あのときそう言って笑った兄さんは、白木の箱になって帰って来た。  母さんが熱を出したのはその日の夜だった。 「……すぐによくなるから。心配せんで」  最初は大丈夫だと気丈に言い張っていた母さんも、夜半過ぎには高熱で朦朧とし始めた。ゼイゼイと喘ぐ息も荒い。僕は不安と焦燥にかられて、母さんの枕もとから動けなかった。  兄さんが死んだという知らせを受けてから、母さんの体からはごっそりと何かが抜け落ちてしまった。食べることも寝ることもあまりしなくなり、何時間も虚空を見つめていることさえあった。僕はそんな母さんが心配で仕方なくて、また同時に不思議だった。どうしてそんなに簡単に兄さんの死を信じることが出来るのだろうか、と。  確かに死というのはとても容易いものだ。何気なく踏み出した一歩が死への落とし穴だったというのはよくあることで、はっと気が付いた時にはもう手遅れなのだ。いくら抗っても、人間ごときにどうにか出来るものじゃない。  そうわかってはいても、なぜだか僕は兄さんの死を信じることが出来なかった。ひょっこり戻ってくるような気がしてならなかった。  「ただいま」と玄関が開き、兄さんが顔を出す。あの分厚い手のひらで僕の頭を撫でまわしてくれる。そして……。僕の想像はいつもそこで終わりだった。  たとえ兄さんが帰って来たとしても、僕たちの仲はどうにもならないだろう。兄さんはただの正しい兄さんに戻って、きっとあの夜の秘密は跡形もなく消えてしまう。それでも僕は良かった。兄さんが生きて帰ってきてくれれば、本当に、それだけで良かったのだ。  ふと母さんが目を開けたのは明け方近くのことだった。うつろな目で天井の一点をじっと見据えている。その異様な様子に声をかけようとしたとき、母さんがゆっくりと口を開いた。 「幸せになりぃ、吉行。俺のことは気にせんで」 「……え?」  耳を疑った。母さんの口から零れた声は、間違いなく男のものだったのだ。呆然とする僕の前で、また母さんの口だけがぱくぱく動く。 「約束……守れなくて悪かったなあ。泳ぎなら得意じゃったんだけど、駄目やった」  その言葉に僕は思わず後ろに尻もちをついた。 心臓が痛いほどに打って、体がガタガタ震える。後ずさって狼狽える僕の足元に、母さんの小さな声に落ちる。 「生きなきゃいけんよ、死ぬまではなあ」  母さんはそれを最後に、目を閉じ静かに寝息を立て始めた。  ――――誰だ。  今の声は誰だ。母さんじゃない。  『約束』? 『泳ぎは得意』? そんなことを言うのは一人しかいないじゃないか。  僕は這いつくばりながら母さんの部屋を出た。よろよろと廊下を進み、茶の間の仏壇の上に置かれた白木の箱に縋りつく。  違う、兄さんのわけがない。だって兄さんは死んでない。さっきの声だって、こんな箱だってみんな偽物だ。  震える手で箱を開けた。中から出てきたのは、『陸軍大尉川田直次郎の英霊』 と書かれた紙一枚だけだった。 「これ、だけ……?」  目からはボロボロと涙が溢れ、食いしばった歯の間からは嗚咽が漏れた。  兄さんのあの明るい瞳は、分厚い手のひらはどこにいったのだ。温かな腕は。あの夜僕が頬をくっつけた力強く脈打つ心臓は。  兄さんは死んだ証拠さえ残してはくれなかった。胸を引き裂くような痛みと、支えきれないほどに重い秘密だけを僕に預けて、何も残さず消えてしまった。  それなのに兄さんはなんて酷い人なのだろう。こんなものを抱えて、それでも生きろと言うのか。そんなの無理だ。だけど兄さんがいなくなった今、この秘密の重さといとおしさを知るのは僕一人きりだった。  這いつくばる僕を前に、さあっと障子の向こうに日が差し始めた。斜めに差し込んだ光の筋が、畳の上を滑る。暗闇を押しのけて、生まれたての光が世界に満ちていく。  夜が明ける。いつもと変わらぬ朝が来る。   ー了ー
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