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「あんたたち、自分の気持ちに素直になりなさいよ。本音を自分から引き離すなんて、何のために生きているの。子どものため、仕事のため、誰かのため……それって、他人に責任を押し付けているだけだから」
(大切な人に迷惑がかかるから、感情を抑えることだってあるんだけどな)
不倫がしたいわけじゃない。一度きりの人生で、男性経験一人ってどうなんだろうって思っているだけ。女子会の話題についていけないだけ。自分の性欲をよく知らないだけ。夫が一番相性がいいと、確認したいだけ。子どもを不幸にしたくないだけ。
もし、この出来事が絶対に漏れ出さないのであれば。あわよくば……の気持ちが私の中で膨らんでいく。こんなチャンスは二度と巡ってこないからこそ、期待してしまう。
(マサヒロさんは、どんな気持ちかな)
私はちらりとマサヒロさんを見た。視線が合うと、目を逸らす。
「あっ、すみません」
「いえっ。僕のほうこそ」
私は熱くなった顔に手を団扇のようにして風を送った。その行動は、シンさんのニヤニヤを助長させる結果になった。
「やだ、もう、いい年して初々しいわねえ。あんたたちの気持ちは何となく察したから、とりあえずついてきなさい。あ、ココ、お留守番よろしくね」
手際のいいシンさんに上着を羽織らせてもらい、私たちは外に出た。
二十三時を過ぎているとはいえ、まだ営業中の店があってもいい時間帯のはず。周囲の電気は消え、街灯の明かりだけがホタルのようにぼやけていた。
朝より夜のほうが涼しいのは確かだけど、こんなに肌寒い季節だっけ。
「あっ、タクシーっ」
案外、あっさりとタクシーは見つかった。シンさんはタクシーに駆け寄って止めると、運転手さんと親し気に話し出した。シンさんは助手席に乗り込み、後部座席のドアが開く。
「さあ、早く乗りなさいよー」
私たちは、ここで走って逃げ出すこともできたのに。
誘惑に勝てず、タクシーに乗った。
「怖い、よね」
「そうですね」
「僕も」
私たちは照れ笑いと苦笑いの半分の表情。
この先の妄想が止まらず鼓動が高鳴る。逃げ出すことのできない密室空間で呼吸も苦しい。マサヒロさんは私の手を静かに握った。
「ああっ」
エッチな声が出て恥ずかしい。私は顔を真っ赤にして俯くと、マサヒロさんは私の手を力強く握ってくれた。
「大丈夫です。僕、童貞ですけど、本当に童貞を捨てたいとか思っているわけじゃなくて、もう少し話したかったというか。この年になると男女のいざこざを色々と聞きます。僕は、そんな世界で耐えられそうにありませんけど、相談相手としての評判はいいですよ。そんな生々しい他人の人生を聞いていると、童貞なんてどうでもよくなります」
そうかもしれない。
私の周りでも、堂々と不倫していたり、マッチングアプリでサクッと性欲を発散させる人がいる。そういう人たちに限って夫婦関係が良好だ。そんな浮かれた話を聞き流してくれる相手は、重宝されるだろう。
「ただね」
「えっ」
マサヒロさんは、声を震わせて話を続けた。
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