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5. 海へ行くバス
この町は海が近い。駅に降りたってすぐ海の見える場所に出られる。でも、市街地に近い半島の内側は工場や倉庫が数多く立ち並んでいて、人が海の近くまで立ち入る事は出来ない。
いわゆる海、というイメージの、砂浜とか長い堤防とかそういう感じのところに行くには、僕の住んでいるあたりを突っ切って、半島の外側に行かなければならなかった。町の中心地から車で二、三十分くらいとはいっても、自転車が足の、地元の高校生にとっては頑張らないと行けない距離だ。僕もよく、通学大変だね、と言われる。多分この町に住む大半の人にとっては、海は身近にあるけど、行くのはなんとなく遠い、という場所なのだと思う。
「こっちに行くバスに乗ったの初めてだよ」
国道沿いのバス停に先に着いていたスイが、ちょっと目を輝かせている。
駅前から海に向かって出ているバスの乗り場をスイに教えて、僕は自転車で後を追いかける事にした。自転車を後で取りに行っても良かったのだが、夏休みも終わるし、自習コーナーにまた行くかどうかわからないとも思ったので、それはやめにした。
それに、バスに二人で乗って、何を話せばいいかわからなかった。よく考えると、シュウの知り合いとはいえ、今日初めて話した男を、なぜ家へ招く羽目になっているのだろう。
解せない思いのままバスを追いかけてきたが、小さな旅を楽しんでいるようなスイがバス停に立っているのを見て、まあいいか、という気分になった。
「せっかくだし、海見に行く?」
また、まるで女の子に言うのと同じセリフを言ってしまい、苦笑いする。
「そうだね、せっかくだし」
後ろを着いてくるスイの表情は見えない。
自転車を引いて見慣れた細い道路を進み、アパートに到着する。
「うち、ここ。ちょっと待ってて」
スイを集合ポストの前に待たせて、自転車置き場に回り、一旦家に入る。鍵はかかったままだったので、母もシュウもいないようだ。トートバッグをその辺に投げ、壁に掛けてあった綿シャツを二枚下げて外に戻る。
「はい」
「これは?」
「海風除け。良かったら使って」
スイはこちらが差し出したシャツを手に取って、へー、と、なにか感心した様子だった。
バス停からのよりもさらに細い道を裏手に進むと、子どもの頃から半分壊れたままの簡素な柵があり、その先は道路の舗装がなくなっている。砂利が多く、足が重たくなるのがもうすぐ海である合図だ。
「海だ」
スイが思わず息を飲むのが聞こえる。
……ああ。
僕はこの、人が海を見て無邪気に上げる声や、吐息の音を聞くのが大好きなんだ。今さらながらそれに気付く。だから僕はこうやって、人を海へ招き続けているのかも知れない。
お客が海を満喫するのを邪魔しないよう、離れて、ほとんど砂利の浜辺を歩く。遊泳禁止区域のこの辺りは、八月だというのに遠くにサーファーが見える程度で、ほとんど人影はなかった。
そういえば自分も海へ来るのは久しぶりだ。そうか、気分転換に何をしようかと思ったけど、ここに来れば良かったのか、と思う。高校生になってからは、気を使う相手とばかり来ていたから思い浮かばなかったのだ。
子どもの頃は一人で行ったら危ないと、祖母がいつも着いてきてくれていた。風よけに何か羽織るのも、祖母や母に必ずされていた事だ。
黙って海を見る。女の子たちは傷ついていると言い、ここで海を見ていた。
スイの羽織っている綿シャツが、コマ送りのように、バタバタとはためいている。
見えづらくて目を細めるけれど、いつものような効果はない。
その風景はぼやけたままで、近くばかり見て目が悪くなった僕には、よく見ることが出来なかった。
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