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「おい、卯月」
そのとき、背後から部長の声がかかった。
未桜はびくっとして振り返る。
「さっきの電話、辰巳先生か?」
「は、はい。サンプル送付の件でやり取りしてまして……」
「この間、L社の話は聞けたのか?」
飲み会の翌日、部長から何も言われなかったので、指示を忘れてしまったのだろうと安心していたのだが、やっぱり忘れていなかったらしい。
未桜は一気に緊張して、デスクの下で服のすそをぎゅっと握った。
「いえ、それが……辰巳先生は酔っぱらってしまって、何も聞けなくて……」
辰巳先生の企みに従って、事実の通りに報告する。
畑野部長はじとっとした目で未桜を見て、眉間にしわを寄せた。
「怖気づいて、聞けなかっただけやないのか?」
「聞いてみたんですけど、サトウキビのお話などをされるばかりで……」
部長はいかにも疑わしげに未桜を見たが、未桜も嘘はついていないので、堂々と部長を見返したら、「ふん、しゃあないな」と鼻を鳴らして納得したようだった。
去りかける部長の背を見ながら、未桜は安堵して、心の中で「先生、ありがとう」と感謝した。
だがそのとき、部長が急に振り返って未桜の机に戻ってきたので、未桜は再びぎくっとして背筋を正した。
「そういえば、前に頼んだ資料はどうなった?」
代わりに、別件のことを聞いてくる。未桜はさっと青ざめて、あわてて謝った。
「す、すみません。今やっているところです」
膨大な資料の中から目的のデータを探して整理する、という仕事を言いつけられたのだが、まだ終わっていなかった。
確かに部長からは、今日までにほしいと言われていた。でも、頼まれたのは一昨日で、そんな数日で終わりそうな量じゃなかったのに……。
「それじゃ困るよ。明日には必要な資料なんだから」
「は、はい。できるだけ早く仕上げます」
「できるだけ早く、じゃなくて、何時に終わるの?」
未桜はあわてて壁の時計を見た。今はすでに15時。残業したら、今日中にできるだろうか……。他の仕事だってあるけれど……。
「きょ、今日中には……」
部長が舌打ちをしたのが聞こえて、未桜はびくっと肩を震わせる。
「本当に使えないな」
その後もしばらく、部長は未桜の仕事ぶりのことをあれこれ指摘して、三十分近く説教をしていた。その時間があれば、仕事ができるのに……なんて言うわけにもいかなくて、未桜はただただ、我慢してそれを聞いていた。
他の社員は、とばっちりを喰わないように、顔を伏せて仕事に集中しているフリをしている。
やっと部長が自分の席へ戻っていったときには、あまりに理不尽で悔しくて、泣きそうだった。
「なんで私ばっかり、言われないといけないのかな」
未桜はしばらく、パソコンの画面を見ながら、じっと涙をこらえていた。
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