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お会計を済まし、辰巳先生がお手洗いに寄っている間、未桜たちは店の前で待っていた。
「おい、卯月」
畑野部長に呼ばれて、未桜はびくりとして振りかえる。
「教授をホテルまで送っていけ」
「え……わ、私がですか?」
「察し悪いな。こういう役は、女がやるもんや」
それから、畑野部長はぐっと近づいてきて、小声で言った。
「教授は、L社とも共同研究している。さりげなく、情報を引き出しいや」
L社は業界でも一、二を争う大手で、うちのような小さな会社は、その動きに注目せざるを得ないのだとか。でも、他社の情報を引き出すなんて、いいのかな……。
「それとなく、バーにでも誘うんや」
そ、そんなことできませんよ、と口まで出かかったが、部長にきつく睨まれて黙り込む。
「お待たせしました」
辰巳先生が店から出てきた。
畑野部長が、愛想よく先生に話しかける。
「私たちはこれで失礼しますが、方向が同じなんで、卯月にホテルまで送らせますわ。道に迷いはってもいかんので」
「そんな、お気遣いなく」
辰巳先生は断ったが、部長がしつこく言うので、最後には折れてしまった。
ちょっと困った顔の辰巳先生と、おどおどした未桜。
微妙な空気のまま、二人は一緒に歩きはじめた。
未桜はなんとか先生と会話を続けながらも、部長の指令が頭を離れない。
先生のホテルまでは十五分ほど。未桜はその途中にあるバーを思い浮かべたが、本当に誘うかどうか、躊躇っていた。
でも、絶対に、明日になったら部長に「どうやった?」と聞かれるに違いない。誘わなかったと知ったら、どんな仕打ちをうけるか……。
やがて、知っているバーの看板が、道の先に見えてきた。
もう後はない。未桜は勇気を振り絞って、口を開いた。
「あの……あそこのバーには、珍しいお酒が置いてあるんですけど……よかったら、寄っていきませんか」
実のところ、未桜はそれほどお酒に詳しいわけではなかったが、以前主任がそう言っていたのを覚えていた。さっきの飲み会の様子を見ても、辰巳先生はお酒が好きみたいだし……。
だけど、情けないことに声が震えてしまった。変に思われそうで、先生と目を合わせられない。
「バーですか……」
辰巳先生の声には、不信がるような響きがあった。
ああ、不自然すぎて、怪しまれてしまった……。
なんだかもう、やりきれなくて、涙目になりそう。
「いいですね、入りましょうか」
「え?」
それだけに、先生の意外な返答を聞いて、未桜は目をぱちぱちさせてしまった。
すると、辰巳先生がいたずらっぽそうな笑みを浮かべた。
「おや、卯月さんが言い出しっぺですよね?」
そして、未桜がまごまごしているうちに、辰巳先生は迷わずバーの扉を開ける。未桜は慌ててその後を追った。
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