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   トラックの事故が起きた六年前、獣医さんのお話によると、ライカはもう10才か、それ以上の年と言うことでした。    犬は人間の7倍の早さで年をとります。だとするとライカは、人間の年で言うと110才をすぎたおばあちゃん。    だから、目や足が弱くなっても仕方ないとタカシは思うのです。    タカシ一人なら10分で帰れる公園まで連れて行き、一時間かかってしまうのも全然つらくないのです。    だけど、もう長く生きられないという獣医さんの言葉は信じたくありません。    時々、夜中に目を覚まし、月へ向かって吠えるライカはとても寂しそうで、聞いているとタカシも泣きたくなってしまうのです。 「まだ、さよならなんていやだよ」  そうタカシがライカの耳元でささやくと、また茶色い頭が持ち上がり、くうんと鳴きました。    つけたままのテレビでニュース番組が始まり、画面に月が映っています。夜空に浮かぶお月さまではなく、灰色の大地がどこまでも続く、本当の月の景色です。   「ほら、見てごらん、ライカ。お前の妹が、あそこでお仕事しているぞ」  白くにごった瞳で、どれくらい見えているのでしょうか?    クレーターという大きな月のデコボコの上、ヒョコッ、ヒョコッと車輪がついた四本の脚を器用に動かし、犬とそっくりな小型ロボットが進んでいきます。    その後ろには日本が打上げたロケットの月面着陸機があり、胴体に日の丸の旗も描かれています。    タカシには、研究施設の中で飛び上がってよろこぶお父さん、お母さんの顔が見える気がしました。  ロボットの名は自律AI型無人探索機・MSD505。    他の国に比べて遅れがちな月の開発計画を日本が進めるため、タカシの両親の手で何年もかけて作られたもの。    月に降り立ったロボットを今日はじめて動かすのだそうで、お父さんたちは朝早くから出かけていました。    むずかしい名前ですが、もう一つ、お母さんがつけてくれたロボットのあだ名なら、タカシも良く知っています。    ライカⅡ。    今、タカシのとなりにいる大事な友だちからもらった名前。   「機械の体をしたライカの妹と、私たちは思っているのよ」  そうお母さんはタカシに言い、あだ名をつけるのは開発者のトッケンだといばっていたけれど、それだけではありません。    実は、「ライカ」は宇宙を目指す人なら誰でも知っている特別な名前でもあるのです。  タカシはクッションの横に伏せられている大きな本を取り上げ、ライカの前に広げました。    それはタカシの一番のお気に入り。    銀河や星々の写真、イラストがたくさん入った宇宙飛行士についての本です。    宇宙の研究をするお父さん、お母さんみたいな科学者はすごいと思うけれど、タカシの夢は自分が宇宙へ行くこと。    月や火星の大地を歩き、そこから地球がどう見えるか、確かめてみたいのです。    だから、長い時間をかけて積み上げられた宇宙飛行士たちの冒険物語は、何度読んでもワクワクさせてくれるのですが……    中には悲しいお話もあります。    たとえば、宇宙へ行って、そのまま帰ってこられなかった動物たちの物語。  最初に宇宙へ打ち上げられたのは小さな虫で、次はハツカネズミです。    大きな動物の最初は、アメリカのV2ロケットに乗せられたアルバート二世というアカゲザル。    その後、衛星軌道という重力の外側、もう下へ落ちる事のない高さへ初めて達したのはロシアの犬でした。    今から60年以上前の1957年、スプートニク2号で地球の衛星軌道をまわり、大気圏の外から地球の青さを初めて瞳に映した犬こそ「ライカ」です。    その名は宇宙の開発史へ永遠に刻まれたけれど……    当時の技術では、ライカを地球へ戻してやる事はできませんでした。    苦しまずに死ねる薬を犬用の宇宙服にしこみ、地球から操作して、しずかに命を終らせるしかなかったのです。    息絶える間際、もう戻る事はできない故郷の大地を、スプートニク2号のライカはどんな思いで見つめていたのでしょうか?  タカシの去年の誕生日、初めてお父さんはその話をしてくれました。 「宇宙開発のためとはいえ、命を犠牲にして研究を進めた罪をおれたち科学者は忘れちゃいけないんだ」  そう話すお父さんが、とてもつらそうな顔をしていたのを、タカシは覚えています。   「おれたちのライカが大けがした六年前、こわれた銀の首輪を見て、元の飼い主はおれと同じ研究をしている人かと思ったよ」  まだ目があまりにごっておらず、今より元気だったライカも自分と同じ名をした犬の物語に何を感じたか、鼻をクンクン鳴らしていました。 「自分の愛犬に、初めて宇宙へ行った犬と同じ名前をつけ、首輪にきざんで敬意をあらわしたんじゃないかな」 「だったら、なぜ、お父さんが飼い主を探している時、出てきてくれなかったの?」 「それはわからないが、その人にも何か特別な事情があったのだろう」  けがした犬を放っておく事情なんて、タカシはわかりたくもなかったけれど、そんな気持ちを口にしませんでした。  でも、今は知りたい。  ライカがタカシを事故から救ってくれるまで、どこで何をしていたか、知りたくてたまらないのです。  大事な友だちとサヨナラしなければならないとしたら、その時がくる前に。
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