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『信長公記』より抜粋、省略かつ簡易訳
「元亀元年
信長は越前へ入り、朝倉方の城をいくつも攻め落とした。
さらに攻めのぼろうへという時、耳を疑う知らせが届いた。同盟を組んでいたはずの浅井長政が裏切り、朝倉方についたという。
当初、信長はこの情報を信じなかった。浅井は婚姻を通じてしかと結びついた縁者であり、しかも江北一帯を預けてもいる。不足のあるはずがなく、虚説に違いない、と。
しかし続々と同様の注進が届き、浅井離反が事実であることは疑いようがなくなった。
信長は越前から退いた。激しい追撃を受けつつ駆けに駆け、京への撤退に成功した。」
「天正元年
織田方は小谷城を攻略し、浅井久政の籠もる小丸を攻め落とした。久政は切腹。
翌日、信長はみずから兵を指揮して京極丸を攻め、最後の抵抗を続けていた浅井長政も自害した。
小谷城は落ちた。浅井父子の首は京に送られ、獄門にかけられた。元亀以来、浅井に苦しめられていた信長は、ここに恨みを晴らすこととなった。」
「天正二年
正月元日、岐阜には諸将がこぞって年始の挨拶に訪れた。
盛大な宴が終わると、信長は馬廻衆だけを残し内宴を行った。
その席で、実に珍しい肴が供せられた。
朝倉義景
浅井久政
浅井長政
三つの首級を薄濃※にして、白木の台に据えたものが宴席に置かれたのだ。
宴は謡や遊興で盛り上がり、大変めでたく、信長も満悦の様子であった。」
※薄濃……頭蓋骨に漆を塗り、金粉を施したもの。
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