プロローグ

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(ばく)っ!」  どこからか空気を引き裂くような凛とした声が聞こえてきて、目の前の鬼はピタリとその動きを停止させた。まるで金縛りにでもあったように、微動だにしない。 「やれやれ。不法侵入した挙句、人間界で人を(おそ)うなんて重大な違反行為ですよ。言い訳を聞く気にもなれないな」  ザリ、ザリと砂を踏む音と共に、呆れたような呟きが聞こえた。どこからともなく現れたその男は、深い紫色の装束(しょうぞく)を揺らしながらこちらに近付いてくる。赤鬼は目玉だけをギョロリと動かして、その男を鋭く睨み付けた。 「うるせぇな! オレは天下の赤鬼様だぞ!? 鬼が人を襲って何が悪いっつーんだよ! 人間如きが指図すんじゃねぇ!!」 「でも、違反は違反ですから」 「だいたいオレ達は協定に同意なんかしてねぇよ! あんなもんは無効だ、無効!!」 「はいはい。文句は戻ってから言いなさいね」  男は右手の人差し指と中指の二本を顔の前に立てると、目を閉じて口を開いた。 「(われ)(みちび)く者なり。この世ならざる赤鬼よ、(おのれ)()るべき世界へ戻りたまえ。……(かん)っ!!」  呪文のような言葉を唱えると、目の前の空間が突然ぐにゃりと歪んだ。同時に、黒い穴のようなものが渦を巻きながら浮き出て来た。それは赤鬼の体を掃除機のように吸い込んでいく。  赤鬼は抵抗しようとするが、動きを封じられているせいで力が入らないようだった。綱引きで負けそうなチームのようにずるずると引っ張られ、あっという間に体の半分が穴に吸い込まれていた。男は冷めた目でその様子を見ている。 「クッソ! テメェ……覚えてろよ! この腹立たしい送還屋(もどしや)めぇぇ!!」  血を這うような低い叫び声を残して、赤鬼は黒い穴の中にすっぽりと吸い込まれてしまった。同時に黒い穴もきれいさっぱり消え、歪んでいた空間もすっかり元通りになっている。赤鬼の姿ももちろんない。残されたのは幼い少女と、装束姿の男だけだった。少女は大きく見開かれた目でパチパチと瞬きを繰り返す。……今のは、なに? 「さてと。可愛いお嬢ちゃん」  男は少女に手を差し伸べる。ためらいながらも、少女はその手を取って立ち上がった。足はまだ震えていた。 「怪我はないかい?」 「……うん」 「よくがんばったね。えらい、えらい」  ふわりと頭をなでられる。男の手のひらはじんわりと温かくて、少女の目からは大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。 「いいかい? 今見た事はぜんぶ忘れるんだ」 「……わすれる?」 「そう。赤鬼に追いかけられたことも、ここで私に会ったことも、ぜんぶ忘れるんだ。怖いことを思い出すのは嫌だろう?」 「……うん。でも、」 「忘れた方がお嬢ちゃんのためなんだよ。いいね?」  少女は小さく頷いた。それを見て男は少女の頭をもう一度なでると、懐から竹で作られた水筒を取り出した。 「さぁ、これを飲んで。中身はただの水だから大丈夫。少し落ち着こう」  少女は竹筒を受け取ると、言われた通りこくりと一口だけ飲んだ。  次の瞬間、少女は意識が途切れたかのように前に倒れ込む。男はその小さな体を受け止め、さっきまで楽しげに遊んでいた公園に少女を運んだ。ベンチにそっと座らせると、少女の頰に残る涙をそっと指で拭う。 「もう大丈夫だからね。……安心しておやすみ」  そう一言告げると、男はくるりと振り返った。 「知らせてくれてありがとう。助かったよ」  振り返った先には、少女と同じくらいの年ごろの小さな男の子が立っていた。ぐっと拳をにぎって、悔しそうな、でもどこか安心したような表情で男を見上げている。 「……こんどは、おれが助けるからな」  男は優しい笑みを浮かべると、少年の手を取って歩き出す。  十月も終わりに近付いた、夕暮れ時の出来事だった。
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