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その日、私は駆け足で講義室へと向かっていた。この大学は、一般教養科目の講義棟と専門科目の講義棟が離れた場所にある。そのため、どちらの講義も満遍なく受ける一年生は、二つの建物の行き来に不便を強いられるのだ。講義後、教授に質問をした時なんかは特に。
次の環境学の講義は出席確認が厳しく、遅刻は厳禁だ。痛くなる片腹を押さえながら人けのない道を走っていると、前方から例の二人組が歩いてくるのが見えた。
佐野さんが私の姿を認める。と、何故か彼は私を片手で指し示して、隣の早瀬さんに笑い掛けながら何かを言った。
「えっ?」
私はびっくりしたと同時に、足をもつれさせた。何とか踏みとどまって、転ばずには済んだものの、弾みで肩に掛けたトートバッグを地面に投げ出してしまう。バッグの中から参考書や資料、筆記用具が飛び出し、辺りに散乱した。
「大丈夫?」
すぐに佐野さんが駆け寄ってきて、拾い集めるのを手伝ってくれる。
「あっ、すいません……!」
私は佐野さんと距離が近付いた驚きと、早く講義室に行かなければという焦りで、頭の中が混乱した。
膝を付いて慌ててプリントの束をまとめていると、早瀬さんが傍にかがみ込む気配がした。
「あなた、ちょっと落ち着きなさいな」
涼やかな声がして顔を上げると、彼女の凛々しい眼差しが真っ直ぐに私を見据えていた。早瀬さんはほっそりとした手をこちらに伸ばすと、私の肩を何度か優しく叩く。それでちょっとだけ、気持ちが静まった。ハッと短い息を吐いてから、私は頭を下げる。
「ごめんなさい、迷惑を掛けて」
「謝ることないわ。元はといえば、智哉が不躾にあなたを示したのが原因だもの」
ばつが悪そうな顔の佐野さんを軽く睨んでから、早瀬さんは私に向き直った。
「遅刻しそうなのね。何の講義を受けるの?」
「環境学です」
私の返答を聞いた佐野さんが、呑気な声を上げる。
「ああ、あれかぁ。開始のチャイムと同時に、教授がドアの鍵閉めるやつ」
そう、早く行かないと、私は閉め出されてしまう。再び焦り出す私に、早瀬さんは冷静な口調で言った。
「私が智哉の代わりにお詫びをするわ。学生証を見せてちょうだい」
「えっ……」
どういうことだろう。よく分からないながらも、私は言われるがままに財布から学生証を取り出し、彼女に差し出した。
この人は確かに自分を助けてくれる、そんな気がしたのだ。
「清水葵さんね」
早瀬さんは私の氏名を確認すると、バッグからスマホを取り出して何やら操作し始める。その間に講義開始を告げるチャイムが鳴り、私は初めての欠席にハラハラした。
「安心して、清水さん」
私に学生証を返しながら、彼女が微かに口角を上げる。
「私の後輩に、あなたの分の出席票提出と資料を頼んだわ。休まずに済んで良かったわね」
「え、本人がいなくても、出席になるんですか?」
驚く私を見て、佐野さんがプッと吹き出す。
「葵ちゃん、真っ面目だなぁ~! 今まで誰かに出席頼んだことなかったんだね」
すかさず、早瀬さんの鋭い声が飛んだ。
「これが大学生のあるべき姿よ。智哉、彼女に一連の非を詫びなさい」
佐野さんは「怖ぇな」と苦笑すると、地面に膝を付いたままの私に片手を差し出した。
「さっきは驚かせてごめんね。僕からもお詫びをするよ。葵ちゃんの空いた九十分を僕にくれないかな?」
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