第二十四話

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第二十四話

「それで、なぜ私まで……」 「唯一のお隣さんなんだから、ご挨拶しておかないと!」 尋ねると、アンは勢いよく答えた。 (歩いて1キロ離れた家をお隣さんと呼ぶのだろうか……) 私はアンについて、森の西の方へと向かう道を歩いていた。 ブルーの調子もすっかり回復したので、獣医のトーマにお礼のコケモモのジャムを持っていくところであった。 「トーマ先生は私のジャムのファンなのよ! ブルーを診てくれた時も、『お代ならいいので、ブルーが治ったらジャムをもってきてほしい』って」 アンが嬉しそうに頬に手を当てる。 コケモモのジャムはアンの得意料理だった。 「でもジャムを持っていくのに日付だけじゃなくて時間まで指定するなんて、トーマ先生、よほどお忙しいのね」 アンは心配そうに顔を曇らせた。 「それにしても、この森に他にも人が住んでいたとは知らなかったな」 「そうねえ。街とはあまり関わりあいたくないみたい。あ、ここよ」 アンが脚を止めたのは一軒の小屋の前だった。丸太を組んだ小屋の屋根はかやぶきになっていて、隣に馬舎、少し先には鳥小屋も設えられている。 「あら、アン?」 聞き覚えのある声に振り向くと、白いワンピースを着たアイリスがにこやかに手を振っていた。 「先日はありがとう。あなたが知らせてくれたおかげで、私は大切な人を傷つけずにすんだわ」 それからアイリスは私と目を合わせるように屈みこむと、あなたもね、とウインクをした。 「アイリスもトーマ先生のところに?」 アンにそう聞かれ、アイリスは形のよい鼻の頭にしわを寄せた。 こげ茶の瞳が不安げに揺れる。 「ええ、ちょっとうちの馬のことでね……。アンは?」 「私はうちのブルーを治してくれたお礼に」 アンはそう言ってコケモモジャムの入ったかごを持ち上げて見せた。 「ブルーちゃん……。しばらくよく様子を見ておいてあげてね」 「え、ええ」 いつになく真剣な様子のアイリスにアンは戸惑いつつも頷いた。 「だれ」 鋭い声が響いて一人の少年が馬舎の方から現れた。年は、ロベルトくらいだろうがその割には小柄で私とあまり変わらない。 馬の世話をしていたところだったのだろう、服もズボンもところどころ土で汚れている。 神経質そうな瞳がこちらをじっと見つめていた。 「あら、アル君こんにちは」 アンが少年に声をかける。 「エマ、こちらアルくんよ。アルくん、この子はエマ。うちで一緒に暮らしてるの仲良くしてやってね」 「森で――?」 アルはそうつぶやくと少し視線をやわらげた。 後ろからアイリスが声をかける。 「私はアイリス・スコット、先日薬を処方してもらったうちの馬のことでトーマ先生と約束があるの。取り次いでいただけるかしら」 アルはアイリスの姿を認めると表情を硬くした。 グレーの瞳がアイリスの顔をにらみつけるように燃えている。 「アル、お客さんかい?」 柔らかい声と共に、家の方から一人の男性が現れた。 この辺りの出身ではないらしく、浅黒い肌にカラスの濡れ羽色の髪が肩のあたりまで伸びている。 年はまだ20代くらいだろうが、脚が悪いのか、車椅子に乗っていた。 (随分実用的なデザインになったものだな……) 私は男の乗る車いすをしげしげと眺めた。 100年前は不格好な箱のハンドルを回して自走させていたものだったが、この車いすは椅子の脚の代わり取り付けた車輪を主自ら回すことで動くらしい。 「トーマ!」 アルは嬉しげに声を上げるとトーマの背後に回り込んで車いすの陰に隠れた。 「アイリスさん、すみません。この子は街の人がどうにも苦手で……」 「いいんです。それよりも、今日はお時間をいただきありがとうございます」 アイリスが小さく頭を下げる。 トーマは軽くうなずくと、こちらに視線を向けた。 「あなたは……、初めましてですね」 「エマだ」 トーマはよろしく、とほほ笑みかけると我々を家の中に招き入れた。 「アイリスさんのご用件から伺いましょうか。お手紙で伺った話では、家畜の奇病の件だとか」 トーマは背中を向けたまま、少し振り返るようにしてアイリスを見た。 トーマの車いすを押すアルが手をとめる。 アイリスはトーマの視線を受けると一瞬、迷ったように瞳を揺らしたが、 胸の前で拳を握ると意を決したように口を開いた。 「先日見て頂いたうちの馬が、死んだのです。それも、奇妙な死に方で。」 トーマは黙って聞いていた。 気まずい沈黙が流れる。 暫くして、トーマは薄い唇の隙間から、ほう、と息を漏らした。 異国的な黒い瞳がアイリスに向けられる。 アイリスは冷たい視線でその目を見つめ返していた。
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