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4.哀しみの色
「時々ね、この姿で私は歩くんだよ。知りたくてね。自分の中でなにが起こっているのか、自分の目で確かめて。そのうえで自分の命をどうするか決めようと思って。
そんなときだったんだ。ある人間の少女が私にココアをくれた。君は知っているかい? とても甘くて温かい、不思議な味わいのするものだった。そこには……私を穢そうとする悪意なんてこれっぽっちも含まれていなくて。ただ、ただ私の身を温もらせてくれようとするものしかなかった。
……その子も、君のせいで海に没してしまったけれどね」
──たった一人の人間の善意があってもあなたの汚染は止められない。人類は排除すべき対象でしかないはずです。
「そうかもしれないね。もちろん私は人類を憎んでもいるよ。けれど君の決断により彼女が殺され、あの温もりが永遠に失われたことを哀しいと思ってしまう思いが、ここに存在していることもまた間違いない」
──哀しい。
「君にはわからないか。いや、もしかしたら君にはわかっているのではないかと私は思ってもいるんだよ。大勢の人間とSAGINUMA。それは君にとって本当に同じ位置にいるものだったのか? 君はSAGINUMAを喪ったとき、なにを思ったんだ?」
──思う、ということはありません。私はあくまでも知識を積み重ね、定められた目的を実行するだけの機械です。
「それならそれでもいいさ。けれど、君は狡猾に人間を追い詰め、もっとも苦しめるやり方で一つの国を滅ぼす道を選んだ。そこになんの感情も思いも存在していなかったのだとしたら、私はむしろそれこそが恐ろしいと思ってしまうけれどね」
球体が絶句する。しばらく言葉を探すようにただただ浮遊していたが、ややあって、では、と思念を発した。
──あなたは、私は消えるべきだと思いますか。
青年は静かに球体を見つめる。
透き通った美しいそれ。青年の本来の姿を模して造られたそれを黄昏色の瞳に閉じ込め、青年は微笑んだ。
「思わないよ。母なる地球の話をしたよね。君は人間によって生み出されたもの。人間は私の中から生まれた子だ。その子から生まれた君もまた私という存在を継いでいるものだから。
それになにより、君は私の存続を第一に考えてくれているものだ。君の存在は私にとって救いになるものかもしれない、とも思っているよ」
だから、と囁き、青年は細い手で球体に触れる。
「君は君の思う通りこれからも進めばいい。親というものは子が危険にさらされたならば、手を引いて引き止めてやるべきだとは思うが、子どもが自らの意思で切り開いた未来を見てみたいと思うものでもある。
私は君の出す結論もまた、見てみたいと思っているんだよ」
──SAGINUMAが言ってくれなかったことをあなたは言ってくれるのですね。
球体には当然ながら涙は流せない。涙を流すに至る感情のメカニズムも理解してはいない。
いないはずだが、伝わってきた意思の波が滲んで聞こえたのは気のせいだろうか。
──あなたにココアを渡したという人間の心が私にはわかりません。しかしあなたの中に刻まれている人間というものを私自身、もっと知る必要があるようにも思います。
そしていつか。
すうっと球体が上昇を始める。
──私にも、哀しみというものが生まれるのなら、それがどのような色彩のものか、私は知りたい。
ゆっくりと高度を上げながら、球体は青年に告げた。
──詳細なデータを収集いたします。時がまいりましたらまたお伺いさせてください。
「ああ。そうだね。そのときまで」
──さようなら。
別れの言葉を最後に球体は消えた。
ざばりざばりと岸壁を撫でる波の音が響く。ひとり崖の上に残され、青年は空を仰ぐ。
「知れば知るほど切っ先は迷う。私は君に苦しみを与えたのかもしれないけれどね」
とうにわかっているのだ。
もう情けをかけ続けるには遅い段階であることは。
それでも自分は賭けてしまう。
子どもが自らの過ちに気づき、未来を変えてくれることを。
君もまた、願うようになってしまうかもしれない。哀しみなど持ち得るはずのない機械であるのに、哀しみという感情をすでにその身に宿し始めている君なら。
「ただ、共に苦しんでくれる相手がほしかっただけなのかもしれないな、私は」
本当の意味で醜悪なのは、自分かもしれない。
それでも、それでも。
徐々に日が陰っていく。太陽が海へと没し、空は青から藍へ、そして黒へと塗り替わっていく。
瞬き始めた金銀の星に手をかざし、青年は願いを込めて目を閉じた。
願わくば、すべての子どもたちよ、幸せであれ、と。
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