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そのニ
御厠人なる者走りきて、「 あないみじ。犬を蔵人二人して打ち給ふ、死ぬべし。犬を流させ給ひけるが、帰り参りたるとて調じ給ふ 」と言ふ
心憂(こころう)のことや。翁丸なり
「 忠隆、実房なんど打つ 」と言へば、制しにやるほどに、からうじて鳴きやみ、
「 死にければ、陣の外にひき捨てつ 」と言へば、あはれがりなどする夕つ方、いみじげに腫れ、あさましげなる犬のわびしげなるが、わななきありけば
「 翁丸か。このごろ、かかる犬やはありく 」など言ふに
「 翁丸 」と言へど、耳にも聞き入れず
「 それ 」とも言ひ、「 あらず 」とも口ぐち申せば、「 右近ぞ見知りたる。呼べ 」とて召せば、参りたり
「 これは翁丸か 」と見せさせ給ふ
「 似ては侍れど、これはゆゆしげにこそ侍るめれ 」また「 翁丸か 」
とだに言へば、喜びてまうで来るものを、呼べど寄り来ず
あらぬなめり
「 それは打ち殺して、捨て侍りぬ 」とこそ申しつれ
「 二人して打たむには、侍りなむや 」など申せば、心憂がらせ給ふ
暗うなりて、物食はせたれど食はねば、あらぬものに言ひなしてやみぬるつとめて、
御(み)けづり髪、御手水(みちょうず)など参りて、御鏡をもたせ給ひて御覧づるは、候ふに、犬の柱のもとに居たるを見やりて、
「 あはれ、昨日翁丸をいみじう打ちしかな。死にけむこそあはれなれ。何の身にこのたびはなりぬらむ。いかにわびしき心地しけむ 」
とうち言ふに、この居たる犬の震ひわななきて、涙をただ落としに落とすに、いとあさまし
さは翁丸にこそありけれ
不穏な空気を感じていました
と、御厠人(トイレ掃除をする係の女官)の者が走って来て
「 酷い!酷いことでございます!犬、犬を!蔵人二人がかりで殴って!今にきっと、死んでしまいます!犬が!あの犬が舞い戻って来たと言って、懲らしめなさっているのです! 」
そう、涙ながらに訴えます
まさかと思いましたが、それはきっと翁丸にちがいありません
「 忠隆様となりたか様が叩いている 」と言うので止めにいかせる内に、ようやく犬が鳴き止み、使いの者が帰って来ました。ところが
「 死んでしまったので、門の外に引き出して捨ててしまいました 」
と言うのです
全く持って酷いことを!
なんて可哀想にと、そう思いながら過ごしていたその日の夕方のこと
酷く腫れ上がった様子の犬が、震えながら歩いているのに出くわしたのです
「 まあ!翁丸?まさか!翁丸は死んでしまったはずなのに、いいえ、でも!翁丸!翁丸よね! 」
と言うと、
他の女房たちも
「 翁丸! 」と声をかけるのですが、その犬は、聞こえないかのような素ぶりです
その様子に女房たちが、翁丸か、いやそうではないだろうなど喧々轟々、言い合いになるのでしたが、
中宮様に申し上げると、「 右近が見知っているからお呼びなさい 」と、右近様を呼び寄せますと、
参上なさった右近様に、「 これは翁丸か? 」と、犬を見せつつ聞くのですが
「 そうですね。似てはいますが、これは酷いありさまだ 」と、右近様も自信のないご様子で
「 翁丸か? 」とさえ呼べば、いつもなら喜んでやって来るのに、今は来ないので、「 翁丸ではないようです。蔵人たちが打ち捨てたと申しておりますし、残念ながら死んでしまったのでしょう 」
などと申し上げるので、中宮様はガッカリなさっておいでなのでしょう
暗くなって、食べ物をやろうとしましたが食べないので、やはり翁丸ではないのだなあと、皆納得しようと諦めた翌朝です
中宮様が調髪やらお手を洗っておいでの時に、仕上げをご覧になると仰って、私が鏡を持ってお仕えしていたところ、昨日の犬が、柱のたもとにいるのが目に入ったのでしょう
「 ああ、昨日は翁丸を酷く打ったと聞いて、その上、死んでしまったとは、なんとも哀しく、ほんに可哀想なことをしたものよ。翁丸も、今度は何に生まれ変わってくるのだろうか。どんなに辛かったろう。痛かったろうな 」
と、中宮様が何気なく口にしたのを、そこにいた犬が、身を震わせたかと思えば、涙を流すではないですか
たいそう吃驚いたしまして、中宮様と目を見交わしてしまいました
さればやはり、翁丸であったのだと、身の内が熱くなったのです
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