その三

1/1
前へ
/39ページ
次へ

その三

呼べば隠れ忍びてあるなりけりと、あはれに添へてをかしきことかぎりなし 御鏡うち置きて「 さは翁丸か 」と言ふに、ひれ伏していみじう鳴く 御前にもいみじうおち笑はせ給ふ 右近の内侍召して、「 かくなむ 」と仰せらるれば、笑ひののしるを、上にも聞こしめして、渡りおはしましたり 「 あさましう、犬なども、かかる心あるものなりけり 」と笑はせ給ふ 上の女房なども聞きて参り集まりて、呼ぶにも今ぞ立ち動く 「 なほこの顔などの腫れたる、物のてをせさせばや 」と言へば 「 つひにこれを言ひあらはしつること 」など笑ふに、忠隆聞きて、台盤所の方より、「 まことにや侍らむ。彼見侍らむ 」と言ひたれば、 「 あな、ゆゆし。さらに、さるものなし 」と言はすれば、「 さりとも見つくる折も侍らむ。さのみもえ隠させ給はじ 」と言ふ さて、かしこまり許されて、もとのやうになりにき なほあはれがられて、震ひ鳴き出でたりしこそ、よにしらづをかしくあはれなりしか 人なぞこそ人に言されて泣きなどはすれ 昨夜は隠れ忍んでいたのだなぁと思うと同時に、込み上げるものがあります 「 さては、翁丸か? 」 鏡を置いて呼びかけますと、ひどく鳴いてひれ伏したので 「 まあ、翁丸ったら 」 人間のように平伏した姿に、思わず皆が泣き笑いになりますと、 中宮様も、たいそう涙を流してお笑いになられました 中宮様が、右近の内侍を呼びまして、「 これこれこういうことがあったのだ 」と仰ると、女房たちも大笑いです それが帝のお耳にも届いたのでしょうか、帝が中宮様のお部屋においでになったのです 「 驚いたことよの。犬にもこのような心があったとは 」と仰ってお笑いになるのを、私はヒヤヒヤしておりましたが(帝は翁丸を、もう許して下さったのだろうか) 帝付きの女房たちも聞きつけて、参り集まって「 翁丸や!」「 翁丸! 」と、皆が口々に呼ぶもので、翁丸も立ち上がって動き回るので気が気ではありません 「 やはりまだ顔が腫れているので手当てをさせたい 」 と私が言うと 「 とうとう清少納言様が本音を言いましたね 」などと、女房たちが笑っていたところ 忠隆様が聞きつけて、食事処から参ったようで、 「 翁丸が本当にいたのでしょうか?いるならそれを、見せていただきたい 」 と勢いよく言ったので 「 まさか!とんでもございません!そんなもの!いるわけがないではないですか 」 私は少々慌てましたが、女房にこう言わせたのです 「 ほほう。そうですか。それならそれでよろしいですが、そうは言ってもまさか、いつまでも、お隠しになることなど無理でございましょうな 」 うわあ!しっかりバレていますね 忠隆様の目を、誤魔化すことなど到底出来ないのは明白ですが さて、翁丸は、無事、罰を許されて、元通りに宮中で飼われるようになったのです それにしても、翁丸が中宮様や私に同情されて、震えて泣き出してしまったことは、誠にいじらしく可愛らしい姿でありました 人が、人に言われて泣くことはありますが、まさか犬が涙を流して泣き震えることがあるなど、本当に、考えもしないことでございましたね
/39ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加