12人が本棚に入れています
本棚に追加
その三
呼べば隠れ忍びてあるなりけりと、あはれに添へてをかしきことかぎりなし
御鏡うち置きて「 さは翁丸か 」と言ふに、ひれ伏していみじう鳴く
御前にもいみじうおち笑はせ給ふ
右近の内侍召して、「 かくなむ 」と仰せらるれば、笑ひののしるを、上にも聞こしめして、渡りおはしましたり
「 あさましう、犬なども、かかる心あるものなりけり 」と笑はせ給ふ
上の女房なども聞きて参り集まりて、呼ぶにも今ぞ立ち動く
「 なほこの顔などの腫れたる、物のてをせさせばや 」と言へば
「 つひにこれを言ひあらはしつること 」など笑ふに、忠隆聞きて、台盤所の方より、「 まことにや侍らむ。彼見侍らむ 」と言ひたれば、
「 あな、ゆゆし。さらに、さるものなし 」と言はすれば、「 さりとも見つくる折も侍らむ。さのみもえ隠させ給はじ 」と言ふ
さて、かしこまり許されて、もとのやうになりにき
なほあはれがられて、震ひ鳴き出でたりしこそ、よにしらづをかしくあはれなりしか
人なぞこそ人に言されて泣きなどはすれ
昨夜は隠れ忍んでいたのだなぁと思うと同時に、込み上げるものがあります
「 さては、翁丸か? 」
鏡を置いて呼びかけますと、ひどく鳴いてひれ伏したので
「 まあ、翁丸ったら 」
人間のように平伏した姿に、思わず皆が泣き笑いになりますと、
中宮様も、たいそう涙を流してお笑いになられました
中宮様が、右近の内侍を呼びまして、「 これこれこういうことがあったのだ 」と仰ると、女房たちも大笑いです
それが帝のお耳にも届いたのでしょうか、帝が中宮様のお部屋においでになったのです
「 驚いたことよの。犬にもこのような心があったとは 」と仰ってお笑いになるのを、私はヒヤヒヤしておりましたが(帝は翁丸を、もう許して下さったのだろうか)
帝付きの女房たちも聞きつけて、参り集まって「 翁丸や!」「 翁丸! 」と、皆が口々に呼ぶもので、翁丸も立ち上がって動き回るので気が気ではありません
「 やはりまだ顔が腫れているので手当てをさせたい 」
と私が言うと
「 とうとう清少納言様が本音を言いましたね 」などと、女房たちが笑っていたところ
忠隆様が聞きつけて、食事処から参ったようで、
「 翁丸が本当にいたのでしょうか?いるならそれを、見せていただきたい 」
と勢いよく言ったので
「 まさか!とんでもございません!そんなもの!いるわけがないではないですか 」
私は少々慌てましたが、女房にこう言わせたのです
「 ほほう。そうですか。それならそれでよろしいですが、そうは言ってもまさか、いつまでも、お隠しになることなど無理でございましょうな 」
うわあ!しっかりバレていますね
忠隆様の目を、誤魔化すことなど到底出来ないのは明白ですが
さて、翁丸は、無事、罰を許されて、元通りに宮中で飼われるようになったのです
それにしても、翁丸が中宮様や私に同情されて、震えて泣き出してしまったことは、誠にいじらしく可愛らしい姿でありました
人が、人に言われて泣くことはありますが、まさか犬が涙を流して泣き震えることがあるなど、本当に、考えもしないことでございましたね
最初のコメントを投稿しよう!