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あっという間に昼ご飯の時間が過ぎた。もっと話したいと思うぐらいになった。黒崎の方は30分後に会議が控えている。午前中に届けた資料の分だ。そろそろ帰るよと話すと、黒崎から肩を抱かれた。深川さんが笑っている。楽しかったと言ってもらえた。
「今日はありがとうございました。ごちそうさまでした」
「こちらこそ。美味しいものを見つけたら教えてくれ。僕の方も探しておく」
「夏樹。タクシーを呼ぶ。エントランスまで送る」
「いいよ。電車で帰るよ」
「帰りは言うことを聞け」
「黒崎さーん」
「深川さん。この子を送ってくる」
「ああ。夏樹君、またね」
「はい。ありがとうございました」
深川さんに頭を下げた後、お互いに歩き始めた。すると、深川さんの方が足を止めた。どうしたんだろう。黒崎まで無言になった。そして、その理由が分かった。深川さんの前にいたのは、晴海さんだった。グループ企業のR&W社で働いているから、今日は何か会議があり、ここに来たのだろうか。深川さんのことを睨みつけている。黒崎には、絡みつくような視線を向けている。そして、深川さんが晴海さんに声をかけた。
「お久しぶりです」
「今日は会議で来たのかい?」
「ええ。新規事業のことで」
「R&W社のメンバーなら、入って行ったよ。急がなくていいのかい?」
「……お飾りですので」
「そうなのかい?失礼するよ」
晴海さんからの嫌な言い方には、深川さんは反応しなかった。でも、俺達の方を振り返り、正面エントランスへ行くように手振りをされた。黒崎からも促されて、歩き始めた。
「深川さんのことは……」
「大丈夫だ。ほら、もう行っているぞ」
「よかった……」
少しだけ振り返ると、深川さんがビルへ入って行った。晴海さんは俺達の方を見ているが、何も声を掛けて来ない。
「晴海兄さんはR&W社の役員をしている」
「お飾りって言っていたね……」
「本人がそう思うなら、現状は変わらない。行くぞ。目を合わすな」
黒崎から肩を抱かれた。以前、ホテルの中庭で初めて会った時の光景と似ているから、気持ちが落ち着かない。噴水で喧嘩をした後、晴海さんを迎えに来てくれたのは、ホテルのスタッフだったそうだ。一緒に来ていた人がいるはずなのに、会いに来なかったと聞いている。
あの時は、俺は頭に血がのぼっていた。こうして落ち着いた日々を過ごしていくうちに、晴海さんも寂しいのだと、想像することが出来るようになった。自分は兄弟の仲が良いから、ちゃんと理解できるとは思えない。それでも話がしたい。
「夏樹、どうした?」
「ううん、何でもない」
何もかにもが、上手くいくわけではない。修復が出来ない関係だってある。今は顔を合わさせない方がいいと思ったから、立ち去ろうとした。
「圭一……」
晴海さんが、近くまで来ていた。黒崎がため息をつくと、俺の背中を反対方向へ押した。受付の方へだ。
「このまま受付へ行け。俺の名前を出して、早瀬を呼べ」
「ここにいるよ……っ」
「夏樹。すぐに行くから」
「黒崎さん……」
黒崎ならさっきの深川さんのように、この場を静かにやり過ごすことが出来るだろう。それが分かっていても、一人にしたくない。平気なふりをしていても、繊細で優しい人だからだ。何も出来なくても、そばにいたい。すると、晴海さんが黒崎に声をかけた。
「圭一。常務取締役の就任、おめでとう」
「兄さん……」
「今夜は、お父さんと食事に行く]
「そうか……」
お義父さんは、晴海さんが成長するのを期待して、わざとプレッシャーを掛けたと話していた。黒崎も同じように掛けられた。黒崎は負けず嫌いだから、負けず嫌いだから、悪態をつきながらも、それをバネにした。しかし、晴海さんには逆効果だったと、お義父さんが沈み込んでいた。今更になって虫が良すぎるが、話が出来るようになりたいと言っていた。
「あの家に住むそうだな。いい息子を演じているのか?」
「……たまには」
黒崎が平然として言い返した。晴海さんが顔を引きつらせた。お互いの間の空気は重いものだ。さっきのお祝いの言葉は、心からのものだと思う。一瞬だけだけれど、晴海さんの表情が優しかったからだ。
その晴海さんが、建物の中へ向かって歩き始めた。その後姿を見つめていると、黒崎から背中を押された。
「心配症だ。子ども扱いするな」
「子供じゃん。大人げない事ばっかりしているくせに」
「何だと?」
「この間だってさ~」
黒崎の意地悪な言い方に、明るい空気に変わった。そして、いつものように言い合いをしながら、正面エントランスへと向かった。
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