13-1 大学へ行く日

1/1
前へ
/283ページ
次へ

13-1 大学へ行く日

 3月31日、月曜日。午前7時。  今日は大学の入学前の手続きに行く日だ。そして、ドイツ語クラスの学生と集まり、初顔合わせをする。初めて登校するようなものだ。黒崎は仕事だから、俺一人で手続きに行く。  マンションのエントランスを黒崎と2人で出ると、車が一台停まっていた。黒崎が出勤で使っているタクシーではなく、お義父さんからの迎えだ。お義父さんは乗っていない。一昨日のことだ。お義父さんから大学へ送迎すると連絡が入ったけれど、悪いから断っていた。でも、電話の向こうでお義父さんが寂しそうにしていたから、遠慮できなかった。さっそく運転手さんへ頭を下げて挨拶した。黒崎も会社まで乗っていくことになった。 「おはようございます」 「おはようございます。よろしくお願いします」 「夏樹。何か置いてあるぞ」 「なんだろう?」  後部座席に乗り込むと、ラッピングされた箱が置いてあった。そこにはメッセージカードが付いていて、『夏樹ちゃんへ』と書かれていた。 「なんだ?」 「絵本って書いているよ」  箱を開けると、窓の外を眺めている女の子のイラストの表紙があった。ずっと探していた本だ。 「わあ……、去年から探していたやつだよ。この作家さんの本って、日本では出版されていなんだよ。ネットでも扱っていないし」 「どこで知ったんだ?」 「病院の待合室に置いてあったんだよ。病院の人に聞いたけど、誰が持ってきたのか分からないんだってさ」 「よかったな」 「うん。どうやって手に入れたのかな?海外へ行っていないもんね?」 「知り合いに頼んだのかもしれない」 「帰ってきたらお礼を言うよ」 「……」  急に黒崎が押し黙った。不思議に思って視線を向けると、分厚いファイルを手にしていた。 「これは父から俺にだ。会議の前までに目を通しておけと書いてある」 「今日なの?いきなりだね」 「10時からの会議だ」  黒崎がファイルを開いて、ページをめくり始めた。とても速いスピードだと思う。読む速さと、パソコンのキーを打ち込む速さを見る度に驚いている。それらを間近で見ていると、自分は会社勤めができるだろうかと、不安になることがある。 「黒崎さん。俺さ。就職した後、やっていけるのか心配になっているよ。テキパキしていないし。一度に2つ以上のことをするのが苦手だし。料理は平気だけど」  この気持ちを素直に口にすると、黒崎が顔を明るくさせた。そして、目を通していたファイルを差し出してきた。 「山ほど目を通す必要がある。何日も前から準備が出来ない。沢山あるからだ」 「そうだよね……」  励まされるかと思ったのに反対だった。さらにタブレットを差し出してきた。そして、目の前でいくつもの画面を展開されて見せてきた。俺は目が回りそうだ。黒崎は俺に就職させたくないのが本音だ。こうして見せてきて、諦めさせようとしている。今回は冗談だと思う。黒崎が微笑んでいるからだ。 「これと、これ。これも今朝の分だ。今日の会議での指標は……。決算の……、IRが……」 「黒崎さーーん。俺のことをいじめるなよ」 「まだあるぞ」 「こうやって悩んでも先に進まないね。自分で本を読んで対策を考えるよ。いろいろ出ているもんね?」 「読まなくて構わない。俺が教える」 「あ、ありがとう。まずはどんな事を……」 「まずは、現実から話してやる」  そう予告されたとおり、黒崎から聞かされた内容はハードなものだと感じた。社会に出ることは大変なことだと思った。不安が増して俯いていると、優しく抱き寄せられた。 「急がなくてもいい。お前はそのままでいい」 「そういうわけには……」 「俺にまかせておけ。今日は気をつけろ」 「うん。ラインを入れるよ」 「森本君とは途中で別れるだろう。今日は聡太郎君が付き添ってくれるだろう?」 「うん。予定通りだよ。もしかしたら、久田君を紹介してもらえるかも。久田君もドイツ語を選択したそうだよ。今日、同じクラスの子で集まるんだ。聡太郎君もドイツ語出身だから、集まりを手伝うそうだよ」 「それなら安心だ。何も心配するな。バンドメンバーでは集まらないのか?」 「近いうちに集まるそうだよ」 「楽しみだな」 「うん。あ、着いたよ」  するとその時だ。車が大きなビルの前に停まった。黒崎製菓の本社前へ到着だ。黒崎が上機嫌で降りて行った。その後姿は機嫌が良さそうで、足取りが弾んだものに感じた。俺も頑張ろうと思った。
/283ページ

最初のコメントを投稿しよう!

113人が本棚に入れています
本棚に追加