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13-1 大学へ行く日
3月31日、月曜日。午前7時。
今日は大学の入学前の手続きに行く日だ。そして、ドイツ語クラスの学生と集まり、初顔合わせをする。初めて登校するようなものだ。黒崎は仕事だから、俺一人で手続きに行く。
マンションのエントランスを黒崎と2人で出ると、車が一台停まっていた。黒崎が出勤で使っているタクシーではなく、お義父さんからの迎えだ。お義父さんは乗っていない。一昨日のことだ。お義父さんから大学へ送迎すると連絡が入ったけれど、悪いから断っていた。でも、電話の向こうでお義父さんが寂しそうにしていたから、遠慮できなかった。さっそく運転手さんへ頭を下げて挨拶した。黒崎も会社まで乗っていくことになった。
「おはようございます」
「おはようございます。よろしくお願いします」
「夏樹。何か置いてあるぞ」
「なんだろう?」
後部座席に乗り込むと、ラッピングされた箱が置いてあった。そこにはメッセージカードが付いていて、『夏樹ちゃんへ』と書かれていた。
「なんだ?」
「絵本って書いているよ」
箱を開けると、窓の外を眺めている女の子のイラストの表紙があった。ずっと探していた本だ。
「わあ……、去年から探していたやつだよ。この作家さんの本って、日本では出版されていなんだよ。ネットでも扱っていないし」
「どこで知ったんだ?」
「病院の待合室に置いてあったんだよ。病院の人に聞いたけど、誰が持ってきたのか分からないんだってさ」
「よかったな」
「うん。どうやって手に入れたのかな?海外へ行っていないもんね?」
「知り合いに頼んだのかもしれない」
「帰ってきたらお礼を言うよ」
「……」
急に黒崎が押し黙った。不思議に思って視線を向けると、分厚いファイルを手にしていた。
「これは父から俺にだ。会議の前までに目を通しておけと書いてある」
「今日なの?いきなりだね」
「10時からの会議だ」
黒崎がファイルを開いて、ページをめくり始めた。とても速いスピードだと思う。読む速さと、パソコンのキーを打ち込む速さを見る度に驚いている。それらを間近で見ていると、自分は会社勤めができるだろうかと、不安になることがある。
「黒崎さん。俺さ。就職した後、やっていけるのか心配になっているよ。テキパキしていないし。一度に2つ以上のことをするのが苦手だし。料理は平気だけど」
この気持ちを素直に口にすると、黒崎が顔を明るくさせた。そして、目を通していたファイルを差し出してきた。
「山ほど目を通す必要がある。何日も前から準備が出来ない。沢山あるからだ」
「そうだよね……」
励まされるかと思ったのに反対だった。さらにタブレットを差し出してきた。そして、目の前でいくつもの画面を展開されて見せてきた。俺は目が回りそうだ。黒崎は俺に就職させたくないのが本音だ。こうして見せてきて、諦めさせようとしている。今回は冗談だと思う。黒崎が微笑んでいるからだ。
「これと、これ。これも今朝の分だ。今日の会議での指標は……。決算の……、IRが……」
「黒崎さーーん。俺のことをいじめるなよ」
「まだあるぞ」
「こうやって悩んでも先に進まないね。自分で本を読んで対策を考えるよ。いろいろ出ているもんね?」
「読まなくて構わない。俺が教える」
「あ、ありがとう。まずはどんな事を……」
「まずは、現実から話してやる」
そう予告されたとおり、黒崎から聞かされた内容はハードなものだと感じた。社会に出ることは大変なことだと思った。不安が増して俯いていると、優しく抱き寄せられた。
「急がなくてもいい。お前はそのままでいい」
「そういうわけには……」
「俺にまかせておけ。今日は気をつけろ」
「うん。ラインを入れるよ」
「森本君とは途中で別れるだろう。今日は聡太郎君が付き添ってくれるだろう?」
「うん。予定通りだよ。もしかしたら、久田君を紹介してもらえるかも。久田君もドイツ語を選択したそうだよ。今日、同じクラスの子で集まるんだ。聡太郎君もドイツ語出身だから、集まりを手伝うそうだよ」
「それなら安心だ。何も心配するな。バンドメンバーでは集まらないのか?」
「近いうちに集まるそうだよ」
「楽しみだな」
「うん。あ、着いたよ」
するとその時だ。車が大きなビルの前に停まった。黒崎製菓の本社前へ到着だ。黒崎が上機嫌で降りて行った。その後姿は機嫌が良さそうで、足取りが弾んだものに感じた。俺も頑張ろうと思った。
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