エピローグ

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 掃除を終え、雪乃は円とともに生徒たちを送りだした。梅雨の中休みで、今夜は雨が上がっている。煌々と漏れ出る離れの光が、軒先に立つふたりのシルエットをぼんやりと浮かび上がらせた。 「お疲れ様でした、雪乃さん」  ひょこっと円が雪乃の顔を覗き込む。ここへかよいだして二ヶ月。この顔をする時の円がなにを求めているか、すっかりわかるようになった。 「お夜食、作りますね」 「はい、お願いします」  ニッコリと笑う円が、『結』の生徒たちよりもずっと純真で子どもらしく見える。普段の大人びた印象が嘘みたいだ。かわいい人、と雪乃は笑う。こんな顔をして笑う円を見られるのは自分だけの特権かもしれないと思うと途端に嬉しくなってしまって、ついニヤニヤと締まりなくニヤける雪乃だった。 「あっ」  母屋へ向かって歩き出そうとした雪乃のもとへ、前方からなにかがスーッと飛んできた。 「これ……!」  特殊な力を秘めた千代紙で折られた白い鳩だった。誰かからの伝言を運んできてくれたらしい。  雪乃が手のひらを上向けると、鳩は音もなく降り立った。「誰だろう」と雪乃がその頭を一撫でした瞬間、鳩はバサァッ、と翼を大きく広げてしゃべりだした。 『雪乃先生』  その声に、雪乃も円も目を見開いた。 「うそ……!」 「零ですね」  この山から姿を消してしまった、零からの伝言だった。 『零です。雪乃先生、なにも言わずに山を離れてごめんなさい。ボク、どうしたらいいのかわからなくて、でも、このまま山にいちゃいけないってことはなんとなくわかって、それで、川を下って、海に出ました』  まさか、と雪乃は円の顔を仰ぐ。「河童は泳ぎが得意ですからね」と円はなにごともなかったかのように言った。 『はじめての海は、とても怖かったです。でも、途中でクロさんという(うみ)坊主(ぼうず)に出会いました。とっても大きくて真っ黒で、頭がツルツルで怖かったけど、すごく優しくて、「遠くへ行きたい」と伝えたら、近くにある島への行き方を教えてくれました。ハワイ(とう)というところです。今、ボクはそこにいます』  ハワイ! 突然の伝言に、もう何度驚かされただろう。零がたどり着いたのは、英語の国・アメリカ合衆国に属する島だった。 『大きな山があって、人間もいました。話している言葉が、ボクたちがいつも使っている言葉とは違いました。海岸線をさまよっていると、弥勒先生がよく着ていた、背中に黒い帽子のついた服……パーカー、でしたっけ。それを着た人に声をかけられました。〝Are you OK? 〟と言われて、あ、英語、と思いました。〝Hello.〟と言うと、その人は〝Are you a monster? Me, too! 〟と言って、エリックという名前で、ヴァンパイアという生き物なのだと教えてくれました。誰かの血を飲んで生きていて、ボクと同じで、人間ではないらしい、です』  へぇ、と雪乃は相づちを打ちながら目を丸くした。ハワイにも、あやかしの姿が見える人がいるのだ。しかも、まさかの吸血鬼。 『雪乃先生』  零の伝言は続く。 『先生が貸してくれた辞書、勝手に持ち出してごめんなさい。でも、おかげでエリックの話す言葉がすぐに調べられます。エリックが手伝ってくれるんです。とても優しいヴァンパイアです。雪乃先生の辞書は、まだ英語がよくわからない今のボクには欠かせない持ち物です。もう少し、貸してください。いつか必ず、返します』  涙ぐんでうなずく雪乃の肩に、円がそっと腕を回す。じわりと円の熱が流れ込んで、胸が詰まる。 『雪乃先生、ボク、ここでやり直します。先生が背中を押してくれたから、勇気を出すことができました。ありがとう、先生。英語がうまく話せるようになったら、一度、山へ帰ります。円先生にも、そう伝えてください』  千代紙の白い鳩が羽を畳んだ。零の伝言はそこまでだった。
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