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第1話「オブジェの海」
ナトリウムランプのトンネルを抜ける。
景色が露わになった途端に怯みそうになる。
トオルの横顔が視界の脇で揺れる。
『引き返す?』
『いいえ』
心の中で自問自答し、目を凝らしてハンドルを握り直した。
海に突きあたるT字路を右へ進むと、遠目に裸島が見えてきた。
薄曇りの空の下、トーンを落とした群青の海面に、赤茶けた姿がぽつんとある。手前の海釣り桟橋には人影は無く、細長く張り出したまま途方に暮れている。
そんな様子を、山手に建ち並ぶホテルがぼんやりと眺め、一日の終わりを待っている。
『リベンジ』
もうひとつの私の声が湧いてくる。今朝から何度目だろう。
押し留めるように、ゆっくりとブレーキを踏んだ。
信号待ちで窓を開けると、簡素な遊園地から音楽が聞こえてきた。
ノリのいい夏の定番曲が、動かない遊具に弾かれて空を漂っている。
海岸沿いの観光地。九月最初の水曜日、午後。
再会の日のロケーションは芳しくない。
「すっかりオブジェだね。人間がいない」
助手席に乗っているトオルが、遊園地を見て薄く笑う。
「観光地って言っても、もともと静かなところじゃない? 夏休みも終わっちゃったし、もう三時になるしね」
信号が青になり、私はクラッチを踏み込んで発進する。
セカンド、サードとシフトをずらし、トップに入れてクラッチから足を離すと、鼻から息が漏れた。
「悪かったね。今日しか時間がとれなくて」
トオルは海に顔を向けたまま、軽くため息をついた。
「全然平気よ。私、日曜日仕事だったから、今日の半休で帳尻が合うんだ」
「休日出勤?」
「午前中だけね。月曜の朝一に持っていくプラン、直して欲しいって言われて」
「へえ、やってるんだな。あ、そうだ。着いたら、ミルクティーとパンプキンパイ。おかわりしていいからね」
トオルが一瞬、顔を私に向けた。
「あは。覚えてくれてたんだ。……だけどねぇ、最近はコーヒー党なんだ。しかもブラック」
「ふうん。すごい、ね」
トオルの籠った声が、窓の向こうへ逃げていった。
ほどなく道は上り坂になり、きつめの勾配が続く。シフトを一段落とし、めいっぱいアクセルを踏み込む。一瞬ガクンと車体が沈み、鈍い唸りを上げた。
トオルが両手で膝を抱え込むように身構えた。
運転は得意じゃない。それに今日は、普段はいない左を意識し過ぎている。
「やるねっ。マニュアル」
トオルの少し上ずった声と、体育座りを思わせる格好が幼そうで新鮮だった。
「これしかなかったの!」
「ほおっ」
即座に調子を合わせて応えるトオル。まん丸になった目。これも、新鮮。
「会社、バスも電車も不便な場所なの。はじめはお姉ちゃんに便乗してたんだけど、残業が続くようになって、さすがに考えた。新車は無理だから、中古の、軽の、マニュアルの、ほぼツーシーター」
私は自虐的に泣き笑いの顔をする。
「商用車なんだね。まぁ何にせよ、立派なオーナーだよ」
トオルが後部座席を振り返る。薄くて角ばったシートの上には、私のショルダーバッグが放られ、少し離れてトオルのトートバッグが横たわっている。そのラフな雰囲気が、どことなく和ませる。
ルームミラーがカメラだったらいいのに、と何度となく目に焼き付けていた。
私がキャッシュで買える車はもう一台あった。黒のワゴンタイプも悪くはなかった。
けれど瞬間で決めていた。型式は古いけれど、ボディーカラーが白でライトが丸い、それでよかった。
「あのさ。さっきからハンドルに齧りついてるんだけど」
左の眉毛を上げて、顎をしゃくってくる。
皮肉る時のトオルの顔だ。頭の中が真っ白になった。
「もう。いっぱいいっぱいなの! 誰かを乗せることなんて、ほとんどなかったし」
「ふーん。っていうか知ってるよ。君が運転苦手なのは」
トオルはそっとダッシュボードの上を手でなぞり、「一応エアバッグはあるね」と呟いた。
「相当古い車だと思ってるんでしょ」
「まあね」
思わず頬が緩んだ。前のめりになっている背中をゆっくりとシートに戻すと、首の後ろから血流が下がっていった。
トオルもすでに両手を解放し、天井に手をついてストレッチをはじめている。コロンが変わった。ほのかに石鹸の香りがする。これも新鮮、だけど距離を感じる。
坂道はかなり緩くなってきて、また海を臨む。
「いま、車は乗ってる?」
「うん、フィット」
「あ。フィット。色は?」
どんな車だったか、記憶をまさぐりながら尋ねてみる。
「シルバーグレイ。ハイブリじゃないけどね」
対向車がセンターラインをギリギリに来るので、ハンドルをやや左に寄せる。トオルのいう車のイメージがなんとなく浮かんだ。
観光エリアをとうに過ぎ、隣町との境界に入ると両脇が山に阻まれる。
「あれ、カモシカ」
「うそっ」
視線を投げると、伐りだった山肌の上に、林を背にこちらを見て立っている一頭がいた。すぐに目線を戻したけれど、トオルは通り過ぎるまで窓の外に見入っていた。
「この辺、カモシカの看板があるものね」
「はじめて見た」
「私も。ちらっとだけど、可愛かった。ラッキー」
「なんだか、戸惑っているように見えた」
私は黙ったまま車を走らせる。
トオルの言葉が聞こえなかったわけじゃない。浮いているような自分のテンションを抑えたかっただけだ。
ドライブイン『湾カフェ』のポールサインが見えてくると、ハンドルが軽くなった。
あの店でトオルの持ってきたスケッチブックを開いたら、きっと私たちは時を忘れる。
懐かしい店内を思い浮かべ、スピードを緩めながら左にウインカーを出した。
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