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第5話「矢印の向こうへ」
サイドミラーに映るトオルが、だんだん小さくなっていく。手を振っているのかさえもわからなくなり、車は幹線道路へ合流する。
右前方に、陽の光が雲の隙間から洩れて、海面の波立つ先に白く反射している。
もうトンネルが目の前だった。突入した闇にナトリウムの灯りは心細く、腕に、肩に力が入る。
白のフィガロはトオルの自慢だった。故障も多かったけれど、可愛らしくて私も大好きだった。幾度となくここも往復した。この再会で何かが変わるかもしれない、リベンジのつもりだった。それなのに、こうして私はひとり、トンネルを戻っている。
目の前が滲む。視界が悪い。フロントをワイパーで擦っても鈍い音がするだけだ。どんどん滲んできて、アクセルを離す。
本当はブラックコーヒーはそれほど好きじゃない。
骨白の額、やっぱり唇をあてればよかった。いっそルージュをひいた唇で、真っ赤に跡をつけてしまえばよかった。
電車で帰るのを引きとめて、無理やり車に乗せてしまえばよかった。今だったら、まだ間に合うかもしれない。電車が駅に来るまで、十分ほど余裕があるはず……。
激しいクラクションが背中を砕いた。
バックミラーには後続車のフロントガラスがへばりついている。アクセルを全開にするとエンジンが悲鳴を上げた。急いでクラッチを踏んで、シフトを落としてアクセルにつなぎ直す。
かなりのスピードダウンだったと思う。それでも、ブレーキを踏まなかったことで、ギリギリ接触は避けることができた。
すでに後続車は、充分すぎるほど車間距離をとっている。後ろのドライバーが、高い運転技術を持っていることに感謝した。
トンネルだったということを改めて胸に刻み、涙をぬぐって前を見る。エンストを起こさなかった。今の運転さばき、トオルに見せてやりたかった。
軽く息を吐くと、両手でハンドルを強く握り直した。
そうなんだ。いまはひとり、自分の車で走るんだ。フィガロでもフィットでもない、型の古い自分の車で。もう前に進むしかないのだ。
ピンホールほどの出口の明かりが、少しずつ広がってくる。
トンネルを抜けると、一気に西日を被った。眩しさと悔しさと苛立った思いをぶつけるように、睨みながらバイザーを下し狭まった視界の先を行く。
少しだけ心が痛むのは、小さな私の未練。
トオルはいつか、気づくだろうか。三冊目のスケッチブックの最後のページに、ルージュで書いた『サオリ』のサイン。
怒っていいよ、忘れてくれるよりはマシだから。
やがて左前方に、バーガーショップの店先が見えてきた。
一年目、まだ褒められる前に担当したスタンドサインが道端にある。ハンバーガーのイラストと、大きく『IN』と『←』を入れたものだ。一度設置したあとで、コーヒーカップのイラストを模ったプレートを、右肩に張り出すように取り付けた。
あれっきり、この店のオーナーから看板の注文は来ていないな、と考えていると、前の車のスピードが緩んだので、シフトを一段落とす。
すると二つ前の車がウィンカーを出して、バーガーショップに滑り込んで行った。
「おお」思わず声が漏れた。集客万歳。スタンドサインが胸を張っているようにも見えた。
トオルの横顔が浮かぶ。
ねぇ。ヨロコビはある、よ。私にも。
やがて木立が陽を遮り、アスファルトの道が色濃くなる。
少し上りになって、アクセルを深めに踏み込む。
道の上には直進の矢印が伸びている。
しばらく私は、このまま走る。
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