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その森にちかづいてはいけない。
親から子へ、子から孫へと、代々語り継がれてきた伝説。その森の奥には異形の生物が住んでいて、迷いこんだ旅人や子どもたちを残酷なやりかたで殺し、森に引きずりこむのだ。
噂には尾ひれがつき、徐々に残虐さを増していった。親たちは子どもを寝かしつけるために怪物の話をし、肝試しに森へ入りこんだ若者が消えたという話などもまことしやかに囁かれた。いつしか森にちかづく者はいなくなり、周辺はひっそりとして、ますます不気味な空気を孕み、来訪者を拒んでいった。
しかし、いっぽうで、森に棲む男の正体はだれにもわからなかった。生きてもどった者がいないせいで、だれも語ることができなかったのだ。
崖を上る途中、ノアが足を滑らせた。
「ノア!」
おれの手をつよく握り返し、体勢を立てなおす。おれはノアに肩を貸し、彼を支えるようにして崖を上りきった。ふたりとも傷だらけで、疲れ果てていた。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
「急げ。もうすこしだ」
息を切らせながら必死に走る。霰のような弾丸が降りかかってきて、おれたちの足元で砂利が砕け散った。
「なんてことしやがる……おれたちは感染してないんだぞ!」
叫んだが、聞こえるはずもない。どこから撃っているのかわからないが、相手は軍人だ。狙いは正確で、視界のすぐ脇を弾丸が通りすぎた。
うめき声がして、振り返った。ノアが倒れていた。肩から出血し、くるしげに顔をしかめている。
「ノア!」
慌てて引き返し、ノアを抱え上げた。弾丸の雨のなか、なんとか車の陰に身を隠した。
ハイウェイには無数の車が乗り捨てられていた。事故を起こしてひしゃげたものやドアが開いたままのもの。キーが刺さったままのホンダを見つけ、乗りこんだ。負傷したノアを後部座席に押しこみ、イグニッションを回した。なかなかエンジンがかからず、おれは焦ってステアリングを叩いた。
「ローランド……」
後部座席でノアがくるしげに叫んだ。咄嗟に視線を上げた。
バックミラーごしに戦車の巨大な影が見えた。舌打ちし、アクセルを踏みこんだ。
路肩に停まった車にぶつかりながら、おれたちの乗ったホンダは土煙を上げて走り出した。
ようやく軍隊の手を逃れたときには、夕暮れになっていた。ひとけのない森のなかで、おれは車を停めた。
「だいじょうぶか、ノア」
返事はない。さっきまで聞こえていた喘ぎも、ほとんどなくなっていた。振り向いたが、暗くなりかけた車内でノアの表情は見えにくくなっていた。
「ノア」
慌てて車を降り、後部座席のドアを開けた。ノアは撃たれた肩を庇うように腕を抱いて座席に横たわっていた。
「傷を見せろ」
「触るな!」
手を伸ばそうとしたおれを、ノアが制した。これまでに聞いたことのないような切迫した声だった。おれの背中を冷たいものが駆け抜けた。
「おれから離れてくれ。ローランド」
「ノア……」
おれは青褪め、首を横に振りながら後ずさった。足が震え、立っているのがやっとだった。
ノアは苦痛の表情で上半身を起こし、立ちすくむおれの前で、ドアを閉めた。なかから鍵をかけられ、おれは我に返った。ドアに縋りつき、取っ手をがちゃがちゃいわせて開けようとした。涙で視界がぼやけた。意味不明の喚き声を上げているおれを、車のなかからノアが悲しげな眼差しで見つめていた。
おれは地面を転がるようにして木の棒を拾い上げた。窓に向かって振り上げる。
「やめろ!」
内側から窓に両手をついて、ノアが叫ぶ。おれは棒を振り上げた体勢のまま硬直した。肩で息をしながらいった。
「悲観するな、ノア。そんな怪我、なんでもない。すぐ助けてやる」
「ちがうんだ」
老人のようにしわがれたおれの声とは対照的に、ノアの口調は落ち着いていた。
「わかってるんだろ、ローランド」
静かにいって、ノアは窓に顔をちかづけた。夕陽に照らされた頬には膿がまとわりつき、不気味に波打っていた。
なぜだ……。おれの声は喉で粘つき、外に出ることはなかった。あんなに気をつけていたはずだ。いったいいつ? 電車に乗ったときか? それとも町で乱闘に巻きこまれたとき? どこで感染者と接触してしまったのか。しかも、ノアだけが、なぜ?
手から棒が滑り落ちた。おれは足を引き摺るようにして車にしがみつき、窓に額を圧しつけた。ガラスごしに両手が触れあうが、もちろん、なんのあたたかみも感じられない。
「だめだ、ノア。頼むから開けてくれ」
おれは子どものように泣き喚き、ガラス窓を叩いた。掌にはいくつもの擦り傷ができていて、血と涙でガラスが汚れた。
「ぼくを見てくれ、ローランド」
やさしい声でノアがいう。おれはしゃくりあげながら顔を上げた。鼻と口から漏れた息で窓が曇っている。
一枚のガラスを挟み、鼻先が触れあいそうな距離で、おれたちは見つめあった。ノアはゆっくりと掌を窓にあてがい、おれの顔を縦に撫でるように滑らせた。唇の位置で手を止め、そのままじっとおれを見つめつづけた。
地球上のどんなものよりも美しい青い瞳。その奥で小さな棒状のものが蠢いているのが見える。ウイルスがノアの体を侵しはじめている。直視するのがつらかった。身を引き裂かれそうな思いで、おれはノアの指の隙間から彼の瞳を見つめた。
「永遠に愛してる」
「おれもだ、ノア。おれも愛してる……」
ノアの眼球が突然反転した。おれの目の前で、ノアが大きくのけぞった。白眼を剥き、烈しく痙攣している。
「ノア!」
声が涸れるほど叫んだが、それを止めることはできなかった。ノアの皮膚が頭頂部からふたつに割れ、脳漿がまぶされた頭蓋骨が突出した。まともに見ていられたのはそこまでだった。おれは大声で叫びながら車に背を向けた。ノアの名を呼びながら走った。走りつづけた。
ナイフの刃が壁に横一文字の傷をつける。大きな壁は一面傷で埋め尽くされていた。数は五千と百二十五。つまり、あれから十五年ちかくたったわけだ。
ナイフの向きを変え、手にしていた缶詰の蓋を開ける。トウモロコシを噛み砕きながら、残りの食糧で何日もつか計算する。結果は楽観的になれるようなものではなかった。舌打ちとともに、空になった缶を放り投げた。
町は閑散としていた。錆びてなかば崩れかけたビルが建ち並び、放置された車には蜘蛛の巣が張っている。通りには人間はもちろん、猫一匹姿を見せることがなかった。
ニューヨークやロサンゼルスといった大都会とは比較にならないものの、かつてはそれなりに賑わい、せわしなく仕事に向かうビジネスマンや腕を組んで歩くカップルが行き来していた道。ノアとはじめて映画を観に行ったときも、この道を通った。田舎町で、いつか必ず出たいと口癖のようにいっていたが、心底嫌いだったわけではない。
十五年前、原因不明の伝染病が蔓延した。各地で閉鎖、隔離がおこなわれたが、そのときにはすでに遅かった。いまだかつて出現したことのない未知のウイルスはあっという間にアメリカ全土に拡がり、世界中がおなじ症状を持つ患者で溢れ返った。
病気はすぐに第二段階に達した。これが悪夢のはじまりだった。
ショッピングモールの前でオートバイを停めた。リアシートに積んでいたボウガンを肩に抱え、周囲を見渡す。しんと静まり返り、生物の気配すら感じられない。
足早にショッピングモールのなかに入る。缶詰やパスタ、小麦といったものが並んだ棚に向かい、もう片方の腕に提げていた袋に詰めこんだ。盗難を咎めるものはなく、罪悪感をおぼえる必要もない。
袋がいっぱいになると、急いで出口に向かう。長居は無用だ。
ドアを押そうとしたところで、おれは足を止めた。ゆっくりと振り返る。まさか。気のせいだ。そんなことあるはずがない。
苦笑いが固まった。幻聴ではない。たしかに、子どもの泣き声が聞こえたのだ。
おれは袋を床に起き、ボウガンを構えた。音を立てないように注意しながら店の奥へとすすむ。
地下駐車場に下りる非常階段のドアが開いていた。声はその奥から聞こえているようだった。
「だれかいるのか?」
恐る恐る声をかけてみたが、返事はない。ドアの前で、おれは躊躇った。店内には太陽の光が差しこんでいたが、ドアの向こう側はほとんど真っ暗闇だった。
しかし、退くことはできなかった。呼吸を整え、思い切ってドアを押した。
茶色い毛をした子犬が飛び出してきて、おれは声を上げた。あやうくボウガンの引き金を引くところだった。全身で息をつき、子犬の前にしゃがみこむ。
「なにやってんだ、おまえ。よく生きて……」
おれが伸ばした手が届くよりも一瞬先に、子犬の体がふたつに裂けた。おれは反射的に飛びのき、非常階段に向かってボウガンを向けた。
ドアの隙間で黒い影が首を擡げる。空気を振るわせるような叫び声。おれは迷わず引き金を引いた。
ボウガンの矢が影を突き抜け、悲鳴が上がる。どすんと大きな音がして、相手の上半身がドアのこちら側に倒れてきた。
てらてらと濡れた頭が、太陽の光に溶けて煙を上げる。ひどい匂いに顔をしかめ、矢を抜き取った。
「やれやれ」
汗を拭いながら、ブーツの爪先で“クランケ”の体を引っくり返す。自分の体の何倍もある“クランケ”に潰されて、子犬はほとんど毛と肉の塊になっていた。
「友達になれたかもしれなかったのにな」
ここ五年ほどは犬や猫といった小動物ともほとんど出会えていない。食糧としてよりも、話し相手として、その存在を欲していた。かすかな鳴き声を子どもの声と勘違いしてしまうほど、おれは自分以外の生物に渇望していたのだ。
子犬のために祈ってから、その場をあとにした。オートバイに跨り、空を仰ぐ。
最近になって、日中時間が著しく短くなった。冬だからというだけではない。年々夜が長くなっている。時間を計っているわけではないが、確かだった。
灯油や酒、洗剤といった日用品も仕入れ、家にもどった。家といっても、山の途中に建てた手づくりの木造小屋だ。周囲にはいたるところに罠を張りめぐらせてあり、記憶を頼りに避けて歩かなければならない。これだって完璧というわけではないが、気休め程度にはなる。
奴らは昼間行動することができない。それでも念のため尾行されていないか何度も確認して、家のなかに入った。
袋のなかから日用品やいくつかのレトルト食品を取り出し、キッチンに並べる。残った食糧は袋に入れたままかついで部屋の奥へ。
棚の隙間から手を入れ、ドアを操作する。隠し部屋のなかには階段があり、地下シェルターへとつづいている。もともとは戦時中につかわれていたらしい洞窟のようなもので、偶然見つけ、改造した。
棚を元にもどしてから、ドアをしっかりと閉める。ドアは厚く、ランプを点しても光が外に漏れることはない。
パイプベッドに寝そべり、聖書をひらく。説教を読みたいわけではない。神の存在など、こうなるずっと前から信じてはいないのだ。目的は本に挟んである写真だった。
古びて色あせた写真のなかで、ノアがはにかみながらこちらを見ている。ふたりで香港に旅行したとき、レストランでおれが撮った。
ノアの死を見届けてから、おれは森のなかをさまよい歩いた。この洞窟を見つけ、身を潜めた。明け方に這い出て、木の実や魚、兎などを漁って飢えを凌ぎ、昼と夜は洞窟にこもって、じっと待ちつづけた。
やがてヘリコプターや戦車の音が聞こえなくなり、外に出ると、世界のすべてが変わっていた。
“クランケ”とはドイツ語で“患者”を意味する。新型ウイルスFQ107Pの感染者を、政府や市民ははじめのうちそう呼んでいた。死体となったはずの患者たちが再び動き出したときには、もっとシンプルな呼び名に変わった。ゾンビ。しかし、その呼び名もしっくりとはこなかった。
彼らは生きた人間の血肉を喰らうわけではない。ただし、ふつうの人間ともいえなかった。言葉を話せず、制御も効かず、電波のような奇声を発し、夜の町を駆け回った。
政府の医療機関が彼らを解剖し、その正体を暴こうとしたが、なにひとつ有益な情報は得られなかった。皮膚がなくなり、筋肉とわずかな骨だけになった患者たちの殺処分はすぐさま開始されたが、その間にもウイルスの力は増し、空気感染までするようになった。ノアが死んで数週間もしない頃だった。
政府も軍隊もウイルスを止めることはできなかった。世界中の医師が束になっても、ワクチンはおろか、抗生剤すら生み出せずに、やがて地球上は“クランケ”の棲家となった。
ランプの薄明かりのなかで、おれは聖書の隅にペンで文字を記していった。
これらの情報はすべて山から降りたときにラジオや新聞で見聞きしたものだ。それらの知識に、自分の体験から得た情報をくわえていく。
まずひとつ。奴らは言葉を発しないが、電波のようなもので互いに意思疎通をしているらしい。以前、複数の“クランケ”に襲われたことがある。会話らしきものを交わし、連携して攻撃してきた。
そしてもうひとつ。奴らは食事をしなくても生きていける。また、人間よりもはるかに治癒能力が高く、少々撃たれたぐらいでは死なない。ただし、太陽に弱く、日中は外に出ることができず、地下に潜んでいる。
最新の情報を書きこむ。できれば認めたくない事実。奴らはおれを狙っている。
地下駐車場に迷いこんだ子犬が生きていられるはずはない。おれを暗闇のなかにおびき出すために準備された囮であると考えたほうがいいだろう。奴らは知能も人間並みかそれ以上に発達しているようだ。
おれは聖書を枕の下に押しこんで、灯りを消した。地下シェルターのなかは真っ暗闇になった。
くたくたのはずなのに、眠りはなかなか訪れなかった。この十五年、まともに眠れたことは一度もなかった。闇のなかで、おれはノアのことだけを考えていた。
町に出られるのは朝から昼の短い時間だけ。食糧や日用品を調達し、異常がないかどうか確かめる。最初の数年は、おれとおなじように生き残った人間を探した。今ではすっかり諦めてしまった。十五年間、だれとも出会っていないのだ。仲間を求めても虚しいだけだ。それでも、孤独はゆっくりとおれの神経を蝕みはじめていた。だれでもいい。そばにいて、話を聞いてくれる相手がほしかった。
オートバイを降り、歩きはじめる。昔何度も通った道。古びたアパートの階段を上った。
ドアには鍵がかかっていなかった。あの日、怯えるノアを連れ、荷物も持たずに飛び出したときのままだ。
部屋のなかは埃で埋め尽くされ、饐えた匂いが鼻をついた。リビングのソファには脱ぎっぱなしのセーターが丸まっていた。棚のうえや壁にふたりの写真が飾られている。写真たてから抜き取り、ジャケットのポケットにていねいに入れた。
棚にはレコードが何枚も保管されていた。今では骨董品と化した十二インチのアナログレコード。ノアのコレクションだ。おれは興味なかったが、ノアは古い音楽が好きで、ヴィンテージショップで買ったプレイヤーをつかい、よく聴いていた。ジョイ・ディヴィジョン、Tレックス、エアロスミス。ワインを飲みながら、音楽にあわせて踊った。
なかでも、ノアのお気に入りはルー・リードだった。七十年代に活躍し、おれたちが生まれるずっと前に死んだニューヨークのアーティスト。モノクロジャケットのレコードを抜き出し、針を落とした。
掠れた音が流れる。どこか醒めた歌声にあわせて、うろおぼえの歌詞を口ずさんだ。
ベルリンの、壁の脇で
きみの背丈は五フィート十インチ
あれは、とても素敵だった
突然、物音がした。おれは咄嗟に振り向き、ボウガンを構えた。
「だれだ?」
音はキッチンからした。レコードを流したまま、いつでも引き金を引けるようにボウガンを両手でしっかり抱えて、おれはゆっくりとキッチンにちかづいた。
壁に右半身を摺り寄せ、素早くキッチンに飛びこんだ。
「動くな!」
叫んでから、立ちすくんだ。自分が見ているものが信じられなかった。
「ノア……」
ネルシャツにズボン姿のノアが、冷蔵庫の脇で膝を抱えていた。
「動くんじゃない!」
立ち上がろうとするノアを厳しく制する。声が震え、唇がぎこちなく歪んだ。
「ローランド……」
「うるさい、黙ってろ!」
ボウガンを向けながら、唾を飛ばす。膝が震え、目眩もする。想像すらしていなかった事態に、おれは完全に冷静さを失っていた。いや、想像していなかったわけではない。どこかで信じていた。こうしてなにごともなかったかのようにノアが目の前に現れるのを。
「いいか。よけいなことはしゃべるんじゃない。おれの質問にだけ答えろ。わかったな?」
ノアのかたちをしたものが小さく頷く。
「よし。まず……おまえはだれだ?」
「ノアだよ」
「うそだ。ノアは死んだ」
「死んでない。感染しただけだ」
「奴らの仲間になっただろ。“クランケ”に」
床に手をつき、ノアのかたちをしたものはじっとおれを見上げていた。青い目が涙で濡れている。
「ミシガンの実験室でワクチンが完成したんだ。試験的に投与されて、元の姿にもどった」
「信じられるか、そんな話」
「本当なんだ。ほかにもたくさん患者がいるけど、外はまだ危険だから、基地のなかで生活してる」
「じゃあ、なんでおまえはここにいる」
「脱走してきたんだ。きみに会いたくて……」
ノアの目から涙が溢れた。縋るような眼差しに、おれの胸は詰まった。
「ここにくれば会えるんじゃないかと思った。ここはおれたちの家だから……」
おれは視線を泳がせた。あまりに唐突すぎる話だった。混乱して、まともな思考を取りもどすことができない。
「ローランド……」
「やめろ。近寄るな!」
下げかけていたボウガンを構えなおす。ノアはびくっと肩を強張らせておれを見上げた。
「信じてくれ。ローランド。本当にぼくなんだよ」
自分の喉が鳴る音がはっきりと聞こえる。こめかみを汗がつたい、体温が烈しく上昇しているのがわかる。
「……おれが好きな野球チームは?」
「レッドソックス」
ノアは迷いもせずに即答した。
「おれたちがはじめていっしょに観た映画は?」
「レザボア・ドッグスのデジタルリマスタリング版」
「最初のデートの場所は?」
「ジェノ・ストリートで寿司を食べて、そのあとアルの店でビールを飲んだ」
おれは大きく深呼吸した。ボウガンのグリップを握る手が汗でじっとりと濡れている。
「脱げ」
「なんだって?」
「服を脱げ、早く」
ノアは躊躇いながらもシャツを脱いだ。裸の右肩に、銃弾の痕がくっきりと残っていた。
おれの手からボウガンが滑り落ちた。
「ノア……」
おれはノアに駆け寄り、その体を思い切り抱きしめた。
「ローランド……」
嗚咽を漏らしながら、おれたちはきつく互いを抱きしめあった。
森のなかを歩きながら、ノアは不安げに周囲を気にしていた。
「こっちだ」
手を差し伸べると、ぎゅっと握り返してくる。懐かしい手の感触。おれはまた泣いてしまいそうになり、顔を逸らした。
「足元に気をつけろ。右側に罠が仕掛けてある」
「罠だらけだ」
「用心のためだ。何度か奴らがちかづいてきたけど、ここまでは辿りつけなかった」
家に入ると、ノアはようやく緊張を解き、おれの腕に寄りかかった。
「よかった。生きていてくれて」
おれはボウガンを置いてノアを抱き寄せた。頬に手をあて、顔を覗きこむ。そうしなければ幻のように消えてしまうのではないかと思った。孤独が見せる幻覚ではないかと、今でも思っている。しかし、ノアは煙のように消えてなくなることもなく、恥ずかしそうに微笑んでいる。
「おれも、おまえを失ったと思っていた」
くちづけ、抱きしめる。唇の熱さも、肌の手触りも、なにもかも昔と変わらなかった。十五年ぶんの年は重ねているが、あの頃と変わらないノアだった。
「おれをゆるしてくれるか?」
おれの問いに、ノアは怪訝そうに眉を顰めた。
「おまえを車のなかに置き去りにして逃げた」
「ぼくがそうしてくれっていったんだ。ローランドのせいじゃないよ」
ノアはやさしくいって、おれの肩に頭をもたせかけた。控えめな重みが、おれの心を溶かしていった。
ずっと気になっていた。森でノアを見棄て、ひとりだけで逃げたこと。解き放たれた思いで、おれはノアの髪に頬擦りした。
缶詰とパスタでノアが料理をつくった。とっておいたフルーツ缶と粉クリームもつかった。シェルターのなかに椅子を持ちこみ、ベッドに板を置き、クロスを張って、向かい合わせになって夕食を食べた。
ワインを飲みながら、たくさん話をした。ふたりとも饒舌で、よく笑った。
「あのときのローランドの顔。真っ赤になって、こっちが心配になるほどだったよ」
グラスを持った手を掲げながら、ノアが笑う。
「しょうがないだろ。おまえは親友だったし、気持ちを告白したら、軽蔑されると思ったんだ」
「軽蔑なんか……嬉しかったよ。ローランドは昔からぼくがいじめられてるのを助けてくれたし、ぼくなんかのことをずっと好きでいてくれた」
食事を終え、おれたちは並んでベッドに座っていた。ランプの灯りの下で、昔のようにワインを飲みながら話していた。
両親に棄てられ、施設で育ったおれにとっても、ノアはたったひとりの友達だった。おれたちは互いになくてはならない存在で、恋人同士になってからも、それは変わらなかった。あんなことがなければ、ずっとこうしていられたはずだった。
「香港に旅行に行ったこと、おぼえてるか?」
「もちろん。楽しかった。一日中遊んで、船にも乗ったよね」
ノアは懐かしそうに目を細めた。
「あのときのおまえはきれいだった」
「今はずいぶん年を取っちゃったね」
「今でもきれいだ」
ノアは微笑み、おれの肩に頭を乗せた。
「また行きたいね」
「行こう。絶対に」
おれはつよくいって、ノアを抱きしめた。
靴を履いていると、ベッドのなかでノアが身じろいだ。
「ローランド?」
「ここにいるよ」
上半身を屈めて、額にくちづける。ノアは目を擦りながらおれを見上げた。
「もう朝?」
「ああ。外を見てくる」
「あぶないよ」
ノアは不安げにおれの手を取った。
「だいじょうぶだ。奴らは昼間は外に出られない。異常がなければすぐにもどってくるから」
心細そうにまばたきするノアの唇にキスして、微笑んでみせる。
「心配しなくていい。朝食の準備をしててくれ」
ノアの手をすり抜けて、一階に上がった。
スコープを覗き、だれもいないのを確かめて、外に出た。ボウガンのほかに、銃も一丁ベルトに挟んでいる。双眼鏡で周囲を見渡し、辺りの様子をチェックする。
罠をすり抜けながら山を下りていく。驚くほど体が軽い。熟睡したのはいつぶりだろうか。昔のようにノアを腕に抱き眠って、おれは喜びに満ち溢れていた。世界中にだれもいない状況だとしても、ノアさえいてくれれば生きていける。もうひとりではないのだ。
おれは鼻歌を歌いながら林道を歩いていた。警戒心が抜け、ちかづいてくる気配に気づくのが遅れた。
物音が耳に入り、ボウガンのグリップをつかんだ。構えるより先に、声がした。
「動くな!」
男の鋭い声が背中に突き刺さる。おれは不自然な体勢のまま硬直した。
「そいつを棄てて、両手を上げろ」
いわれたとおりにした。鼓動が跳ね上がったが、恐怖のためではなかった。ノアのものではない他人の声。人間の声。
「手を頭の後ろに回して、ゆっくり振り向け」
両手を後頭部に回し、振り向いた。汚れたシャツを着て、全身傷だらけの屈強な体つきの男が、ライフルの銃口をおれに向けて立っていた。
「名前は?」
「ホスキンス。ローランド・ホスキンス」
男は素早くおれを観察した。その間も、銃口は一瞬たりとも離さなかった。
「ここでなにしてる?」
「見回りだよ。奴らがいないかどうか確認してた」
「感染してないのか」
「見りゃわかるだろう」
皮肉をこめていう。仲間を見つけたいとは思っていたが、銃を向けられるのは本意でない。
「あんたはだれだ。どこからきた?」
逸る気持ちを抑えられず、立てつづけに質問した。
「答えてくれ。いったいどうやって生き延びたんだ。おれは十五年間、生き残った人間を探してきたけど、だれにも出会えなかった。ほかにも仲間がいるのか? どうなんだ?」
おれの問いに男はしばらく黙っていたが、ライフルを下げ、いった。
「フランクだ」
伸ばされた手を握り返す。フランクという男も、無愛想ではあるが、ウイルスに侵されているようには見えなかった。
「悪かったな。奴らの仲間なんじゃないかと思ったんだ」
「そんなことはいい。それより、おれの質問に答えてくれ」
周囲に神経を向けながら、フランクはおれの肩に腕を回した。
「残念ながら、仲間はいない。おれもずっとひとりで奴らと闘ってきた。生身の人間と会ったのは、おまえがはじめてだよ」
おれは脱力し、しかし、ようやく会えた生き残りに親愛をこめていった。
「怪我してるのか?」
「たいしたことはない」
「手当てしてやるよ。こっちへ」
おれはフランクに向かって顎をしゃくり、先に立って歩き出した。フランクも躊躇しながらもついてきた。左足を引き摺り、顔色もよくない。見た目より重傷かもしれなかった。
「安全な場所か?」
「十五年隠れてるんだ。すくなくとも、森のなかで夜になるのを待ってるよりましさ」
「ひとりで住んでるのか?」
「ああ……いや、ひとりじゃない」
フランクに手を貸しながら、いった。
「実は、昨日、親友と再会したんだ」
「……感染者か?」
「ちがう。感染はしたけど、今はワクチンで元の姿にもどってる。ふつうの人間とおなじだ」
「ワクチンだって?」
「ああ。おれも知らなかったんだけど、すこし前に開発されたらしい。大量生産されれば、昔の世界にもどるのも夢じゃないかもな」
フランクは笑顔ひとつ見せなかった。強張った表情で尋ねてくる。
「おまえ、家族はいないのか?」
「ああ。両親はいないし、結婚もしてない」
「それじゃ、その親友が一番親しい人物ってわけか」
「そういうことになるな」
実際にはそれ以上の存在だが、初対面のフランクにそこまで説明することもない。
「ノアは収容施設から脱走してきたんだ。奴らに襲われずにここまでこられたのは奇跡だよ。十五年間だれにも会えなかったのに、二日つづけて会えるってのもな。信仰なんて持っちゃいなかったけど、あんがい神さまも棄てたもんじゃないらしい」
おれの言葉にも、フランクは無言だった。思いつめた表情で、黙々と歩く。フランクの様子が気になりはしたが、緊迫した状況では無理もない。おれにだって、まだ完全に心をゆるしたわけではないだろう。
「あんたはどうなんだ?」
「なんだ」
「家族だよ」
フランクは左手を顔の高さに持ち上げ、包帯の隙間から突き出た指を見せた。薬指に銀色のリングが嵌っている。
「結婚してるのか」
「妻がいた。感染して、死んじまったがな」
「悪い。よけいなことを……」
「いいさ。気にするな」
抑揚を欠いた声で、フランクはいった。木々の間に見える屋根を、首を伸ばして眺めた。
「あそこか?」
「ああ。もうすこしだから、頑張れ」
足を引き摺るフランクを助けながら山道を上った。フランクはそれ以上口をきかなかった。どこからきたのか、どうやって奴らの手を逃れたのか、聞きたいことはたくさんあったが、フランクの態度には質問をゆるさない頑なさがあった。妻と死別し、十五年もひとりで暮らしていれば、当然だろう。おれは無言で歩きつづけた。
家に着くと、フランクはおさめていた銃を抜いた。
「危険はないといったろ」
「念のためだ」
ため息混じりにドアを開ける。食欲をそそる匂い。キッチンからノアが顔を出した。
「おかえり。シチューつくったんだ」
銃を持ったフランクを見て、ノアの顔から笑顔が消えた。
「……だれ?」
「フランクだ。さっきそこで……」
振り向きかけ、唖然とする。フランクがライフルの銃口をノアに向けていた。
咄嗟に体が動いていた。フランクが引き金を引くのと、おれが彼に体当たりするのはほぼ同時だった。銃口が逸れ、跳弾が壁にめりこんだ。
折り重なるように床に倒れた。フランクの腕をつかみ、壁に叩きつける。まだ煙を立ち上らせているライフルが転がり、重い金属音を響かせた。
フランクは大男だったが、傷を負っているせいで、腕力はそこまでつよくなかった。揉みあいになり、おれはフランクの上に馬乗りになった。暴れる彼を殴り、体を引っくり返して、押さえつける。
「ノア、ロープだ!」
ノアは呆然と立ちすくんでいた。おれの呼びかけにも答えず、口をひらきっぱなしにしている。
「ノア!」
首を捻って怒鳴ると、雷に打たれたかのように顎を上げた。
「ロープを取ってくるんだ。早く!」
足を縺れさせながら、ノアが部屋の奥に消える。ロープを受け取ると、おれはフランクの手を縛った。
「どういうつもりだ」
息を切らせながら立ち上がる。フランクもくるしげに喘いでいた。鋭い視線はおれの脇をすり抜け、うろたえているノアを突き刺していた。
「そいつはおまえの友達じゃない」
「なんだって?」
「奴らが送りこんだスパイなんだ。人間じゃない」
おれは戸惑い、ノアを見た。ノアは怯えて言葉も出せずにいた。おれを見つめ、こまかく首を振る。
「冗談よせよ。人間じゃなきゃ、なんだっていうんだ」
「アンドロイドだ。奴らがつくった」
おれは絶句して、ノアとフランクを見較べた。
「おれはずっとユタの炭鉱に隠れていた。半年前、死んだはずの妻が現れた。ワクチンが完成して、病気が治ったのだと……」
フランクの話はどこかべつの世界の言語のようだった。荒く息を継ぎながら、フランクは圧しころした声でいった。
「おれは妻を連れて隠れ家にいた。夜になって、奴らが襲ってきた。バリケードは解除されていた」
そのときのことを思い出したのか、フランクは苦痛の表情を見せた。身を捩りながらいった。
「妻とともに奴らに捕まって、飛行機のようなものに乗せられた。おれは隙を見て、逃げ出そうとした。発砲し、弾が跳ね返って、妻の腕に当たった」
フランクの口許に自虐的な笑みが拡がった。
「妻の腕から血は流れなかった。傷口からは無数のコードがはみ出ていて、火花を散らしていた」
手に痛みを感じた。気づくと、ノアがおれの手をきつく握りしめていた。顔は青褪め、縋るようにおれを見つめている。
「奴らは十五年で独自の文明を築いている。とくに、ロボットやコンピュータの技術はおれたちの時代をはるかに越えたレベルにまで達している。おれたち生き残った人間を捕獲するために、アンドロイドを差し向けたんだ」
おれはノアの手を振り払った。彼と距離を置き、ズボンの腰から銃を抜き取った。
「……本当か?」
ノアが大きく首を振る。おれは声を荒らげた。
「はっきり答えるんだ!」
おれの怒号にノアはびくっと体を震わせた。何度もどもりながらいった。
「ちがう。ぼく……ぼくはロボットなんかじゃない」
「嘘をつくな!」
フランクがノアをにらんで怒鳴る。凄まじい形相だった。アンドロイドとはいえ、最愛の妻に裏切られたのだ。その怒りと絶望は容易に想像できる。
「ローランド、これをはずせ。時間がないぞ。すぐに夜になる」
「黙ってろ!」
銃口を向けると、フランクは視線を天井に向けた。おれはノアに視線をもどした。
「ローランド……」
「おれの話は本当だ、ローランド。嘘だと思うなら、こいつを撃ってみろ。人間なら血が出るはずだろ」
フランクの言葉で、ノアはますます青くなった。怯えきって混乱している。
おれは銃口をフランクに向けた。
「黙ってろといったはずだ」
低い声でいって、銃口を向けたままノアを見つめる。
「手伝え、ノア。こいつを地下に連れていく」
「ローランド!」
フランクが腫れた目を剥く。
「よせ、ローランド。奴らはもうここへ向かってる。おれもおまえも殺されるぞ!」
おれはフランクの声に耳を貸さなかった。暴れる彼を無理矢理立たせ、地下シェルターに放りこんだ。フランクのわめき声は厚いドアに遮られ、聞こえなくなった。
リビングにもどると、ノアが立っていた。手にナイフを持っている。
「……なにしてる?」
おれの問いに無言で俯く。
「それを渡せ」
ちかづこうとすると、後ずさって逃げた。
「ノア」
おれは銃を左手に持ち換え、ノアに向かって右手を差し出した。
「渡すんだ」
ノアはじっと唇を噛んでいた。おれを見つめ、ナイフの刃を自分の腕に圧しあてた。
「ぼくはロボットじゃない。人間だ。それを証明する」
「ノア!」
おれはノアに駆け寄り、その手からナイフを叩き落とした。もがくノアを力づくで押さえこみ、抱きしめる。
「そんなことしなくていい」
掠れた声。ノアの体温を感じながら、おれは呟いた。
「おまえは人間だ。おれはおまえを信じてる」
「ローランド……」
ノアが嗚咽を漏らした。首すじに濡れた感触。ノアの涙。人間である証拠だ。
「おれは昔からノアをよく知ってる。あいつはおとなしい性格で、繊細だったけど、決して弱い人間じゃなかった。おれなんかよりずっとつよくて、やさしかった。ノアなら……あいつなら、今みたいなことをしようとする。間違いなく」
ノアがおれを見つめている。まばたきすると、目尻から涙がこぼれた。おれは指先でそれを拭った。
「もうじゅうぶんだ。おまえはノアだ。おれが愛したノア・ブライアントだ」
ノアの指がきつくおれのシャツを握りしめた。
身を寄せあってソファに寝ころび、ビデオを見た。レザボア・ドッグスのリマスタリング版。時代遅れのスーツを着た男たちが派手に銃を乱射している。
ワインを飲み、いつの間にか目を瞑っていた。ノアがおれの肩を揺すった。
「ローランド」
熱い息がおれの耳を擽る。おれは手を伸ばし、ノアの腰を抱き寄せた。ノアは身を捩って避け、おれの腕をつかんだ。
「ローランド、起きて。じき暗くなってしまう」
ノアの声は切迫していた。たしかに、閉じた瞼に感じる光が薄くなっているのを感じた。
おれはゆっくりと目を開けた。不安を湛えたノアの青い瞳がすぐそこにあった。おれはノアの頭を撫でながら、再び目を閉じた。
「ローランド!」
いきなり頬を叩かれ、おれは顔をしかめた。
「なにすんだ」
「今すぐ起きて、ぼくの話を聞いてくれ」
「わかった。シェルターに入るよ。まったく、まるで口うるさい母親だな」
ノアは笑わなかった。いつも真面目で、冗談を理解しない。しかし、このときはちがった。張り詰めた表情でいった。
「これを見てくれ」
おれの腕を引いて起こさせ、ノアはナイフを握った。止める間もなく、腕に突き刺した。横一文字に切り裂く。
ノアの腕から様々な色のコードが突き出るのを、おれはぼんやり眺めていた。
「……見たぞ。これで満足か?」
「ローランド……」
ノアはなんともいえない眼差しでおれを見つめた。悲しそうな声でいった。
「彼のいったことは本当なんだ。ぼくは彼らにつくられ、彼らの命令でここにきた」
「へえ。そうかい」
頭の下に腕を挟んで、おれは笑った。窓のない部屋に夕焼けの匂いが押し入ってくるかのようだった。
「よくできた機械だな。その瞳も、キスも、肌の感じも、ノアそっくりだ」
おれはアンドロイドのノアの頬に指を這わせた。
「……ビッグフットを知ってる?」
「ゴリラの化けものか。雪山にいて、道に迷った旅人を襲う」
「今のきみがそれだ」
ノアの青い瞳がおれを捕らえていた。
「十五年前、ウイルスが地球を襲った」
「FQ107Pだな」
「感染したひとのほとんどは死んだけど、残った者は独自の進化を遂げた。言語も体質も生殖機能もすべて変化した」
「言語って、あの超音波みたいなやつか」
「暗闇でも意思疎通できる。繁殖には……」
「やめろ。聞きたくない」
「新しい環境に順応してるんだ」
「新しい環境?」
「太陽の力がつよくなりすぎて、地上で生活できない。彼らはすでに地下世界での生活をはじめてる」
「おれは地上で生活してるぜ」
「きみやフランクはいわば突然変異だ。FQ107Pの影響を受けなかった。生まれつき抗体があるのかもしれない」
おれは顔をしかめた。
「おれたちを捕まえて、人体実験しようってのか」
「きみたちは森に入った彼らを襲ってる」
「奴らが襲ってきたんだ」
「見たこともない姿かたちの生きものが突然現れたら、防衛しようとするのは当然だろ」
「見たこともないだって?」
おれは起き上がり、ノアに向かって指を立てて見せた。
「奴らだって、元はおれとおなじかたちをしてたんだ。だからおまえをつくったんだろ」
電子コードが剥き出しになった腕をつかむ。ノアは鼻梁に皺を刻みこんだ。痛みを感じるのか、それとも、おれに真実を話すことを躊躇っているのか、どちらにしても、機械の表情だとは思えなかった。
「本物のノアはどこだ」
腕をつかむ手に力をこめて、おれは詰問した。
「見た目も表情も、記憶まで、おまえはノアそのものだ。コピーには原本がいるはずだ。あいつは生きてる。そうだろ?」
「知らない。生きてたとしても、感染前の記憶はないんだ。でなきゃ、彼を見つけるのに十五年もかかってないよ」
ノアはいたって事務的に説明した。
「その話はあとにしよう。今は逃げなきゃ」
「奴らにここの場所を教えたのか」
ノアは黙っている。おれはため息をついた。
「どうしておれに逃げろなんていうんだ。おまえはおれを捕まえるためにきたんだろ」
返事はない。おれはワインを取り上げ、ボトルから直接飲んだ。どれだけ飲んでも酔いは訪れなかった。
「どうでもいいさ。おれたちは化けものなんだ。いなくなったところで、だれも困らない」
「そんなことない」
今度はノアがおれの手をつかんだ。その指から熱いものが溢れ、おれの全身を駆け巡り、心臓の鼓動を高めた。
「きみに生きていてほしいんだ」
「……機械がなんでそんなことを」
「わからない。でも……ノアなら、きっとそういうと思う」
ボトルを置いてノアを見た。ノアのかたちをした精密機械。新しい世界はすでにはじまっているのだ。おれたちは取り残され、惨めに山に篭もっているしかない。
細い腕のなかに並ぶコードとチップのようなものを見下ろした。フランクの話が事実ではないかと思っていた。しかし、そんなことよりも、ノアを失うほうが恐ろしかった。たとえまがいものでも、ノアはこうして目の前に存在しているのだ。
「先に行ってろ」
おれはノアを押しのけ、立ち上がった。
「ローランド……」
「早く行け。おれもすぐ後を追うから」
いいかけたときだった。猛烈な破壊音と煙が上がり、家の半分が削ぎ落とされた。
「ローランド!」
「逃げろ、ノア!」
叫ぶのと同時に、走った。棚にしがみつき、一気に押し開く。
シェルターのドアを開け、階段を駆け下りた。フランクは縛られたままベッドに座っていた。
「今の音は?」
「奴らがきた」
「くそっ、だからいわんこっちゃない」
おれはフランクの手首を拘束していたロープを解き、彼を助け起こした。背後ではあの不気味な機械音と家具が破壊される音が絡みあって響いていた。
「銃をくれ」
丸腰では逃げることもできない。おれはフランクを殴ったが、この状況で復讐される心配もないだろう。躊躇することなく、ブーツに挟んでいた小型銃を渡した。しかし、フランクは立ち上がらなかった。
「なにしてるんだ。早く……」
振り向いて、硬直した。自分の犯したミスに気づき、立ち尽くした。
フランクは自由になった手で銃を構え、銃口を自分のこめかみに圧しあてていた。
「もう逃げられない」
「おい、よせ。落ち着くんだ」
「奴らに捕まってモルモットにされるのはごめんだ」
吐き棄てるようにいって、フランクは微笑んだ。
「ケイトが待ってる」
「フランク!」
銃声。フランクの体はゆっくりと傾き、床に崩れ落ちた。命が消えているのはあきらかだった。
呆然としているおれの背中に、針のようなものが突き刺さった。おれを呼ぶノアの声を遠くに聞きながら、おれはフランクの死体の横に突っ伏した。
頭が重い。体が動かない。瞼を開けると、数匹の“クランケ”が顔を覗きこんできた。
いや、今の立場を考えれば、“患者”と呼ばれるべきはおれのほうか。自虐的に考えながら、奴らの顔をにらみつけた。
剥き出しの脳を半透明の膜が覆い、手足は細く、全身に黄土色の鱗のようなものがまとわりついている。眼窩は空洞になっていて、代わりに発達した巨大な鼻が顔の半分を占めている。顎の下に垂れ下がった細長い髭のような部分は触覚のような役割を担っているらしく、触手のように伸びておれの首や頭を這いまわった。
不快さに思わず顔を背ける。触手の肌触りもさることながら、奴らの姿かたちはあまりにも醜く、正視に耐えなかった。こいつらが新しい人間として地球を支配していくのだとしたら、それは悪夢以外のなにものでもない。
強力な光をあてられ、眩しさに目を細めた。白い視界の向こう側で、ガラスを擦るような音が飛び交った。新人類がつかう言葉。もちろん、おれには意味を理解することができない。
身を捩ったが、硬い鉄のようなものに両手足を拘束されていて、身動きできない。暴れるおれをよそに、“クランケ”たちは頷きあい、滑るような動きで部屋を出て行った。
目の奥が痛むほど白い部屋のなかに、おれはひとり残された。実験室のようで、おれが括りつけられた台を囲むようにして、見たこともない機械が所狭しと並んでいる。あのアンドロイドがいったことのすべてを信じるわけではないが、すくなくとも、奴らの持つ文明が優れていることだけは確からしい。
頭も固定されていたが、眼球を上下左右に動かして、周囲の様子をさぐった。どうやら実験室のような場所らしい。おれは奴らの手によって解剖され標本にされてしまうわけだ。
フランクの選択は正しかった。実験の材料にされるぐらいなら、自殺したほうがはるかにましだった。後悔の念に苛まれながらも、おれは必死にもがいた。
やがて、再び扉がひらいた。奴らのうちのひとりがぬっと顔を出し、床を滑るようにちかづいてきた。おれのそばに立ち、首を傾げるようにして顔を覗きこんでくる。触れあいそうな距離にまでちかづくと、悪臭がした。
吐き気をこらえ、口のなかに溜まった唾を“クランケ”に向かって吐いた。顔に唾を吐きかけられ、相手は一瞬怯んだ。
おれは無言で新人類とやらをにらみつけた。怒鳴ってやったところで、どうせ意味などわからない。
おれの敵意を察したのか、相手は静かに離れた。細長い触手の先をつかって機械を操作する。
とたんに、頭や手足を拘束していた器具がはずれた。突然自由になって戸惑ったが、体のほうが先に動いた。
振り向いた“クランケ”を突き飛ばし、台から飛び降りた。“クランケ”の体は意外に軽く、壁に激突して転がった。
牽制している余裕はなかった。裸足のまま部屋を横切り、扉に飛びついた。力まかせにこじ開けようとしたが、取っ手ひとつない扉はびくともしなかった。
「くそっ!」
思い切り蹴り上げると、なぜかあっけなく扉がひらいた。不思議に思うより先に、外へ転げ出た。
部屋を出ると、扉は再び自動的に閉まった。咄嗟に外側の機械を拳で叩き壊す。これで相手は外に出られなくなったはずだ。
壁に背中を圧しつけながら、おれは烈しく喘いだ。全身から汗が噴き出し、息が上がっている。なぜかわからないが、ピンチを脱することに成功したらしい。
見張りでもさせられていたのか、よほど間の抜けた奴だ。室内に残された“クランケ”の様子を確認しようと立ち上がり、扉の横に設置された小窓に顔をちかづけた。
ほぼ同時に、扉の反対側で“クランケ”が立ち上がった。海月のような動きで窓にぴったり張りつく。
窓ごしに再び視線があい、おれは思わず声を上げた。後ずさりながらも、化け物に向かって中指を突き立ててみせた。
「ざまあみやがれ、この野郎。不細工な化けもんが!」
相手は無言でおれを見つめていた。瞳にあたる部分が黒々とまたたき、なにかいいたげに見えた。
「なんだよ。悔しがってんのか。化けもんにそんな感情があるのかよ?」
興奮は笑いに変わった。肩を上下させながら周囲に視線をめぐらせる。まだ気づいた奴はいないようだが、油断はできない。さっさと逃げたほうがいいだろう。
「じゃあな、クソ野郎」
踵を返しかけたところで足を止めた。ゆっくりと振り返る。
ぺたりぺたりと裸足の足音を立てながら、小窓の前にもどった。小さな四角のなかで、奴はまだおれを見ていた。
ゆっくりと顔をちかづける。一枚のガラスを挟み、鼻先が触れあいそうな距離で、化け物と見つめあった。奴の黒い皮膚が蠢き、触手が持ち上がった。細い先端がおれの顔を縦に撫でるように滑った。唇の位置で止まり、おれの顔をたしかめるかのようにそのままじっと動かずにいる。
「……うそだろ」
無意識に首を振っていた。頭の奥が急激に冷え、足ががくがく震えた。
「おまえ……ノアか?」
おれの声が聞こえているのか、奴は巨大な頭を横に傾げた。そのしぐさにはたしかにおぼえがあった。忘れるはずがない。
おれは窓にへばりつくようにして奴を見つめた。頭に較べて小さく骨ばった胴体。右の肩に小さな傷跡があった。黒い皮膚に埋まって判別しにくいが、わずかにへこんで灰色に変色している。
「ノアなのか!」
叫ぶようにいった。相手の反応はない。おれは我を忘れて扉にしがみついた。必死に錠をはずそうとするが、スイッチを破壊された扉はまるで動かなかった。
「おれだ、ノア。くそっ、ノア、ノア、おれがわかるだろ?」
つくりもののノアによると、感染前の記憶はなくなっているのだという。しかし、ノアはおれをおぼえていて、助けにきた。複製をつくるために記憶をほじくり返された影響なのか、それとも、ほかに理由があるのかはわからない。とにかく、ノアはこんな姿になった今でもおれをはっきりとおぼえていた。おれのほうはまったく気づかなかったのにもかかわらずだ。
「待ってろ、ノア。すぐ出してやるからな。いっしょにここから出よう」
まくしたてるようにいったが、手だてがあるわけもない。おれを制するように、ノアが首を振った。
それが合図だったかのように、地面が大きく揺れた。慌てて両足を踏ん張り、周囲を見渡す。
壁に罅が入り、亀裂が大きくなっていった。地鳴りのような低い音とともに、足元の床がこまかく揺れつづけている。
「ノア……」
おれは青褪めながらノアを見た。
「おまえ、なにをやったんだ?」
表情のない醜い顔。一瞬、微笑んだようにみえた。おれは拳から血が出るほどつよく何度もドアを叩いた。
「だめだ、やめてくれ。ノア……!」
またノアを失ってしまうのか。おれは子どものように泣き喚きながら扉に取り縋った。
早く行けというように、触手の先が窓を引っ掻く。おれは首を振りつづけた。
「ノア……」
おれの声に応えようとするかのように、ノアが口許を動かした。つぎの瞬間、ひときわ大きな音がして、天井が迫った。おれのいる外側はかろうじて均整を保っていたが、ノアのほうはそうはいかなかった。
崩れた天井がノアの頭上に降り注ぎ、轟音とともにけたたましい叫び声が響いた。
「ノア!」
夢中で窓を割ろうとしたが、硬いだけでなく柔軟性もある窓はやはり微動だにしない。叫ぶおれの目の前で、ノアの体は潰された。残ったのは白い煙だけだった。
おれは呆然としながらその場にへたりこんだ。子どもの頃、クラスメイトたちにいじめられているノアをよく助けてやった。しかし、ノアはいじめっ子たちを憎むどころか、仕返しをしようとするおれをやんわり制した。
腕っぷしばかりが自慢だったおれなどよりも、ノアはずっとつよい人間だった。華奢な体のなかには強靭な精神力と純粋な心が宿っていて、そのどれもがおれには眩しかった。心の底から愛していた。
金属を擦るような音がした。“クランケ”の集団が集まりはじめていた。おれに気づき、重なりあうようにして追いかけてくる。おれは立ち上がり、走り出した。
あちこちで爆発が起き、天井は今にも崩れ落ちそうだった。おれに構っている暇はなくなったのだろう。追っ手の数は減っていた。空いた部屋に身を隠してやりすごした。屈みこんだおれのすぐ脇に、太い支柱が転がって粉々になった。
「ちくしょう!」
再び廊下に出て、いくつも並んだ扉を開けていく。どこだ。どこなんだ。
最後の扉を開けたとき、おれの目前には台に横たわった彼の姿があった。
深い森のなかで、おれは膝を抱えてうずくまっていた。隠れ家のあった場所ではない、未知の森だ。崖のそばの洞窟に身を隠し、じっと息を潜めていた。
「どうして……」
掠れた声で、ノアがいった。
「どうしてぼくを助けたんだ」
おれからすこし離れて、彼はしゃがみこんでいた。青い瞳がおれを見つめていた。埃や泥に汚され、顔はくすんでいたが、その表情にはつよい意思と若干の戸惑いが見てとれた。
「ぼくは彼じゃない。わかってるだろ?」
「わかってるさ」
静かに答えた。いつの間にか振り出した雨が木々や地面を叩き、おれの声をかき消していた。
「おれは二度もノアを失った。三度目はごめんだ」
おれの言葉が聞こえたかどうかはわからない。ノアは岩の上をゆっくりと移動して、おれのそばにきた。腕同士を擦りつけさせ、ぴったりと寄り添った。
なるほど、奴らの文明とやらはたしかにすぐれているらしい。こんなにあたたかく、やわらかいなんて。彼はノアそのものだった。
おれはノアの指を握りしめ、湖の底を思わせる深い青の瞳を見つめた。
「おれを愛してるか?」
ノアは答えなかった。機械に尋ねることじゃない。それでも、いわずにはいられなかった。
「愛してるなら、おまえにとっては残酷だ。おれがおまえより先に死ぬのは確実だからな」
やや自嘲気味に微笑む。寒さで唇が震えた。
「おれはけっきょく、自分のエゴでおまえを連れ出したんだ」
ノアはまばたきもせずにおれを見つめつづけていた。おれの腰に腕を回して、呟くようにいった。
「愛してる、ローランド」
右半身にかかるノアの体重。おれはそっと目を閉じた。ノアならきっとそういうだろう。
雨の音を聞きながら、おれたちはいつまでも身を寄せあってじっとしていた。
『見ろよ、博士』
兵士のひとりがいって、博士と呼ばれた男は顔を上げた。強力な紫外線から体を守る防護服は重く、身動きするには不便だった。ぎこちない動作で崖を上り、しめされた箇所にちかづいた。
兵士たちが取り囲んで観察していたのは人間の死体だった。かなり前のものらしく、干からびてほとんど本来のかたちをとどめていなかった。
『やれやれ。どうやら化け物が出るって噂もあながち間違いじゃないらしいな』
『まだわからないぞ。獣かもしれない』
リーダー格の男が用心深くいって、再び先に立って歩きはじめた。窘められた部下は首を窄めて後につづいた。ほかの部下たちもそれぞれに銃を携えて武装してはいるが、本気で仕事に取り組んでいるようには見えなかった。
『こんなの馬鹿げてるぜ。くだらねえ迷信なんか信じて。付きあってられねえよ』
小さな呟きを無視して、博士は屈みこんだ。ミイラ化した死体をじっくりと見つめる。木と石でできた拘束具が左足に絡まっている。おおかた地元の若者が面白半分に森に入って罠に嵌ったのだろう。動けずにもがいている間に朝がきて、日光にやられてしまった。
即席の拘束具は歪だったが、それなりによくできていた。はるか昔の手法ではあるが、現代文明にちかい仕組みも取り入れられている。
『気をつけろ。まだ罠があるかもしれない』
博士は声を張り上げたが、兵隊たちは一笑に付した。
『旧人類の末裔がおれたちを待ち構えてるってのかい。恐ろしいね』
防護服の内側で博士は顔をしかめた。彼らはなにもわかっていない。
『口のききかたに気をつけたまえ。わたしは注意を払うようにと忠告してるんだよ』
『そっちこそ、あんまり調子に乗るんじゃねえぞ』
まだ若い兵士は防護服をがちゃがちゃいわせながら博士に指を突きつけてすごんだ。助手の若者は怯えて博士の後ろに隠れている。
『人類学の権威か知らねえがな、おれたちにいわせれば、あんたはただの変人だよ。何百年も前の人類が生き残ってると本気で思ってんのか?』
たしかに、可能性はすくないが、ゼロではない。研究に研究を重ね、ある程度の確信を持っていた。しかし、彼らにそれを説明する気にはなれなかった。どうせ理解できはしないだろう。
『おい、なにしてる』
リーダーの声に、若い兵士は舌打ちして博士から離れた。踵を返して歩きはじめる。数歩いったところで、小さな音がした。博士ははっとして叫んだ。
『動いてはいかん!』
『なんだって?』
兵士が振り向く。つぎの瞬間、爆発が起きて、兵士の下半身は吹き飛んだ。
唖然としている兵士たちがつぎつぎに倒れていく。物音はほとんどしなかった。博士は助手とともに頭を抱えてその場に伏せた。目の前に兵士の死体が転がる。細長い棒のようなものが防護服を突き抜けて眼に刺さっていた。
がなり声と銃声。永遠につづくかのようだった。しばらくしてリーダーの男が撃つのをやめるよう叫び、ようやく森に静けさがもどった。しかしそれはほんの一瞬で、すぐにまた叫び声が交錯する。
『どこに行った?』
『ぐずぐずするな、追え!』
博士は恐怖をこらえて頭を上げた。気づくと周りは死体だらけになっていた。助手はまだ泥に顔を圧し付けて悲鳴を上げている。彼を置いたまま、兵士たちについて走り出した。
行き着いた先は深い洞窟だった。その奥で、小さな影が丸くなっている。
博士は兵士たちを押しのけて前にすすんだ。にわかには信じがたい光景が目の前に拡がっていた。
木を燃やして火を焚いた跡。その横に、男がうずくまっている。男だとわかったのは、頭のなかの研究資料による知識からだった。その姿は、今現在生存しているどんな生物ともちがっていた。
『彼が伝説の“森に棲む男”だったんだ』
『こいつはいったい……』
兵士のひとりが呟いた。さすがに声が上擦り、震えている。
『人間だよ』
博士は答えた。ようやく見つけた真実に直面しても、不思議と興奮はなかった。
『これが人間だって?』
『わたしたちの祖先だ。何世紀も昔から、この姿だった』
『ちがうな。よく見てみろよ。人間じゃないぜ』
いわれなくてもわかっていた。半分なくなった頭部からは人工的な無数の管が飛び出し、かすかな火花を散らしていた。肩や腹、足にも銃で撃たれた傷があり、そのどれもが人間にあらざる様相をしていた。
『アンドロイドだ』
『旧人類がつくったのか?』
博士は首を振ることで無言の否定を返した。旧人類にそんな技術がないことははっきりしている。かといって、最新のアンドロイドほど精巧なつくりもしていない。おそらく、人類が急激な進化を遂げたといわれる時期よりもあとにつくられたのだ。理由はわからない。今こうしているように、旧人類を探し出し、検体として手に入れるために精製されたスパイロボットだろうが、それがなぜここにこうしているのかという説明はつかない。すべては推測にすぎず、唯一の証拠であるアンドロイドが破壊されてしまった今となっては、真実を知る手段はどこにもない。
兵士のひとりが恐る恐るちかづき、動かなくなったアンドロイドの体を持ち上げて引っくり返した。その顔は泥や火薬で汚れ、銃撃を受けたせいで顔の半分を失っていたが、残された片眼は大きく見開かれ、美しい青色の瞳が博士を見上げていた。
博士はその瞳から目を逸らし、彼の体の下にあったものを見つめた。白骨化してほとんどばらばらになった死体。アンドロイドはまるで体を張って守ろうとするかのように、その上に覆い被さって死んでいた。
『これは……?』
『それこそが旧人類だ』
博士は確信を持って告げた。彼らのものともアンドロイドのものとも異なるその見事なかたち。見たところ、目立った外傷はなく、死因は病気か老衰だろうと思われた。博士は地面に膝をついて骨を眺め、再びアンドロイドに視線を向けた。
『彼を守りつづけてきたのか。数百年もの長い間ずっと……』
深い湖の底のような青い瞳。“森に棲む男”の悲しい眼が、いくつもの触手がまとわりつく博士の老いた顔を映し出していた。
おわり。
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