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 住宅街を走り、乗車した時に告げた通りに入ると、若生さんが車を減速させた。  ここは街灯が少ないため、暗くなると不気味になる通りだ。 「ここらへん?もう少し進む?」 「あ、いえ。もう目の前なので、大丈夫です」 「おっけ」  路肩に停車したのを確認すると、私は改めてお礼を言い、シートベルトの金具を外した。 「じゃあまた。気を付けて」 「あ、はい。若生さんも、お気をつけて」  車外へ出て何度か頭を下げながらドアを閉めると、我が家がある方向へ行くために、車の前を通り過ぎる。ここで車が再び発進するのを待とうと思い、脚を止めた。  お見送りした方が礼儀正しい気がするというのもそうなのだが、私の背後のすぐそこにある古びたアパートが我が家だと、見目麗しく恐らくお金もそこそこ持っている若生さんにバレてしまうのは、乙女としては恥ずかしいのである。  完全に車が見えなくなるまで手を振って見送ろうとしたのだが、なぜか若生さんが運転席の窓を開けた。 「そういえば名前なんだっけ?」 「え。あ、長谷部ふみ、です」 「あー、そうそう。長谷部さんだった。急に悪い。うろ覚えだったから確認したくなって」 「あ、いえ。はい」  うろ覚えで当たり前だ。  私は若生さんが働く会社の社内カフェで委託業者から派遣されているだけの、通称、コーヒーのお姉さんなのだから。  でも私は若生さんのフルネームを知っている。  若生太一。  まだ新しい会社だが勢いのあるゲームメーカー、Pi-chiku株式会社の開発部チームリーダー。社長とは公私ともに仲が良いみたいで、陰の支配者とか言われてたりするらしい。  会社は服装自由なのに、毎日襟付きシャツとスーツパンツ。デザインはカジュアルだけどきっちりしていて、清潔感と上品さ、そしてやり手感を放っている。  人を引っ張っていくようなカリスマ性があるのに気さくで、顔も良いのだから、そりゃあ人気なのも頷ける。  ただのコーヒーのお姉さんですら、ひと月に一度買いに来るか来ないか程度なのに名前と顔を覚え、接客する時はドキドキして手が震えてしまうくらいだ。
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