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夏には魔物がいるらしい。
会ってしまえば最後。今までの自分とは全く別な人間にされてしまうという。そして魔物は夏の終わりとともに跡形もなく消える。
「――それって暑くて頭おかしくなるってこと?」
隣を歩く英に胡乱げに見下ろされて、僕は首を振った。
「違う、夏の魔物に会うと破滅するって話だよ! ……あれ、違うか。ええと」
空に掛かった半月を見上げながら、さっきサークルの飲み会で先輩から披露された話を思い出そうとしたけど記憶は曖昧だ。多田先輩が肩に手を回してぎゅうぎゅう締め付けてくるから、話を聞くどころじゃなかったのだ。そのうえ急に英が先輩にヘッドロック掛けるから話は途中になったし。
「とにかく! 夏は魔物がいるから気を付けた方がいいってこと!」
「……あっそ」
そっけない返事に僕は英を盗み見た。なんだか今日はやけに機嫌が悪い。夜中なのにちっともおさまらない蒸し暑さのせいだろうか。
「それよりお前気を付けた方がいいんじゃねえの? 多田先輩」
突然話が変わって僕はきょとんとした。
「どういう意味?」
「わかんねえのか?」
僕が「うん」と頷くと、英はいらだったように舌打ちをした。
「こういうことされるって言ってんだよ」
英は急に僕の肩を掴んだ。えっ? と驚いた瞬間、焦点が合わないほどに英の顔が近づいてきて、唇に何かが押し付けられた。温もりだけを残し英は素早く体を離す。
「……え、これって」
キスだ。理解した途端全身が熱くなる。そして信じられないことに、一番に浮かんできたのは嬉しいという感情だった。
僕は雷に打たれたみたいにはっとして叫ぶ。
「夏の魔物だ!」
俯いていた英が顔を上げて目を剥いた。
「きっとそうだよ。おかしいもん、英にキスされて嬉しいって思うなんて! ……あっ」
失言に気が付いて慌てて口を押えたがもう遅い。
英の目がぎらっと光った。
「夏の魔物じゃねえ」
英の熱い手が、僕の汗まみれの腕を掴む。
「そんなもんのせいにされて堪るか」
(おしまい)
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