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足は、吐き出し窓に向いた。遮光カーテンの狭間に夜が広がる。雲間のむこうに満月が薄く透けて、淡い光を放っていた。ガラス窓を開け、ベランダに躍り出ると手すりの上部に身を乗り出す。眼下は暗い。迷いは無かった。
「そういうのってさ、調べても出てこないものもあるから、あんまりアテにならないんだよねえ」
自分の発した言葉が思い出される。この部屋に住んで、しばらくして以前の居住者の真相を知った。ずいぶん昔から入れ替わりが激しい理由も。
住人が他所で惨たらしい死を迎えようが、住居には一切関わりがない。死人が出なければ、賃貸契約時に告知の義務も生じない。
人生は不平等だ。いくら恨んでも、死んだら禍など起こせやしない。紛れもない現実だ。そう高をくくっていた。
頭を下にする。恐れはなく、落下の感覚ですら救いとなる。
早く、一秒でも早く、終わらせないと──
隣人はまだましだった。うかつにもこの部屋で殺してしまったが、あの死に様なら頭に──脳内に棲みついた、災厄の顔をあいつは二度と見ずにすむのだから。
礼を言ってほしいくらいだった。
ただ、不安だけが残る。三階からの高さで死にきれるだろうか。万が一にも、生き残ってしまったら。
頭のなかにあの女がいる。声のない呪詛を吐き続ける。壊れた口が揺らぎ、損傷した動画のごとく同じ場面を巻き戻しては繰り返す。
落下の終わりが間近に迫る。雲間から月明かりが差す。植え込みから影が斜めに落ち、くっきりとした澱みを作る。
顔だけの女が、地上にへばりついて笑っていた。
〈了〉
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