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今日は金曜日。放課後は音楽部の活動があった。
トランペットケースを手に、音楽室に向かう。するととなりに小谷明奈(こたにあきな)が寄ってきた。同じクラスの音楽部員で、彼女はトロンボーンを吹いている。私ほど練習熱心じゃないので、音楽室にトロンボーンを置きっぱなしにしていた。
「多満子、たしか今日って、新しい楽譜をもらえるんだよね」
「楽しみだよね」
「うんうん。でも、土屋先生もすごいよね、楽譜をパソコンで打ち込んできてくれるって。さすが若い先生だけあるよね! じいさん先生とは大違い」
「あはは……」
明奈は笑いながらそう言うと、途中で私と別れて職員室に向かっていった。彼女は音楽部の部長なので、今、話題に上がった新しい楽譜を受け取ってくるのだろう。明奈と別れてから私はふと「小谷明奈……明奈も頭文字がKなんだよなあ」と思い当たった。
千紘と暗号の解読に関して話し合った結果、犯人をクラスメートにしぼって探してみることにした。クラスメートが犯人である方が、隙を見て本を盗ったり、私や千紘の行動を観察しやすいだろうと思ったのだ。そこで頭文字がKのクラスメートをあとで洗いだしてみよう、と千紘と話していた。
「明奈が犯人だったら……。イタズラをしそう、って意味ならありえるかなあ」
そうつぶやきながら私は音楽室に入る。すでに部員のほとんどが集まっていた。みんな丸イスに座って円を描いている。十人ほどが集まっているから、明奈を合わせてあと二、三人がまだ来ていないようだ。そして顧問の土屋先生のすがたもないことに気づいた。土屋先生もまだ職員室だろうか?
「やっほー。みんな早いねー」
私が音楽室に入ると、部員の数名がふり返って「多満子先輩こんにちは!」「多満子やっほー」と返してくれた。私はだれにともなく「今、明奈が職員室に行ってて、新しい楽譜をもらってくるよ」と言うと、「了解です」や「わかった」と返事が、あちこちから返ってきた。
部員たちと同じように丸イスに腰かけると、ランドセルとトランペットのケースを足元に置いた。楽譜が配られる日は、譜面の読み合わせや曲の見本を聞いて過ごす。だからトランペットをケースから出さないでいた。
五分も待たずに明奈が音楽室に入ってきた。
「ほいほい、新しい楽譜でっせー! みんな、パートごとに取ってね」
明奈がたてよこに重ね合わせたパートごとの楽譜は高さ二十センチほどにもなっていて重そうだった。すぐに三人ほどの部員が手分けして楽譜を受け取っていると、私はその間に書類棚に近づいた。教室の前にある、アルミ製の書類棚には教材の他に、ホッチキスやノリ、ハサミにカッターといった文房具が収納されている。どの教室にもある先生用の書類棚と同じで、本来なら生徒が勝手に開けたり漁ったりするのは良くないのだけれど、音楽部員は土屋先生にお目こぼしを受けていた。
「あっちゃ、芯が切れてるじゃん」
私からホッチキスを受け取った明奈が、空になっていたホッチキスをカチカチと鳴らしてみせる。私は慌てて文房具の引き出しを開けたが、ホッチキスの芯が入った小箱は見つからなかった。
「ホッチキスの芯ですか? ちょうどきれていたので、事務員さんからもらってきたところですよ」
音楽室の戸を開けて土屋先生が入ってきた。そしてホッチキスの芯が入った小箱を明奈に渡した。
「さすが土屋先生! 用意が良いね!」
明奈はそう言って、ホッチキスの芯を充填すると、楽譜を手にした部員にホッチキスを回した。私も土屋先生の準備の良さに、自分のことのようにうれしくなってうんうんとうなずいていた。
「そう言えばさっき、話題になったんですけど」
新しい楽譜をさっそく手に取った部員の五年生、クラリネットの担当の男の子が土屋先生を見上げてたずねた。
「土屋先生、きらきら星が嫌い、って本当ですか?」
私は「え?」と自分のパートの楽譜に伸ばしかけた手を引っ込めて、その男の子の方へ目を向けた。クラリネットの男の子は、クラスメートでもあるフルートの女の子に「なあ?」と同意を求めていた。
「はい。妹のクラスで、リコーダーの教科書できらきら星を飛ばしたから、土屋先生がきらきら星を嫌いなんだ、ってうわさが流れているんです」
土屋先生がきらきら星を嫌い? どういうことだろう――と私は首をかしげながら土屋先生を見上げる。他にも興味を持った生徒たちが、興味津々な視線で土屋先生を見上げていた。土屋先生は「困ったなあ」と言って頭をボリボリとかきはじめた。
「ええっ、きらきら星が嫌いなんですか? アタシたち音楽部の最初の練習曲には「きらきら星なんかが良いよね」って言ってたのに!」
明奈が追い打ちをかけるようにそう言うと、土屋先生はごまかすようにほほを指で書きながら笑った。
「先生はきらきら星が上手く弾けないんだよ。だから授業じゃやんないのさ」
すると部員たちから一斉に「うっそだー!」と声が上がった。私も「うそ!」と大声を上げて笑った。きらきら星が難しいなんて言う人がいるとは思ってなかったのだ。しかも音大出の先生に限って、と。
明奈もそう思ったのか、楽譜を放り出すとピアノのフタを開けて「先生! ピアノ上手でしょ? ほら、弾いてみてよ!」と土屋先生を手招きしだした。ほかの部員も明奈を手伝うように土屋先生の背中を押してピアノの前に座らせる。
「困ったなあ」
土屋先生は眉を「八」の字にして(本当に困った)という顔をしていた。けれどみんなは「弾いてみて!」の一本調子。
「カンベンしてよ、みんな。ほら、ほかのリクエストなら何でも弾くからさ。どう? それで良いでしょう?」
その言葉に「待ってました!」と部員たちは勢いよくあれこれと曲のリクエストを言いあった。ドラマのテーマ曲、朝のニュース番組で流れてたBGM、アニメの主題歌、映画の有名な挿入歌……。まるできらきら星の話題がなかったかのように、みんな好き勝手に曲名を口にした。
土屋先生もまるできらきら星の話題のときとは違う、生き生きとした表情でそのリクエストの曲を順番に弾いていった。軽やかな手の動きと、リズミカルに跳ねる鍵盤の動きに、私は目が釘付けになっていた。
七曲ほど連続で弾いたところで、部活動の終了のチャイムが鳴った。
「はい、今日はここまで」
土屋先生がそう言って、手をたたいた。リクエストし損ねた部員は不満そうだったけれど、みんな帰り支度をして音楽室を出ていった。
私はわざとゆっくり帰り支度をしながら、ほかの部員がみんな帰っていくのを待った。自分のパートの楽譜を、ていねいというには遅すぎるほどの時間をかけて順番を確認。ようやく部長の明奈も出ていったところでホッチキスを手に取った。
「そう言えば半田さんはリクエストしてなかったね」
土屋先生は、ピアノの鍵盤をおおう長く赤いクロスを手にしたところで、思いだしたように私に言った。
「どうする? 何かリクエストあるかな? もう一曲ぐらいなら弾くよ?」
私は内心で「やった!」と飛び跳ねた。けれどそれを悟られないようにおずおずと「じゃあ」とリクエスト曲を口にした。
「『探偵はピアノマン!』……ってドラマ、知ってますか? あのメインテーマ曲が好きなんです」
土屋先生はしばらく「『探偵はピアノマン!』のメインテーマ曲……」とうでを組んで考えてしまった。私はすぐに「しまった」と思った。
「知らないですか? なら、良いんです」
すると土屋先生は慌てて手を振った。
「いや、ちょっと思いだせないだけ。先生も、あのドラマはときどき見てたからね。……ちょっと出だしだけ、歌ってもらえる?」
私は音痴なので(弱ったなあ)と思いつつも「こんな曲です」と言って鼻歌を披露した。すると「ふんふん」と納得したようにうなずいた土屋先生は、ピアノの前に颯爽と座って鍵盤をさわった。私の鼻歌の続きを奏で始める。
「ああ! この曲です、この曲! そうですそうです」
土屋先生が奏でた曲は、まさに『探偵はピアノマン!』のメインテーマ曲、そのものだった。
鍵盤の上を左から右へゆっくりと上がっていく。かと思えば、低音へ戻ってすこし不気味さを醸し出す。最後におどけたような調子で唐突に終わりを告げる。まさに『探偵はピアノマン!』のメインテーマ曲だった。
「うれしいです! 実はこのドラマのサウンドトラックを借りたんですけど、それで聞いた本物のメインテーマ曲よりも良かったです!」
私がそう言うと、土屋先生はうれしそうにほほを掻いた。
「そんなに褒められるなら、弾いたかいがあったよ。またいつでもリクエストして。もっと練習しておくよ」
土屋先生が顔の横でガッツボーズをしてそう言うものだから、私はおどろいて目をしばたいた。
「え、練習? これ以上、練習する必要ないと思います! それぐらい本物より上手でした」
「そう? でも、半田さんのために、いつでも弾けるよう練習するよ」
土屋先生の優しさに、私はジーンと胸が熱くなった。苦しくなるような熱さに、私は思わず口を開いていた。
「先生! 実は私、逃げたモーツァルトの謎を解くつもりなんです!」
「逃げたモーツァルト? ……ああ、七不思議の、ね」
土屋先生は一瞬おどろいた表情をみせると、首を横に振った。
「毎年、貼りなおしているんだけどね。すぐにモーツァルトの消えた肖像画に貼りかえられてしまう。だから僕はあきらめてるよ」
その言葉に私は「ダメです、あきらめちゃ!」と訴えた。
「私、探偵になりたいんです! 探偵になって、謎を解く。その……土屋先生のために……。だから、私はあきらめません!」
私の強気な表情に、土屋先生は不安そうな表情を見せた。
「探偵、か。子どもならあこがれるものだろうけれど……半田さん」
「はい?」
「危ないことはしないって、約束してね。無茶なことはしちゃだめだよ」
私は「はい」と大きくうなずいて笑った。
「危ないことはしません。でも、謎を解くための少しぐらいの無茶は覚悟してます」
土屋先生は眉根を下げながら私を見つめる。
「……先生は、怖いな。半田さんが傷ついたりするのが」
「大丈夫ですよ」
自信を持って私がそう言うと、再びチャイムが鳴った。もう生徒が下校しなければいけない時間だ。
「じゃあ、土屋先生。また来週!」
トランペットのケースとランドセルを持つと、私は音楽室を出た。
下駄箱でうわばきをはき替え、校舎を出てから私は振り返った。校舎の上の階に音楽室が見えた。
「……土屋先生はあきらめてるって言ってた。でも、土屋先生は優しいし、気遣いができる先生だもん。きっと七不思議の犯人だって思われていることに、気づいてるかもしれない。そんなの、かわいそう」
私は校門を出ると、トランペットのケースを大事そうに胸の前で抱きしめた。そして誓った。
「土屋先生の犯人疑惑を、ゼッタイに晴らしてみせる。そのためにも、まずは挑戦状の暗号を解かなくちゃ。挑戦状の犯人が分からなきゃ、逃げたモーツァルトの正体も犯人も、分からないからね」
夕陽が沈む方へと、ズンズン歩いて行く。私の胸は決意にメラメラと燃えていた。
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