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穏やかな時
「フナムシはいいな、呑気そうで」
桟橋の上、俺たちの気配に慌てふためくフナムシを見た慧ちゃんがそんな言葉を漏らす。
遠目に見ればしっかりしてたこの木の桟橋も、近くで見ればそこやかしが腐って抜けてたり、錆びた釘が今にも崩れそうになってた。
「フナムシはフナムシで大変なこともあると思うよ」
きっと、その立場にならなきゃわからない。
何が大変で何が大変じゃないかは、その本人にしかわからない。
ひょっとしたら本人にだってわかんないのかもしれない。
過去のことも。
今のことも。
だから当然先のことなんてわかるはずもなくて。
答えなんて。
どこにもないんだ。
「なぁ、一緒に死ぬか」
慧ちゃんは水平線に目を向けて、それこそ天気の話をするみたいにサラリと、そんなことを口にした。
その顔からは何の感情も読み取れなかったけど。
「……うん。いいよ」
だから俺も、天気の話をするみたいにサラリと、心からの思いを込めて頷いた。
そして訪れる無言の時は、なんだか永劫に続けばいいと思えるほど穏やかで。
そんな無言の時を破った慧ちゃんの声は囁くみたいに小さくて、桟橋にぶつかった波と一緒に攫われてしまった。
聞き返そうとした瞬間。
何かに目の前の視界が遮られる。
それが慧ちゃんの胸の中にいるせいだってわかってちょっと驚いたけど、苦しいくらい抱きしめられて、頭には押し付けられるような慧ちゃんの熱い唇を感じて。
たまらなく切ない、いっそ悲しいほどの幸福感が俺を満たして。
「輝」
「なあに?」
「……輝…」
「うん」
「輝……」
「うん」
「俺は……」
そこから先が続かない。
だから俺は、慧ちゃんの唇に人差し指を押し当てた。
「いいんだ」
そうして俺は、心を決めた。
「センセーのとこ、行くよ」
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