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笑顔と涙
「……まだ居ろよ」
「え。でも……」
めずらしく酔っ払ってた慧ちゃんをマンションまで送ってくれってマネージャーに頼まれて、ドキドキしながら今まで来たことなかったマンションに足を踏み入れた。
そして目に入る、綺麗に片付けられた明るくて暖かい生成りと木目調のリビング。それはなんというか、かなり意外だった。いつも黒系の服ばっかり着てるし、慧ちゃんの雰囲気そのものが夜っぽいイメージだから、てっきり部屋もそんな感じかと思ったのに。
「お水、飲んだ方がいいよね」
そんな理由をつけて、キッチンを覗いて、そんで、ざっくりと傷つく。見るんじゃなかった。
リビングと同じように整えられたキッチンの小棚にはスパイスの小瓶が綺麗に並んでて、シンクの中には………ペアのマグカップがあった。それも、ご丁寧にピンクとブルー。
キュウって、胸が絞られたみたいに苦しくなった。
ああ。
そういうこと、だよ、ね。
それなのにソファーに倒れ込んだ慧ちゃんに腕を引かれたから、ちょっとビックリした。
「いいからこっちこいって……」
「……あ…っ……んんっ……」
噛みつくように強引に唇を合わされる。
こっちまで酔いそうになるくらいお酒の匂いのするキス。息する間もないくらい貪るみたいに与えられて意識が薄くなりそうになった。
そのままベロリと耳から舐め下ろされて、首筋を甘噛みされて、そんないつもと違う、荒っぽい慧ちゃんに流されそうになったとき。
「ただいまー」
玄関から女の人の声が聞こえてきて、慌てて慧ちゃんの体を押しのけようとした……のに。
「ちょ、……けい、ちゃんっ?」
半分抱き締められたまま、女の人の足音は近づいてきた。
「お客様? やだ、お酒くさ……卯花さん……?」
卯花っていうのはマネージャーの名前。
めずらしい名前だしマンションの場所を教えてくれたのもそうだから、多分その卯花さんなんだろう。
「違う」
「そ。こんばんわ……」
「こ……こんばん、わ」
姿を見せたのは綺麗な眼鏡の女の人。
なんとか返事を返したけど、俺はしっかり慧ちゃんの腕の中なわけで……。
え?
だって、これって。
どうなの?
パニックになった俺とは真逆で平然とした様子の二人。リビングに入ってきた女の人は、慧ちゃんと俺がくっついてるのなんか気にもしてない様子で、ごゆっくりなんて言いながら奥の部屋へ入って行ってしまった。
「え……あの……」
「ああ。見えてないから」
「え?」
「右は全盲。左は弱視。家の中だとパッと見、わかんねーだろうけどな」
酔ってるからか言葉がぞんざいで、ついドキッとしてしまう。
いや。そんな場合じゃなくて。
目が悪いと言われれば、まあ確かに視線が別のとこにあった気はする……けど。
「……あの、俺、帰る……」
「なんで? おまえが声出さなきゃ、ここでヤッてもわかんねーぞ」
慧ちゃんはクスクス笑いながら悪戯っぽいヤンチャ風の表情を見せた。それは珍しい、というより初めて見たもんだから、可愛いかもしれない、なんて、つい見蕩れてしまう。
笑いを残したまま、また首筋に唇を這わそうとするから、慌てておでこを押し返した。
「あ、や、駄目だよ。だって……今の……慧ちゃんの、かの、じょ……でしょう?」
もしかしたら奥さんなのかも、なんて。
そんなこと思ってた俺を鼻で笑った。
「妹。そんでいい?」
そんでいいって……。
ええー?
どう応えていいのか迷ってると今度は俺のほっぺを引っ張って、またクスクス笑う。
「じゃあ、姉貴」
「はあ!?」
俺が目を見開いたの見て今度は声をたてて笑った。
少し子供っぽい、力みの抜けたみたいな、くだけた表情。
こんな表情するなんて知らなかった。
ただたんに酔ってるからか、それともからかわれてるのかバカにされてるのかわかんないけど、その笑顔はたまらなくカッコ可愛くて、なんかもう、泣きそうになってしまった。
「やっぱりずるい」
「何が」
「……俺……もっと慧ちゃんから、離れられなくなる……」
泣き出した俺のアゴを掴んで自分の方に向けるその指も、意地悪くて甘い表情も、いつものとりすましたクールの見本みたいな慧ちゃんと違って。
なんか、素の慧ちゃんなのかも、なんて錯覚させて、もう、胸が、いっぱいいっぱいになる。
「お前、俺のこと、好き?」
そんなことを、そんな風な口調で聞いてくるから、もう、胸が、焦げそうになった。
「うん……大好き」
そんな俺の頬を、爪の短い、長い指がスルリとなぞる。
「ふうん。……バカな奴」
慧ちゃんはそう言うと、俺の目に浮かんだ涙に唇で触れ、舐めとった。
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