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悠真はそれ以降、また家に来なくなった。
会社で薫を見かけても明らかに避けるようになり、一度思い切って連絡しても既読無視。
今日は日曜日だというのに、変わらず来てくれない。
待つことに疲れてしまった薫はシェリの散歩が終わった後にまた自然公園に赴き、最後に悠真と話をした浜辺付近の石垣に膝を抱えて座り目の前に広がる景色を眺める。
──海を見たら立ち直れる。昔からそうだった。嫌なことが続いたあの頃、私は帰りにいつも海を見ていた。だから……。
しかしその視界は揺れ、頬に温かなものが伝う。
それもあの頃と同じで不甲斐ない自分に嫌悪し、気持ちを言葉に出来ない自分自身を呪い、ただ俯き涙する。
そんな薫の元に現れた人物は、そっと隣に座ってきた。
親しみのある距離感に悠真だと思い顔を上げたが、しかしその人物は望んだ相手とは異なった。
「……どうして泣いているのですか?」
「え?」
そう呟いたのはいつも訪ねてくる男性であり、彼はグレー色のハンカチをそっと差し出してきた。
薫は渡されたもので目元を拭き恐る恐る男性に視線を送ると、彼もこちらに目を向け優しく微笑んでいた。
その表情に今までの恐れや警戒心を解いた薫は海を眺め、浜辺の海だけがその場に音を響かせていた。
「……彼とは知り合いですか?」
口を開いたのは、薫の方だった。
その瞬間に過ぎる一筋の風は冷たく、秋が深まっていることを知らせてくる。
「そうですね。同じ地元です」
そう言い、とある地区の名前を出してくる。
「……え?」
その言葉に、薫の表情は強張る。彼が口にした、その地区は……。
混乱する中で思い出すのは、先日この浜辺で悠真と交わしたやり取り。
彼は薫の地元で起きた、猫の農薬混入事件に対し異常に問い詰めてきた。それは悠真の地元でも、同様の事件が起きていたからではないだろうか?
その中で、導き出される疑惑は一つ。
──もしかして、私達は同じ地元だった……? 悠真は私が『伊藤愛梨』だったと、気付いてしまった。
その考えが過った途端、心臓の鼓動が速くなる。誰にも 、誰よりも悠真には知られたくなかったのに──。
「大丈夫ですか……?」
男性の優しい声に少し冷静さを取り戻した薫は、震える足に力を入れる。
「……いえ、ごめんなさい。帰ります……」
そう告げなんとか立ち上がるが、精神的なことからか目眩がし、ふらついたところを男性に支えられる。
「……あ」
目がチカチカする感覚が抜け顔を上げると、そこには頼もしく体を支えてくれる彼の姿。
薫が慌てて体を離そうとすると、男性はこちらの手を強く握り締めてきた。
「帰りましょう」
男性はそのまま離さず、二人は夕暮れ時を歩き始める。
「歩けますから……」
「倒れたら大変です。薫さんの家まで、ですから……」
「……はい」
薫はその背中を見つめ、ただ身を任せて歩いていく。
しかし。
『こっちに来いって言ってるだろう? 早く!』
「いやっ!」
不意に過った記憶により男性の手を振り払ってしまい、薫はその反動でバランスを崩し尻もちをつく。
今のは「あの人」に、無理矢理連れ込まれた記憶。
僅かな拒否の姿勢を見せたこともあったが、抵抗虚しく自身を持ち上げられ連れていかれた、そんなどうしようもないもの。
この人からは逃げられない……。そう悟った、あの頃の記憶を。
「すみません」
男性は薫の無礼な態度に眉を顰めることもなく、柔らかな表情でこちらに接してくる。
──あの時と違う。あの時は、……ことが終わればあの人は帰って行き、体の傷なんて一切気にしてくれなかった……。
そんな男性の優しさに、その目にはまた涙が伝っていた。
「すみません」
「そうじゃないです……あなたが優しくて……」
声を震わせる薫に、男性は何も言わずただ側に居てくれた。
少し落ち着きを取り戻した薫は、初めて男性の顔を見つめる。
浜辺に吹く風に揺れる黒髪、吊り目の悠真とは違う柔らかな目元、整った鼻筋。
その顔立ちは美しかった。
「……あの、お名前は……?」
そんな言葉が溢れ落ちていた。
「西村大志です」
男性もこちらを見つめ、薫の手をそっと握り締めてくる。
こうしている間に周囲は暗くなりいつの間にか日の入りを迎えていた。二人は、本格的に暗くなる前に公園を出ることにする。
彼は、また薫の手を引き家に向かって行く。
悠真は、すぐ引く性格。このような状況は初めてで、薫はどうして良いのか分からなかった。
ただこれだけは分かる。いつの間にか心許している自分がいると。
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