1話 日常の崩壊

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1話 日常の崩壊

 事件から二十年。  被害者となった少女は二十六歳になっており、忌まわしい過去を忘れ、今をただ懸命に生きていた。  短大を卒業し、某一般企業で経理の仕事に勤めて六年。聡明で真面目な彼女は勤務態度も良く非の打ち所がなかったが、人間関係を築くことを極度に避けており、けして笑わない女性だった。  それに加え他の女性とは違い、硬めの髪型服装をしており、それも魅力的だったがどこか無理をしているように察せられた。  しかしそんな彼女はある出会いを果たし、少しずつ変わっていく。髪を伸ばし始め、化粧をし、服装も明るくなっていった。  一番変わったのは、その表情。硬く閉ざした口角を上げることが増え、少しずつ職場での交流をしていくようになった。  そんな彼女の名前は、『木村(きむら)(かおる)』。  目元は大きく綺麗な二重、鼻筋は高く、艶のある唇を持ち合わせた美しい顔立ち。チャームポイントは口の右下にあるホクロだった。  その顔立ちに合わせた、背中までの長い黒髪のストレートヘア。流行りの服装ではないが彼女が着こなす清楚な服は、その美しさをより引き立たせていた。  その全ては、ある男性との出会いからだった。  九月中旬、日が暮れ空に月が光る頃。  今日も仕事を終え、電車にて都心より住宅地に戻ってくる。  駅より徒歩三十分。自宅付近を歩いていた薫は一軒家の玄関外構を見て頬を緩ませ、その方向に一目散に駆けて行く。 「ただいま。また、待ってくれていたの?」 「ワン!」  彼女の声に返事をしたのは茶色の大型犬で、薫の姿が見える前より玄関門に張り付き迎えてくれる。  この子の名前は『シェリ』、どこにでもいる雑種の雄犬で、野良犬だった。  あれは八年前、どしゃぶりの雨が降った夜。  子犬が玄関前で身を縮めて痙攣しており、それを見つけた薫が動物病院に連れて行き助かった小さな命。  それが縁で一人と一匹、支え合い生きてきた。  薫に抱きしめられたシェリは尻尾を振り機嫌良くするがその後離れて行き、また玄関外構に座る。 「シェリ、中に入ろうよ」  薫はいつも通り声をかけるが、シェリは凛々しい面持ちでただ一点を見つめている。 「ご飯の時には来てね」  そう声を掛け、薫は食事の用意を始める。 「クゥーン、クゥーン」  しばらくすると外より聞こえてくる、甘える声。  それに薫の表情は緩み玄関に行き引き戸を開けると、そこには屈みながらシェリの頭を撫でている一人の男性が居た。 「お仕事、お疲れ様」 「お前も……」  男性はそう言いつつ、薫から目を逸らす。  長身で170センチ以上ある彼は薫の頭一つ分背が高くスラリとしており、今日もラフなTシャツとジーパンを履いている。  短髪で無表情を決め込み、極め付けには目が吊り上がっていることから一見すると身構えてしまう容姿をしているが、その外見と中身は相反していた。 「さあ、シェリも中に入ろう」  そう言われたシェリは先程と態度を変え、大人しく足を洗って手入れをしてもらい、室内に入って行く。  こうしてリビングで、二人と一匹が食卓を囲む。  二人は仕事の話を軽くし、黙り、テレビを見て話をして、また黙る。  男性は控えめな性格で自発的に話題を振らないが、薫は気にしていなかった。  男性の名前は『佐々木(ささき)悠真(ゆうま)』、三十二歳。課は違うが、二人は同じ会社に勤めている。  付き合い初めて三年が経ち、共に過ごす時間も多く交際は順調だった。  ただ、一つの問題を除いて……。  食事を終えたシェリはテーブルの下で眠っており、薫は片付けを終わらせ食卓椅子に二人並んで座る。  その先に設置されているテレビには小さな乳児が映っており、二人はその愛らしい姿をただ眺めていた。 「……可愛いね」 「ああ」  薫は悠真の視線に気付きそちらに目をやると、ぶつかる視線。  すると悠真はそっと顔を近付け、薫にキスをする。  いつもと同じ自然な流れ。しかし今日はそれだけで終わらせず、悠真が薫の服に手をかけてきた。  そんな悠真を見つめる目は、心許した相手に向ける信頼の眼差し。しかし……。 『愛梨(あいり)ちゃんは、可愛い……』  悪魔の囁きが、薫の脳裏を掠める。 「やっ!」  気付けば薫は反射的に突き飛ばしており、悠真はその反動で椅子から落下しそうになっていた。 「ご、ごめんなさ……」  薫は慌てて悠真を掴もうとするが、その気持ちと反して引っ込めてしまう手。体全体は、自身で制御出来ないぐらいに震え上がっていた。 「ワンワンワンワン!」  眠っていたシェリは目を覚ましテーブルから出てきたかと思えば、悠真に激しく吠え始めた。 「違うのシェリ、私が悪いの。だから止めて。ハウス」  薫が声をかけシェリの背中を摩り静止を促すと、また大人しい犬に戻り玄関に向かって歩いて行った。 「ごめんなさい」 「いや……」  互いを見ることが出来ず、重い空気に包まれる。 「……帰る」 「あ、うん……」  そのまま悠真は帰って行き、玄関で見送る薫はその背中をただ見ていた。  二人は付き合って三年になるが、これ以上の関係になったことはない。……薫が拒否しているからだった。  悠真三十二歳、薫二十六歳。  二十歳を越した大人が、三年の交際を経ても関係が深くなっていかない。  それはこの先の未来を考えられないどころか、現在の付き合いにも(かげ)りが出ることだった。  その後、薫は一人風呂に入り自身の体を見つめる。  ──この体には傷がある……。見えない傷が……。  不意にその考えが過ぎるが目を逸らして風呂場から上がり、就寝準備をして和室に布団をひく。  二階に自室のベッドがあるが外で寝ているシェリを案じ、戸を開ければ玄関に通じている和室で寝るようになった。  薫は横になって目を閉じ、今日という日を終わらせようとする。  ──私は絶対、恋愛はしない。そう思っていたけどあの人に出会った。あの人とシェリと一緒に居たい。でも、このままでは……。 「どうしてだめなの……。私は『愛梨』じゃないのに……」  薫の瞳より一粒の涙が伝う。  過去を忘れ今を生きると決意しているが、二十年前の忌わしい記憶に縛られる。それほど心の傷は深かった。
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