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2人とも何も喋らないままたタクシーに揺られている。 私のことを家まで送ると言ってくれた幸治君の気持ちは受け取った。 最後に・・・それだけは受け取った。 「送ってくれてありがとう。 お金も払ってくれてありがとう、ごめんね?」 マンションの前で一緒に降りた幸治君にお礼と謝罪の言葉を伝えると、幸治君は普通の笑顔で口を開いた。 「一美さんの家まで送ります。」 “凄いな”と思う。 私にこんな仕打ちを受けて、全然怒らないどころか凄く優しくて。 こんな私にいつもみたいに優しいままの幸治君でいてくれて。 「ここで大丈夫だよ。」 優しい優しい幸治君にそう言って、最後にまたお礼と謝罪の言葉を伝えようとした。 でも、私よりも先に幸治君が口を開き・・・ 「今度こそ俺から迎えに行くので、部屋の番号も知っておきたいので送ります。」 そんな言葉には驚き、私は慌てて首を横に振った。 「今度はもうないよ。 これで終わりなの・・・これで、バイバイなの。 この1年間本当にありがとうね。 凄く楽しかったし凄く幸せな時間だった。」 優しい顔で、でも困った顔で笑い始めた幸治君に笑い掛け、両手で下腹部に触れた。 「最後に幸治君に会えて、最後に話せて良かった。」 最後のデートとなったピクニックの日と同じ空、雲1つない青空を見上げながら心から笑った。 「これで頑張れそう。 幸治君がいなくてもちゃんと頑張れる・・・。 ちゃんと歩ける・・・。」 虹色のシャボン玉はないからか、“あの日”と同じ空なのにこんなにも悲しい空に見えてしまう。 それでも・・・ 「じゃあ、行ってくるね。」 あの何もない家に帰る為にその言葉を吐き出した。 「今まで本当にありがとう。 ・・・なんか、ごめんね?」 困った顔で笑い続ける幸治君にそう言って後ろを向こうとしたら・・・ 「妊娠中と産後の奥さんへの対応に失敗すると、一生許して貰えないらしいから。」 そんな話を始めた幸治君が悩んだ顔で少しだけ下を向いた。 「店の常連さん達もよく言ってたし、今の職場にいるオジサン達もよく言ってる。」 「うん、そうだったね。」 「妊娠中と産後の奥さんはガルガルしてるから、奥さんの言葉に反論したりしないで奥さんが求めることに対応していくのが正解らしい。」 少しだけ下を向いていた幸治君がまた顔を上げ、私のことを真っ直ぐと見た。 「今は何か言えば言うほど一美さんに嫌われるような気がするので、日を改めます。」 その言葉を聞き、“苦しい”と思った。 だって、私はもう終わらせようとしているから。 ここで綺麗な最後にしようとしているから。 日を改めても私の気持ちも考えも変わることなんてないから。 凄く凄く“苦しい”と思いながら、幸治君の為にではなく自分の為に震えてきた口を動かした。 「私・・・幸治君じゃない人と結婚するんだって・・・。 国光さん、国光美鼓さんが言ってた。」 私は絶対に幸治君のことを“可哀想”にはしない。 だから絶対に幸治君と結婚をする未来はない。 「幸治君じゃない人の赤ちゃんまで産むんだって・・・。 それも1人じゃなく、何人か産むみたい・・・。」 幸治君の顔は見ることが出来ず、下を向いて吐き出す。 「受け取って、幸治君・・・。 私のエゴも嘘もワガママも・・・お礼も謝罪も全部・・・全部受け取って・・・。」 全身をこんなにも震えさせながら、泣いた。 「忘れるよ・・・っ私のそんな姿を訪問の度に見てたら・・・きっと私への気持ちなんて忘れる・・・っ。 だって“中華料理屋 安部”は忘れてた・・・っ“羽鳥さん”への気持ちを忘れてた・・・っ。」 “幸せになっていればいい” “中華料理屋 安部”を一夜さんと出た私に幸治君はそう願っていた。 幸治君の18歳の誕生日の日、“最後の日”になるはずだった“あの日”、幸治君は叫んでいた。 私への想いを忘れると、大きな大きな声で叫んでいた。 「また忘れるよ・・・っ。 幸治君はまだまだ若いもん・・・っ。 他の男の人と結婚をして他の男の人の赤ちゃんを産む私への想いなんて・・・っまた忘れるんだよ・・・っ!! また忘れて・・・」 号泣しながら吐き出した。 「幸治君は私じゃない若い女の子と幸せになるんだよ・・・っっ!!!」 自分の情緒とは思えないくらい酷い情緒を幸治君にぶつけ、私はマンションへと早足で歩く。 幸治君の18歳の誕生日だった“あの日”の方が全然マシな最後だったと思いながら。 一夜さんも一緒だった“あの日”なんてもっと綺麗な“最後”だったと思いながら。 “やっぱりいけなかった”のだと思いながら。 “やっぱり、いけないコトなんてしてはいけなかった” “やっぱり、幸治君に会いに行ってはいけなかった” “いけないコトなんてせずに綺麗で正しく生きていれば、こんなに苦しくならないで済んだのに” “心からの楽しくて幸せなことなんて知らずに、こんなにも苦しみに溺れることなんてなかったはずなのに” 幸治君に会いに行ってしまった、31歳になった日の自分を呪いながら、4階に着いたエレベーターから早足で降りた。
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