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主人と下僕の覚悟 2
そしてあくる日。
朝からやって来た隼人は、ダイニングキッチンで美桜とシュウ、泊まり込んでいる久子と一緒に朝食を取り、運ばれた機材で彼女が検査し直されている間、別室でシュウと待機していた。
夕暮れ近く。検査が終わった彼女を庭園の散策へ連れ出す。昨日と同じ、野趣にあふれた春の庭園。
なぜかシュウを庭園の入り口に置いて、離れたベンチに美桜を座らせる。一日検査続きで、少しぐったりした彼女を気遣うようにタブレット端末を渡し、自身は地面に片膝をついた。
彼の立場と役目を教えるように。厳しい表情で、美桜さんと呼びかけてきた。
『──申し訳ないが、しばらくあんたの護衛から、シュウを外す』
「……っ!」
なんで、と身を乗りだした美桜に、隼人は少し苦笑するようにした。心配ない、と。
『修行させるだけだ。シュウの潜在能力は、確かにもう戦闘兵のそれじゃない。だが、力ってのは、底無しだったり他者より上回るものがあったからって、それだけじゃ作用しない。オレたち聖魔の場合は、特に。──シュウには、学ぶべきことが様々に ある』
それは、わからないでもない理屈だった。木曽の時の話し合いもよみがえる。術式を学べ、と言われていたことも。しかし、なぜ今……と釈然としない彼女に隼人の静かな目が向けられる。
『今シュウと距離を置くのは、二人のためでもある』と。
「え……」
とまどう美桜に、逃げをゆるさない厳しい目が据えられた。美桜さん、と。
『自分でもわかってるんじゃないのか? 今のあんたは、シュウに依存しすぎてる』
ギクリと息が止まった。その彼女を見て、隼人の目も気遣うように狭められる。言葉にもそれが表れていた。
『聴覚を失った今の状態では、なおさら仕方ないとは思うが……。あんたは、この短期間で今までにない経験をした。その身を狙われたことも、他者の命が危うくなる場面にも、はじめて遭遇しただろう。シュウはその都度、そばにいた。護衛であり、唯一の下僕でもあるからだ。ただ──そのために、シュウを絶対の存在としてすり込んでしまった可能性がある』
眸を惑わせた美桜に、隼人の顔にも悔いるような色が浮かんだ。オレや、一匠さんにも責はある、と。
『こちらの事情とあんたの事情を考慮して、必要最低限の者は近付けないようにしていた。それで余計に、依存度が高くなった可能性はある』
「……そんな、こと……」
ないと言えるだろうか。美桜はもう最近、何かあるとシュウの名を呼んでいた。彼が絶対そばに来てくれるから。美桜を守ってくれるから。
シュウが護衛から外される可能性に、いやだと思った。彼以外の人はいやだと。やっと慣れて、自身の生活圏に入れてもいいと思った人。彼が護衛から外されたら──美桜はもう一度、別の人と信頼関係を築かなければならない。
シュウ以外の人と、もう一度……同じようなことを繰り返す──?
「……イヤです」
泣きそうな思いを、目元を強くぬぐうことでどうにかこらえた。勝手すぎる、と言葉にして。
美桜の護衛にシュウを付けたのは、彼らだ。はじめはとても怖かった。見知らぬ男の人。男性への恐怖心は根強かった。それでもやっと、歩み寄って信頼関係を築いたのに、今度は依存してはならないと離される。なんでこんな、彼らの都合と勝手にふり回されなければならないのだ。
『……すまない』
端末に言葉が浮かんだが、美桜はもうそれさえも見たくなくて横を向いた。しかし、隼人はそれをゆるさないように彼女の腕をつかんで自身に目を戻させた。逃げるな、と言うように。
『美桜さん、あんたの事情は差し引いても、だれかに依存した関係は正常じゃない。オレは自分がこの立場にいなくても、今のあんたとシュウの関係は歪だと反対する。オレがシュウ寄りなのはわかってる。でも、あんたたちには、もっと別の道を歩んでほしい』
感情をこらえて、ただ意地で見返す美桜に、隼人の眼差しは真摯だった。強くなってくれ、と言われた。
『オレがこれを話すのは、越権行為だ。だが、言う。美桜さん──あんたは、これから上級聖魔たちと見合いをさせられる』
「……っ」
自分でも息を呑んだのがわかった。どうしてもふるえが走ったのを察したように、隼人の手にも力がこもる。
『刺国若比売命の伴侶となる者は、上級聖魔だ。もうこれは、オレたち一族に浸透した常識だ。美桜さん、あんたももう、この理から逃げられない。なぜなら、オレたちの世界に身を置いたからだ。自分でも、それはわかってるだろう?』
──刺国若比売命。
そう言われても説明をされても、ずっとピンと来ていなかった。でも、美桜は自分の意志でおのれの力を使い、狙われる身なのも自覚した。だから、下僕であり、護衛であるシュウが危険にさらされるのだと。
そう、理解した。
美桜はもう、聖魔一族という世界に踏み込んだ。自分の意志で、力を使って。だから、起こったことは他人事ではなく、自分で責任を取らなければならない。そして、彼女の身も一族の中に縛られている。学校や会社、社会と一緒だ。生き物は皆、属するルールに縛られている。それゆえに──美桜はこの先、誰か他の男性を選ばなければならない。
聖魔のルールの中では、それが当たり前だから。
いや、と拒絶しか浮かばなかった。ふるえる声でそのまま口にした。結局、と。
「……シュウが狙われた理由と一緒でしょう? 刺国若比売命の下僕は上級聖魔でなければならない。刺国若比売命の伴侶は、上級聖魔でなければならない。わたしがシュウを信頼しはじめたから、危うく思って、それで引き離すんでしょう? 一族が納得する相手でなければ、ゆるされないから──」
勝手過ぎる、ともう一度美桜は口にした。
彼女の中では、まだシュウに対する認識は護衛であり、そばにいても怖くない人だ。特別な存在なのかどうか、まだ決められない。彼女の中の問題や感情の整理だってついていない。
第一、シュウだって護衛としての責任感が勝っているようなのに。周りは勝手に邪推して先走って、距離を置かせようとする。彼女の心をコントロールしようとする。
唇をかむ美桜に、隼人が静かに言葉を紡いだ。美桜さん、と彼女に言い聞かせるように。
『シュウが今回狙われたのは、オレたち戦闘兵内部の問題もあるが……一番は、あいつが認められていないからだ。若手で経験値が足りない。戦闘能力は高くても、上級聖魔に比べたら未熟だ。あいつを認めているのは、オレや巽家でも一部の者だけだ。シュウもそれをわかっている。だからこそ、今あいつは変わろうとしている』
端末から目を上げた美桜に、隼人は真っすぐ見つめてうなずいた。
『今回の件で、予定されていた五大家の会合が流れた。一匠さんが一条本家に乗り込んで話を付けてきたんだ。次の会合時に、再度、シュウと九重を皆の前で手合わせさせる、と』
「……っ」
『一匠さんはそこで、一族皆にシュウを刺国若比売命の下僕として認めさせるつもりだ。だからこそ、今シュウは大急ぎで学び、力を磨かなければならない。特訓だ。オレも、久々にあいつをしごくことができて楽しみだ』
ニヤリと笑う隼人は、ほんとうに挌闘好きなのだろう。男って……と眸が冷ややかになった美桜に、あわてたように咳払いする様で続けた。
『シュウがそれを受け容れたのは、あんたの存在ゆえだ。あいつも、あんたの護衛役を他の奴に譲る気はない。下僕ももちろんな。そのために、シュウは今、力を付けようとしている。だから美桜さん、オレは、あんたにも強くなってほしい』
瞬く美桜に、腕をつかんだ手に熱く力がこもった。
『おそらく、あんたにはこの先色々と試練が降りかかる。刺国若比売命という存在ゆえにだ。あんたとシュウの関係がどう変わるのかも、オレにはわからん。ただ──美桜さん。あんたは、シュウ以外の護衛はイヤだと言った。シュウも、あんたをそばで一番に守るのはおのれだと決めている。だから、力を付けようとしている』
美桜さん、と腕から眼差しから、彼の思いが伝わってきた。言葉にしない、美桜とシュウを気に掛ける、熱い思い。
『あんたにこの先降りかかる試練。それを乗り越える強さを持ってくれ。あんたがイヤだと言った思いを守る強さだ。あんたの人権を無視するような行為は、先のように、一匠さんやオレたち巽家の聖魔が身体を張って止める。現代の常識だって、昔から変わってきてるんだ。聖魔にそれが通用しないことがあるか。だが、あんたの意志が何より肝要だ。流されるな。理不尽なことに負けるな。おのれの誇りを守れ。あんたが、あんたであることを諦めるな』
ポロリと、変に涙がこぼれた。
美桜という、一個の人間を見つめ、そこに語りかけてくる言葉。美桜とシュウの関係を応援しようとしている思い。まだはっきりと宣言してもいないのに。
フ、と笑いがこぼれるのと同時に、涙がこぼれた。手の甲でそれをぬぐって止めようとする美桜に、隼人が苦笑するようにハンカチを差し出してくる。借り受けて息遣いをこらえると、小さな失笑の気配があった。
『美桜さんは感情豊かだな。いいことだと思うが……まあ、早めに泣き止んでくれ。シュウの気配がさっきからものすごく怖い』
思わず目を上げて、庭園の端にいる、シュウの射貫くような強い目と合った。大人しくそこにいるのに、なぜか今にも飛び掛かって来そうな、獰猛な獣の気配。一瞬で涙が止まって、美桜は頬を拭いた。
さらに隼人の、苦笑混じりのあっけらかんとした言葉が浮かぶ。
『まあ別に、早々にだれか一人に決めることもない。世の中の半分は異性だ。色んな奴と出逢って、色んな相手を知るのもいい。捉われるな、美桜さん。あんたの心は自由だ』
「…………」
なぜだか──あの時。
美桜を闇から連れ出してくれた友人と同じにおいを彼に感じた。隼人はきっと、シュウ寄りだろうけれど、公平な人だ。彼の中にはたぶん、シュウが苦労する道を選んでほしくない気持ちもあるのだろう。
それでも、彼の立場で、今言わなければならないことを話してくれたのだとわかった。それで、美桜もそのまま、お願いをした。
「シュウと、少し話をさせてもらえますか?」と。
~・~・~・~・~
隼人と交替で目前にやって来た彼を見上げた。
夕暮れの日差しの中、いやに真剣で神妙な様子に見えるのは、影の作用だろうか。表情が分かりづらい、と思うと、彼も隼人のように片膝をついた。
見上げてくる額にあった傷跡はすでに消え、首筋からのぞいていた包帯の跡も今朝からなかった。美桜が精気を分けたからだと、自分でわかっていた。
──昨夜。
笹野の介助を受けて風呂を済ませ、あいさつをして戻った部屋には、当たり前のようにシュウがいた。は……!? とさすがに拒んだ。意識がなかった間ならともかく、今は邪気も消えたし、何かあったら呼ぶし、問題ない、と。
しかしシュウは頑なで、どうにか理由を聞いてみると、美桜は意識がない間、何度もうなされて悲鳴を上げていたのだと。
美桜も思い出したくないものをよみがえらせていた。閉ざされた闇の中の悪夢。あれに苛まされていた間、現実世界では彼女は闇の気を生み出し続け、そして、その度にシュウが祓っていたのだと。寝ずの番で。
聞いた時には蒼白になった。美桜はほんとうに、聖魔と妖魔、両方を生み出す存在なのだと。
シュウが頑なにそばにいようとする気持ちはわかった。彼女自身、よみがえる恐怖にそばにいてほしいと思った。でも、と。
「…………」
シュウの腕を引いて寝台に座らせ、怖かったけれど、いつも通り首筋から精気を分けた。気持ちを伝えたかった。美桜もとても怖かった。けれど、もう大丈夫だと。だから、シュウが気を張り詰め続ける必要はない。
大丈夫。もう大丈夫だから、と。
シュウもきちんと休んで、と身を起こして伝えると、強く周囲を警戒していた目付きが静まり、瞬いて少し美桜の肩口に頭を預けた。張り詰めていた緊張をやっと解いたように。
安らいだ気配をやっと見せた彼に、しぜんとその頭に手を添えていた。短い髪は思ったよりやわらかかった。
そっとなでながら、シュウはどんな思いをしたのだろうと思った。刺国若比売命の下僕というだけで妖魔と同族、両方から命を狙われ、こんな怪我を負った。美桜は身体の怪我は治せても、痛みを負った心までは癒せない。
共に戦うはずの仲間から敵意を向けられ、命を狙われるだなんて──。
唇をかむと、パッとそこから頭が離された。そしてそのまま、スクッと立つと、身を引いた彼女に無言のまま頭を下げ、そして室内を後にしていった。今までの空気も何も気にした風もなく。なんの感情も残さず。
は……? と美桜はもう一度、あっけに取られた。
そしてやはり、どうしても思ってしまった。男って……男って、ホントに勝手過ぎる。わけわかんない……! と。
その勝手過ぎる男を間近にして、少し冷ややかになった彼女の目と感情を察したように、シュウもそっと目をそらした。ジー、とその彼をながめ、春の野草に夕風がなびいて、美桜も小さく息をついた。
シュウは今変わろうとしている、と隼人は言った。彼はきっともう、決めたのだろう。今美桜から離れて、力をつけ、周りに認めてもらう道を。
シュウは主従契約を交わした下僕だから、長期間、主人である美桜から離れられない。三日に一度、精気のやり取りのために顔は見せる。その間、美桜は美桜で、これからのことを思案すればいい、と言われた。
五大家の会合は、四月初旬の予定だと──。
「……隼人さんに、話、聞いた」
強い眼差しが上げられて、反対に美桜は落とした。
……もし、と思った。
美桜が、シュウにもういいよ、と言ったらどうなるのだろう。彼がこれ以上、大変な思いをすることはない。彼はあの時、ただそこにいたから、こんなことに巻き込まれている。もうこれ以上、身を削る必要はない。投げ出したっていい。シュウがそんな、命を賭けたりする必要はない。
でも──と、わかっていた。
美桜がそう思うのは、自分勝手な独りよがりだ。シュウにはシュウの思いも考えもあって、自身を鍛える道を選んだのだろう。美桜がどうしても彼に対して心苦しく思ってしまうのは、きっと自分に自信がないせい。
シュウがそんな風におのれを賭けてくれる人間ではない。汚くて醜くて、嫉妬も劣等感も猜疑心も──復讐心も、捨てきれていない。だから、闇に付け込まれる。
ぎゅっと唇をかみながら、静かに深呼吸をした。あのね、と言葉にする。甘えていると思ったが、シュウの力強さがほしいと。
「もしも……この先。──もしも、わたしが復讐や暗い思いに捉われて、闇に染まったら。人も世の中も全部、破壊して滅ぼしたい、とか……そんな衝動にかられたら。そうしたら、シュウはどうする?」
あなたが望むのなら、自分は必ずそれを叶える、と言った相手。彼は、どうするのだろう。頑張って見つめ返した美桜に、間髪入れず口が動いた。
怖々……端末を見つめて、美桜は息を呑んだ。
『──自分も一緒に落ちます』
ヒクッと動いた喉が衝動になる前に、言葉が続いた。ただ、と。
『あなたがそこに落ちる前に、自分がやります』
美桜はそれに瞬いた。自分がやる……やるって、なに? と。不可解になったのを察したように、タブレットに言葉が並んだ。
『あなたを闇に落とす者、復讐したいと思った相手、それらはあなたが苦しむ前に俺がやります』
え、と美桜はもう一度瞬いた。やるって、殺意のそれ……!?
あわてて目を上げた彼女に、シュウの目付きは至って真剣だった。その表情も。それがなおさら、彼の本気具合をのぞかせて美桜はおののく。シュウが言うとシャレに聞こえないんだけど! と。
アワアワとふるえる口元に、彼は真剣な顔つきのまま何かを口にした。端末に目を落として、美桜は再度瞬く。なので、と無機質なゴシック体が続いている。
『俺がその行動に出そうになったら、あなたが止めてください』
……は? と言葉にしそうになったが、出なかった。彼の顔と端末の文字と交互にながめて、変わらないどちらにも困惑は増すばかりだった。
「わたしが、止めるの? わたしが憎んだり、復讐したいと思った相手を、シュウが手を下す前に……?」
はい、というように口元が動いて、美桜はポカンとした。なんだそれと不可解な思いが、フハッと笑いになってこぼれた。
「それじゃ、堂々巡りじゃない。意味ないよ、シュウ」
美桜がだれかを憎み、復讐したいと闇に落ち、自ら手を下す前に。シュウがその相手を葬ると言う。ただ、シュウが手を下す前に、美桜が彼を止めろと言う。それじゃ、美桜の憎しみや復讐心はどこに行けばいいのだ。
変なの、と思わず笑いだしたが、シュウの思いも伝わってきた。美桜が闇を持っても、彼が絶対それを祓ってくれる。だから大丈夫。それでも──どうにもならず落ちてしまったら。
一緒に落ちるか、彼の手で美桜の始末を付けてくれるか。どちらかはわからない。けれど、シュウはきっと、そこまでの覚悟を持ってくれている。だから、美桜も同じように彼の行動を受け止めなきゃいけない。彼が命を賭けることも、一族に認めてもらうために大変な努力をすることも。
……それが、主従関係ということなのかも知れない。
シュウが美桜のために努力して立場を築いてくれるのなら。美桜は主人としてそれに責任を持ち、強く立たなければならない。守られるのだけではなく、彼を守れるように。
真っすぐな目を見つめ、あのね、ともうひとつ聞いておきたかったことを聞いた。正直に答えてね、と。
「あの……」
何気なく聞こうとしたのに、口にしかけるとどうしてもためらいが出た。訝しそうな目付きに、あの、と眸が泳ぐ。喉がふるえて、どうしても彼の目を見返すことができなかった。
今までの行為の数々もよみがえり、あの……! とその思いのまま、いたたまれずに頭を下げていた。
「わたしの精気、気持ち悪かったらごめんなさい……!」
答えを聞く前に謝罪になってしまった。でも、どうしようもない。他人が自分の中に踏み込んでくる感覚なんて、普通はイヤだ。でも、美桜の場合は彼らの怪我を癒したりするから仕方ない面もある。
しかし、美桜は自分がイヤなことを他の人に強いるのもイヤだ。どうしたらいいのかわからない思いがずっとグルグルしていた。
そして──落ちた沈黙は静かだった。とても変な空気で。
おそるおそる目を上げた美桜は、シュウのあまりない、心底不可解なものを見る目に遭った。寄せられた眉根と目が語っていた。
何を言っているんだこの人は、と。
それに赤面するような感情で美桜も返す。だから、と。あの時に感じた不快感を。
「九重の使い魔、黒重に精気を吹き込まれて……すごく、イヤだったの。だから、もしかして、他の人もそうだったんじゃないかな、って。わたしは自分の精気がどんなものかわからないし……シュウや他の人が気持ち悪く思ってたら、すごく申し訳ないって……」
いたたまれない思いで落ち込んでいると、さらにめずらしく、ほんとうに大きな息が目の前で吐き出された。聞こえないのでわからないが、それはたぶん、あきれたようなため息というものが。
そして言葉がタブレットに浮かぶ。神霊は縄張り意識が強い、と。
瞬く美桜に説明が続いた。巽家の戦闘兵が使う力は、巽家の神霊から分けられる。百雷という雷に添った力。戦闘兵の精気には、必ずそれが含まれる。美桜がそれに染まっていたから、九重の使い魔が塗り替えようとしたのだろうと。前に訪れた山でも、神霊となった獣がシュウを排除しようとしていた、と。
ポカンと美桜は少しあっけに取られた。あの使い魔が臭い、と言っていたのは、そういうことだったのかと。
それに、とシュウの言葉が続く。目前で何かためらうように。言いたくなさそうに。見つめる美桜に、大きな息を吐くような仕草がわかった。
『あなたの精気を嫌だと思う者はいません。聖魔も使い魔も。あなたの精気は、俺たちを惹き付けて魅了する』
だから、とシュウの強い目付きが彼女を射貫いた。聞こえない声を言い聞かせるように。
『無闇に他の者に精気をふりまかないでください』
「え……」
あ、うん……? とまだよくわからない美桜が答えると、シュウはもう一度息をついたようだった。そしてほんとうに忌々しそうな顔を見せた。木曽の館で、と言葉が浮かぶ。
『俺が目覚めて、あなたの精気が俺に充満していた時──霜月さんや六郎さんに言われました。俺が……今なら、洗剤や歯磨き粉の宣伝に出られそうなぐらい、爽やか過ぎるほど爽やかな気配をまとっていると。あなたの精気は、つまりそういうものです』
へ? と美桜は目をしばたたいた。
洗剤の宣伝? 歯磨き粉? とクエスチョンが浮かんで、次にはその光景が浮かんだ。シュウが爽やかな笑顔で青空の中、真っ白なシーツを干している姿。もしくは、真っ白な歯を見せて笑顔をのぞかせる様──。
「……っ」
ブハッと、吹きだした。声を立てて笑ってしまって、間近の怖い気配に急いでそれを引っ込める。……しかし、どうにもこらえられなかった。
ごめん、と口にしながら、美桜はひとしきり大笑いしてしまった。止められずに笑って、押さえては想像に笑い、どうにか収めるものの、シュウのとてつもない怖い気配に何度も口元がゆるんだ。
逆効果だから、抑えて、シュウ、と。
小さく笑い続ける美桜に、目の前で大きな息が吐かれるのがわかった。そして怖い気配や目付きとは違う、真っすぐな目が向けられるのも。だから、と彼の眸と口元で、美桜にはその言葉がわかった。
『あなたが闇に落ちることは、あり得ない』と。
精気はその人の本質を現わす。
自然や命──世界にある風景、息吹、星も大気も。人が営む思いや空気、香り、におい、息衝くものすべて。だれでも、自分が好むものをそこから摂取する。だから、聖魔の精気は個々で異なる。
そして、それらを愛しむような、爽やかできれいな精気を生み出しているのが、美桜だと。だから、彼女が闇に捉われることはあり得ないと。
真っすぐな目が彼女の中に差し込んで、何より力付けた。それに力付けられて、美桜もうなずいた。シュウの眼差しが言葉を紡ぐ。
少し、そばを離れます、と。
『だが──必ず戻ります。美桜。あなたを一番に守るのは、俺でありたい。──そのために、今離れます』
「……っ」
ずるい、と美桜は思った。美桜の聴覚が正常な時には、あまり口にしてくれないのに。こういう時ばっかり、ちゃんと言葉にしてくれる。彼の意志を。彼が呼ぶ、自分の名前。美桜──と。
それを聞きたい、と思った。それでうなずいた。
「……うん」
美桜もちゃんと強くなって、彼の行為を受け止められるように。巻き込まれたと思うだけでなく、自分の立場と運命、それらに立ち向かえるように。彼の思いを受け止められるように。
勇気を出して言葉を口にした。シュウ、と。
「……触れても、いい……?」
男の人に自分から触れるのは怖い。それも緊急時ではなく、こういうなんでもない時に自分からそこに踏み込むなんて。
彼女自身、とんでもないことを口にしているのはわかっていた。でも、今はどうしても伝えたかった。
わずかに見開いた目がめずらしい動揺を映した。そして、どこかぎこちなさそうにうなずく。ロボットではなく、彼の意志を映したように。
美桜はそっと、片手を彼の頬に伸ばした。引き締まった、硬さのあるもの。あたたかい、脈打つ鼓動を感じさせるもの。気配も眸も……美桜が何かを間違えれば、今にも喰い付かれそうな緊張感があるのだけれど。
おとなしく、彼女に触れさせるままにしてくれている。その彼をながめて、美桜も口にした。あのね、と。
「わたしも……嫌じゃなかった」
はじめは、美桜も色々と分かっていなかったという点は大きい。けれど、自分の中を染め変えるかのような、シュウの精気。あの時の衝撃は今も忘れていない。なぜなら、それは毎回、彼女を力付けてくれるから。
傷付いた身体も心も。熱い息吹で吹き替えられる。まるで、新しい自分になるように。力を分け与えてくれる。
それに勇気をもらう思いで口にした。シュウの気持ちもわからない。彼には伯父への敬服の思いが強くて、一族に認めてもらう道を選んだのかも。でも、と美桜は頑張ってそこへ踏み込んだ。
まだ怖い部分へ。
「シュウの精気は、イヤじゃないの」
強い眼差し。やわらかさがなくて、一見すると怖い顔立ち。背も高くて身体も大きくて、手も腕も大きくて──なにより彼の内から発せられる迫力が怖くて。精気のやり取りをするのは、はじめは怖くて仕方なかった。
でも……彼から吹き込まれるそれは、イヤじゃなかった。はじめから。
美桜がこれを言うのは何かとてもずるい気がする。でも、少しでも伝えたいと思った。
シュウ、と口にして、どうしてもためらって沈黙が続く彼女に、片手がその上から包まれた。シュウのめずらしい、やわらかな表情で。
何かを口にされた。端末に目を落とした美桜は、そこに浮かんだ文字にぎゅっと胸が締め付けられるのを感じた。シュウはきっとわかっている。美桜がまだ踏み込むのをためらっていることを。
シュウじゃなきゃ、イヤだと思ってしまったその理由。認めるのが、まだ怖い。なのに──彼は、『充分です』と返してくれた。美桜が自分から彼に触れていった、その行為だけで。
少し泣きそうになったのを感じ取ったように、もう一度言葉が浮かんだ。
『待っていてください』、と。一言はっきりと。
その眸を見つめ、揺るがない強さに、美桜もひっしにうなずいた。彼でなければ嫌だと思った思いを胸に、どうにか、言葉にした。
「待ってる。だから……あまり、無茶しないでね」
さらにめずらしく、小さな微笑を見せた。
春の夕暮れ。置き忘れられたような秘密の花園。そこで交わした約束は美桜にとって、何よりかけがえがないものになった。
美桜がそう思ったように、──シュウもそうでありますようにと、変に祈っていた。
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