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主人と下僕 5
どれだけ、そこで桜の木に見惚れていただろう。
風が吹いて花びらが舞い上がり、美桜も視界をさえぎられて髪を押さえた。
肌寒くなってきた、と思うのと同時に、シュウの上着が美桜を包み込む。目前で静かな表情の彼は、何を考えているのかやっぱりわからなかった。
「……そろそろ、車に戻りましょう」
うん、と美桜もうなずいて視線を落とし、思わずのようにこぼしていた。
「……家に、帰りたい」
冬の金沢、白のお山、吹雪の新幹線、未明の神社、木曽の館、枝垂れ桜の花見、下総の山荘。……もう、充分だった。
ただ、自分の部屋に帰りたい。いつもの日常に。彼女を待っているだろう、預けっぱなしの飼い猫に逢いたい。
でも、自分が狙われる身なのもわかっている。そのためにシュウを危険にさらしている。だから、安全な場所にいないといけないのもわかっていた。唇を噛む美桜に、しかしシュウの返答は短かった。
「わかりました」
え、と目を上げると、静かに真っすぐな眼差しが返される。
「今日は無理ですが、帰れるように手配します」
「……いいの?」
はい、と答えも短い。
「山荘には戻りません。あそこの結界はなくなりましたから」
さらに驚いたが、美桜も思い出した。シュウはあの場でも力が使えるようになっていた。それは確かに、聖魔も妖魔も封じる力がなくなったことを示している。ためらう美桜に、シュウの目にも気遣うような色があった。
「あなたが、ご自分を殺すことはない。嫌だと思うことは言ってください。望みを我慢する必要もない。自分は──あなたが望むなら、必ずそれを叶える」
見開いた視界に、如月シュウという人物が映る。まるで──全力で、美桜のすべてを守ると宣言してもらったみたいだった。
嫌だと思ったら言ってもいい。自分を殺さなくてもいい。あの時みたいに──。
ポロリと忘れていた涙がひとつこぼれて、美桜は急いでうつむいた。シュウは鉄面皮で強面で、顔も目付きも体格も迫力があって怖くて。知らない人はだれでも怖がって警戒するけれど。
──美桜を、守ってくれる。
フフと小さな笑いが出た。まるであの時、吹雪の夜に避難した公民館で思ったことみたいだった。シュウは時々、まるで魔法使いみたいだと。美桜が一番欲しいもの、欲しい言葉をくれる。
息をついて涙をぬぐい、美桜もあらためた。護衛である彼に対して、色々と心苦しい思いも判断に迷う思いもあるけれど。彼がそう言ってくれるのなら。
うん、と心からの思いで彼を見上げ、その思いに対する心を返した。
「シュウ。──ありがとう」
鋭い目付きが一瞬、まぶしそうに細められ、ふと上がった手は美桜の髪から桜の花びらを取っていた。そして、それを軽くにぎり込んでから、行きましょう、とうながす。
うなずいて商店街のパーキングに戻り、昼下がりの時間帯、車に乗って下総の土地を離れることになった。
その途中。人気のない四方を見渡せる田んぼ道で車を留めたシュウが、フロントガラスに向かって手の甲をかざすのがわかった。なんだろうと見守る美桜の前で、ふいにガラスに家紋が映る。
驚く前で、そこから声が出た。
『──なに、シュウ。緊急案件?』
声はどこか、忙しさのあまりとがった様子。おそらく──美桜と同年代ぐらいの男性。
いえ、と平素に返すシュウはなんでもないようにそれに返している。変わらない、彼らの日常のように。
「これから戻ります」
は!? と戻した声が静電気のような小さな音を響かせた。その異変にシュウが眉をひそめ、家紋の向こう側の主も一瞬いやそうな息を呑んだのがわかる。
うーわ、と腹立たしそうな、ため込んだ疲労のあまりか、本気の剣呑さをのぞかせた声で返して来た。
『オッケー。いつものホテル押さえておく。一匠さんにも伝えておくから、そっちに向かって』
はい、と答えたシュウはすぐさま片手をふってフロントの家紋と光を消した。そして、すかさずアクセルを踏み込む。美桜が驚愕のままたずねると、彼らの通信手段なのだと言われた。
巽家に情報統括する場所と人物がおり、そこから使い魔や戦闘兵の体内にある武器を通して連絡ができるのだと。
はぁ……とあらためて感嘆する思いで、彼が時々人目に付かない場所へ消えていたのを思い出す。まあ、こんな連絡方法、携帯じゃないのだから人目は避けるよね、と納得の思いとともに。
しかし、シュウがなにやら警戒心をみなぎらせているようなのには、首をかしげた。おそらく、前にも泊まったホテルなら大丈夫、と判断されたのではないだろうか。
伯父にも連絡が行っているのなら、問題はなさそうだけれど、と呑気に考えた美桜は、単調な景色をながめているうちに、いつしか眠りに引き込まれていた。
目が覚めたのは、空の色がすっかり夜に変わってからだった。
外のにおいがして寝ぼけ眼まなこを向けると、ドアを開けたシュウが夜のネオンを背景に、美桜をのぞき込んでいるのに出逢う。
シュウ? と思う間に、すみません、と一言断った彼が美桜の顎を横に向け、首筋に精気を分けてきた。うわっ、と声にならない声で身体をかけめぐる熱さに気をやられる。
起き抜けになんなの、と思いながら、いつも通り呼吸が静まるのを待ち、支えられた手が離されるのも見る。小さく息をついて、ジープの屋根に手をついて彼女をうかがう青年に返した。
「……何か、あったの?」
「都内は闇の気がたまりやすいので」
え、と周囲をふり返ると、どこかのコインパーキングのようだが、ビル群に囲まれたそこは、昼までの田んぼと山の風景とは異なっていた。自分はかなり思いっきり寝こけていたらしい。
赤面する思いで、食事にしましょう、とうながすシュウにうなずいてシートベルトを外した。
車高のあるジープから手を借りて降り、あの、といつもと変わりない彼を見上げる。
「運転いっぱい……お疲れ様」
ただ乗って、寝こけていた自分がとても申し訳ない。近くのビルのデジタル時計は夜の十九時過ぎを示している。夕方の首都高は渋滞等もあったろうに、一人で半日も運転をさせてしまったことがいたたまれなかった。
しかし、シュウはやはりふしぎそうなものを見る目だった。いえ、と疲れも見せずにドアを閉め、歩きだす。
この人、ちゃんと自分の限界わかってるのかな、と美桜は疑わしい。こっちが休め、と言わなければ、あの夜みたいに限界を突破しても無茶をしそうだ。
ちょっと恐怖を思い出して首をふり、シュウの後に続いて美桜の生活圏とは異なる町並みをながめた。
食事をとってコンビニで必需品を購入してもらい、再度少しだけ車を走らせたシュウは、ベッドタウンらしい一画に入った。その中の閑静なマンションの地下に車を留める。
あれ? と美桜も目をしばたたいた。
「あの……前に泊まったホテルに行くんじゃ、ないの?」
「あれはフェイクです」
え、と訊き返す前にシュウはあっさり車を降りて美桜の側へ回ってくる。あわててシートベルトを外して購入した荷物を抱え、ドアを開けた。
同じように降りるのを手伝ってもらい、地下から上階へのエレベーターについて行くまま乗る。
「……あの、どこに行くの?」
「自分が借りている部屋です」
え! と仰天した美桜にシュウは淡々と説明した。
「百雷の通信に干渉する力があったので、おそらく他家の者があなたの居場所を探ろうとしていたのだと思います。睦月さん……巽家の者も気付いたので、あのような会話になりました。ここは土地も悪くない。闇を祓う術も施されているので、あなたがいても問題ありません」
いや、問題の基準が違う。アワワと思う間にエレベーターは上階へ着いて、戸口を押さえた彼にうながされる。困り顔で降りて、スタスタと歩くシュウに先導されるままついて行った。
角部屋の一室、ドアノブに先のように手の甲をかざすと、ロックが解除される音がする。おそらく先のように、彼らならではの術が施されているのだろう。思考と感情はあわてていたのに、美桜は便利……と思った。
彼らみたいに手荷物が頻繁に紛失する日常なら、こういうものが必須なのだろう。
扉を開けたシュウが靴を脱ぎ、「どうぞ」とそっけない言葉で灯りをつけながら先導する。えぇ……と、ためらいと困惑が美桜を占めていたが、迷いながらようよう、足を踏み入れていた。
玄関で靴を脱ぎ、灯りを点けられた室内に踏み込んで、……下見物件? と目をしばたたいた。
玄関から右手に対面式キッチン、左手におそらくトイレと浴室、そして奥のリビングには何もなかった。テレビもソファもテーブルも。ただ、まっ平らなフローリング。かろうじてカーテンだけはあって、シュウはそれを引いている。
そしてリビングの左手にあるドアをシュウはうながした。
「寝室で休んでください。部屋にあるものは好きに使ってもらって構いません」
いやいやいやいや、と美桜は内心で突っ込んでいた。チラリと見たキッチンも何もかも、生活感がなさすぎて、人が引っ越してくる前の物件のようだ。
「あの……シュウ。ここに住んでどれぐらい?」
「半年ほどです」
いやいやいやいや、と再度美桜は突っ込んだ。ほんとにここで暮らしてたの!? と疑問符だらけで。
自分でも警戒する猫のようだと思ったが、そろりとリビングとの対面キッチンをのぞき込んで、見える範囲では冷蔵庫とコップ以外何もないのを知る。そして開け放された寝室をのぞいたが、見事にベッド以外のものがなかった。しかし、きちんとベッドメイキングはされている。
疑問に思ったのを察したのか、「週に一度、ハウスクリーニングが入るので」とシュウが説明をする。
なるほど、と思いながら、クリーニング業者もこれほどラクチンな物件はないだろうと思う。あらためて、この人やっぱりロボットっぽい、と美桜はちょっと失礼なことを思った。
タオルも好きに使ってください、と告げたシュウは、次いで自分はしばらく外に出ています、と美桜を案内した時と同じ、感情を見せない様でさっさと部屋を後にしてしまった。
え、と部屋の主に取り残されて、美桜もぼうぜんとする。無機質な、ほんとうに生活臭がしない部屋の中で眉間をちょっとなでた。
気を遣ってもらった。うん、と割り切ってパーカーを脱ぎ、袋を抱えて洗面室に失礼した。洗濯機に乾燥機、歯ブラシにコップ、髭剃りと、男性らしい一面と生活感があって、少しだけホッとする。
うーん、とまだ迷う思いもあったが、女は度胸、と憧れの言葉を思い出してお風呂場を使わせてもらった。耳の怪我には気を遣ったが、お湯を使って体温が上がったせいか、痛みがぶり返してきた。
お風呂を出てタオルも借り、髪の毛を丁寧に拭いて、肌の手入れもする。コンビニで購入した上下をまとって衣類の後始末もして、あらためて洗面の鏡を見た。すると、ガーゼの上から血がにじんできているのがわかる。
痛いはずだ、とおそるおそる傷口を確認しかけて、響いたノック音にビクリとした。飛び上がる思いだったが、相手は一人しかいない──はず。
そっと、ドアを開けると、やはり怖い顔のシュウがいた。なんか……もうちょっと別の顔覚えようよ、と美桜はあさってなことを思う。
「──傷が開いてませんか」
「え……うん」
なんでわかるの、と思ったが、そう言えば最初の頃は、美桜が怪我をするとシュウはすぐに察知したなと思い出す。あ、ピアスが片方ないからか、と遅蒔きに理解した。
すみません、と短く断ると、シュウはゆるんでいたガーゼを容赦なくはがし、そこに口付けた。
「シュ……ッ」
耳朶を唇に含まれて、変なしびれが身体に走る。シュウは小さな傷や打ち身打撲ならともかく、擦過傷などの場合はさすがに直接、口は付けない。傷の近くに精気を吹き込む。
そうして血を止めているのはわかったが、美桜の羞恥心はとんでもない。抗議しようとしても、風呂上りよりものぼせた状態で力が入らなかった。
膝がくずれるとやはり抱えられて、何もないリビングに降ろされる。
すぐに離れたシュウはキッチンから救急セットを持ってきたようだった。「痛みます。すみません」と言葉は断っているのに、消毒はやはり容赦ない。
「い……たっ」
反射的に逃げかけて、シュウの片手が美桜の片側を覆い、それをゆるしてくれなかった。とっさにそこに頬を押し付ける形になり、痛みをこらえている間に消毒と手当がし直されている。
ホッと息をついて顔を上げると、──獣のような目に遭った。
「……!」
彼女を傷付けても食らい尽くそうとするかのような、獰猛な──飢えた目付き。昨夜も見たようなそれ。
思わず後ろに身を引いて、ハッとしたようにシュウも下がった。
目を伏せて、すみません、と謝る言葉は何に対してなのか。片膝立てた姿勢で拳を自身の額に押し当て、血管が浮き出るほどの力がそこに見て取れた。
「……シュウ?」
そっと声をかけると、大きな息とともに性急な様で膝を上げた。そのまま、美桜のほうを見もせずに、「休んでください」とだけ告げて風呂場のほうへ消えてしまう。
残された美桜は、再びちょっとぼうぜんとした。
男の人の部屋にいること事態、彼女にとってかなり勇気のいることで、自身の中の恐怖に踏み込む行為なのだが……。それよりも、この部屋の光景とシュウの様子に意識が向いていた。
そっと腰を上げて冷蔵庫を失礼させてもらうと、どこかで想像していた通り空っぽ。あるのは数本の水だけだった。
シュウはいったい、この部屋でどうやって生活していたのか。ほんとうに、ただ寝るためだけに使用していたのだろうか。半年間も──? と疑問になったが、その期間には思い当たるものがあった。
とりあえずペットボトル一本を頂戴して、水分補給をしながら寝室にも失礼する。シーツも枕も、新品同然に整えられているが、やはり人様の寝台を借用するのはためらいがある。しかもシュウは今日、運転しっぱなしで疲れているだろうし……と考え込んだ。
思うように髪の毛を乾かしていると、ややしてシュウがお風呂から出てきた音を聞く。同時に、パチリとリビングの灯りが落とされた。え、と驚いて顔をのぞかせると、半裸にタオルをかけただけのシュウがそこにいた。
「……すみません」
失礼してもいいか、というニュアンスがあって、美桜はあわてて本来の主に寝室を明け渡す。踏み入ったシュウが、クローゼットから着替えを取るのがわかった。
しかし、少しすれ違っただけだが、いやに冷たい水のにおいがした。お風呂上りのはずだが、水風呂でも使ったのだろうか。
「あの……シュウ。お水、もらった」
断りを入れると、Tシャツ姿のシュウがかるくうなずく。自らもキッチンへ歩いて同じものを手に、冷蔵庫の灯りの中でそれを飲んでいた。
あの……となんだか変な緊張を覚えて、美桜もたずねる言葉が遠慮がちになる。
「灯り……は、なんで消すの?」
前に泊まったホテルでも消されていたのを思い出す。シュウの返答は淡々としていた。闇の気が見づらいので、と。
人工の灯りは彼らの邪魔になるらしい。シュウが暗闇の中でも、夜目の利く獣のようだったのを美桜も思い出した。
シュウはそのまま灯りの消えた室内を迷うことなく歩み、窓辺近くに片膝立てて座り込む。美桜のほうにそっけなく、「休んでください」と告げてタオルで髪を乱暴に拭きはじめた。
美桜もちょっと迷ったが、昼間に着ていたパーカーを上に羽織って寝室の灯りを消し、シュウの向かい、窓の片側に座り込んだ。いぶかしそうな視線が向けられる気配に、言っても無駄かも知れないけど、と断りを入れてから告げる。
「シュウが、ベッドで休んで。今日、たくさん運転して、絶対疲れてると思うから」
暗がりの中では怖い目付きも顔もよくわからない。ただそっけない声はいつも通りだった。
「自分たちの体力は一般のそれとは違います」
あー、そうね、と思いながらちょっとやけっぱちで口にした。
「じゃあ、わたしもここで寝る」
「あなたが寝たら寝台に戻します」
余計な手間をかけさせるなと言われているみたいだった。赤面する思いで美桜は抱えた両膝に力を込めた。
「シュウは……疲れたとか、しんどいって思うこと、ないの?」
沈黙はひどく静かで、彼が怪訝に思っているのかどうか、何もわからなかった。心が揺れた時、ふいにシュウの手が横のカーテンを開けた。ジャッと音がして、夜明かりが差し込む。
その中で、美桜を真っすぐに見てくる眸があった。
「あまりありません」
ロボットみたいな回答に美桜は瞬いた後、小さく笑ってしまった。なんとなく、彼が気遣って明かりを取り入れてくれたのがわかった。昼間たっぷり寝て眠気のない美桜は、シュウを付き合わせるのは申し訳ないと思いながら、今しかない気分で踏み込んでいた。
「少し……話、してもいい?」
かるく眉を寄せられるのに、美桜は言いつのった。
「シュウは、わたしのこと伯父さんとか、調査、資料とか……そういうので知ってるのかもしれないけど。わたしは、シュウのこと何も知らない」
だから、と少し強い気持ちで口にした。
「質問、する。答えたくないことは答えなくていい。シュウも、わたしに聞きたいことがあれば聞く。お互いに、平等。……ダメ?」
眉根を寄せたまま沈黙が続き、美桜の心がくじけそうになった時、大きなため息で提案が受け入れられたのがわかった。
「何を聞きたいのですか」と、シュウのそっけない言葉で。何も面白いことはない、と言いたげな声音で。
「あの……一匠伯父さんと、どうやって知り合ったの?」
さらに深く眉間に皺を寄せたシュウがタオルで一度、眉間から額をかき上げるようにした。そして、口にした。
その話を。
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