闇との遭遇 1

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闇との遭遇 1

 歩いて行ったのは、繁華街から離れたビル群の方だった。  高速道路が頭上を走り、車の交通量も多い近辺は夜だとさらに通行人がまばらだ。  美桜は一度、「日本に来た理由って、お仕事なんでしょう?」と探りを入れたが、伯父は行けばわかる、と簡素に返してそれ以上の質問を受け付けなかった。  先を歩く伯父をながめて、美桜はふしぎに思っていた。  日本は数年ぶりで勝手がわからないはず、という母の言だったが、伯父は勝手知ったる者の足取りで歩いていく。  時折、なにかを探す───耳をすましている様子で立ち止まることがあるが、その足取りに迷いはない。  日本の道に精通しているようだ。  とまどいが大きくなっていくのを感じながら美桜がついていくと、後ろからサイレンの音が響いてきた。  ふり向くと、赤い点滅が連なって近付いて来、数台のパトカーと救急車が美桜たちを追い越していった。 「事故かな……」  つぶやく美桜とは反対に一匠は鋭く緊張を走らせ、歩を速めた。あわててついていく美桜はほとんど小走りだ。  数十メートル先の角を曲がった通りでパトカーと救急車は止まっていた。あわただしく人が出入りしているのは、建設中の建物だ。往来の人々も騒然とした様子で足を止めている。  かけよる伯父に続いた美桜は、建設現場のフェンス越しに、周囲を巻き込んで横転したクレーン車の背を見た。怪我人もいるらしく、救急隊員の動きがせわしない。  それらを一瞬で見取った伯父がかけ込もうとするのを知って、美桜はあせった。 「え、伯父さん……!」 「そこにいなさい。美桜」  言い置いて一匠の姿はまたたく間に人込みの中に消えた。  一人取り残されて、美桜はぼうぜんとする。伯父がなぜ事故現場の中に飛び込んで行ったのかわからず、そもそも、こんなところになんの用事があったのかもさっぱりだ。  人込みが増えてきて規制され、美桜は救急隊の邪魔にならないように距離をとった。  なれない光景には少なからず鼓動が早まる。寒さが足下からのぼってきて、身震いした。トイレに行きたくなってしまった。 (……う~~っ)  辛抱と迷いを繰り返して足踏みし、えい、と踏ん切りをつけた。  騒然とする事故現場に背を向け、コンビニを探して小走りになった。  辺りの地理にくわしくなく、幹線道路が交差する大きな通りのために、どこにでもあるコンビニが見つからない。灯りのついているお店自体が見当らなかった。  『あなたの近くに♪』がウリ文句でしょー!と八つ当たり気味にウロウロして、ようやく信号の先に見知ったマークを見つけた。  ほっとしてかけ込み、トイレを借りて店内の暖かさとに人心地ついた美桜だった。  携帯で時間をたしかめると、終電にはまだ余裕があったがこれから帰宅することを考えると、家に着く頃には深夜になりそうだ。最近、近所では痴漢や引ったくり被害が増えているらしく、注意を喚起する看板があったのを思い出す。 (あんまり遅くなると、ちょっと怖いんだよね………)  少しため息をついてコーヒーと水を買い、コンビニを後にする。  もと来た方へもどりながら道端で水をふくんで夜空を見上げ、今日はけっこう星が見えるなあ、とのんきに思った時だった。   ──猫のような鳴き声がした。  周囲をふりかえり、声のするほうへ美桜は足早に近づいた。  鳴き声に切羽詰まった響きがあった。怪我でもしたのか、どこかにはさまって身動きとれない猫がいるのか。 (……猫じゃない……子ども?)  声は明らかに人の形をとっているのがわかった。しかし、なぜこんな時刻、場所に子どもが、とヒヤリとする。  頭上を走る高速道路の轟音と、近辺のひとけのなさが際立って、周囲に民家などは見当らない。それでも、甲高く細い泣き声は夜のしじまをぬって届いてくる。  チラリと都市伝説のひとつや怪談話などが頭をかすめたが、大人の判断で打ち消した。  会社のバンや社用車が無造作に駐車されている区画の合間、用途のわからない廃材置き場があった。声はどうやらその中から聞こえてくる。 「だれかいますかー?」  思いきって声を投げてみる。返ってきたのはやはり泣き声だけ。  ええ?と困った思いで周囲を見やり、だれか通りかからないものかとすがる。あいにくと冷たい車が走っていくだけ。  だいたい、と美桜は困惑顔で立ちふさがるフェンスの金網を見上げた。侵入防止のためだろうそれを、どうやって子どもが乗り越えていったのか。  警察呼んだほうがいいかな、と携帯を取り出しかけて、視線の先に子どもが通れるくらいの金網の隙間を見つけた。  確かめるだけ確かめようと、苦労して隙間をくぐる。なにより、やっぱり子どもがこんなふうに泣き続けている状況に胸をしめつけられる思いだった。  街灯の明かりが足下の影を伸ばして廃材の闇に溶け込む。「だれかいるー?」と再度声をかけながら回り込んで、積み重なった物陰の合間に子どもの姿を見つけた。  やっぱりいた! と美桜の鼓動が一瞬で跳ねあがる。 「ボク! どうしたの? 大丈夫? 怪我したの!?」  立て続けの問いに、男の子らしい人影はさらなる泣き声で返した。妹の子どもを見ていたからわかる。子どもは時々、もてあました感情を大きな泣き声で表わすことがある。  あせって美桜はまわりを見回す。積み重なった廃材は彼女の胸元ぐらいまであって、容易に乗り越えられるとは思えない。なにより崩れそうな危険度がある。  反対側に回り込もうとして、美桜が行ってしまう気配を感じたのか、一際大きな叫び声があがる。 「いま行くから! 待ってて」  美桜でも動かせそうなガラクタを押して身体をすべりこませる隙をつくった。足を踏み出したその前に、いきなり降ってわいた光の影だった。 「──下がって!」  凛とした女性の声だった。  割り込んだのは、一匹の白い猫。美桜の足もとで、まるで彼女をかばうように背を向け、毛を逆立てている。  威嚇のうなり声をあげるその猫に、美桜は我知らずつぶやいていた。 「……タマ?」  ビックリしたように、──ひどく人間くさいしぐさで猫がふりかえる。自身の言葉に驚いていたのは美桜も一緒だった。  そこに、襲いかかってきた影だった。  意志をもった濃厚な闇に頭からからめとられ、美桜は息をつまらせた。苦しいくらい、呼吸ができなかった。 「美桜……!」  さっきの声が響いて、視野に一瞬白い光が走ったと見えるや、美桜は息苦しさから解放されていた。  よろけた足もとがガラクタにつまずいて後ろにひっくり返る。むせるように咳き込んでいた。 「ちょっと!」  続けざまにお腹に重みが乗って、白い猫が緊迫した気色で美桜を見た。 「早く、立って!なんであんた一人であんな大物呼び込んでるのよ!」  明らかにしゃべっているのは、目の前の猫だった。ぼうぜんとした。 「……猫がしゃべってる」 「ああ、もうっ!」と言うなり、頬に猫パンチが飛んできた。 「現状把握は後にしろ、ってんのよ。このグズ! さっさと立って!」  猫に叱咤──罵倒され、それでもなんとか美桜の身体が動いた。その足が、見知らぬ力に引っ張られた。 「きゃ……っ」  見ると、足の先、子どもがうずくまっていた辺り一面が闇に沈んでいた。まるで悪夢の中で見た、底なしの入り口。  ぽっかりと口を開けたそこから闇の手が伸びて、美桜を引きずり込もうとしていた。  慄然と、声も出ない美桜の前で猫が反転する。猫じゃらしの束のように尻尾がいくつもあったのを見てとるが早いか。  尻尾の束が美桜の胸を叩き、勢いをつけて闇の触手に飛びかかった。  牙をたてられたそれが消滅して、彼女を引っ張る力が失せる。自由を取り戻した美桜は無意識にそれから離れるために身体を引きずっていた。  クスクス──と、子どもの笑う声がする。  泣き上げる声はパタリと止んで、いまやぬりつぶされたように真っ黒な深淵が顔をのぞかせる、その頭上。  かろうじて廃材の形がわかるそこに、小柄な姿がある。七、八歳くらいの、ほんとうに小さな男の子だった。 「──どこの家の使い魔かな。目をつけたのはボクが先なんだから、横取りしないでよ」 「………閻鬼(えんき)」  緊張の声音は白い猫だった。わかっていたふくみがありながら、当たってほしくない響きを帯びていた。  が、次には気の強そうな口調だった。 「あなたみたいなモノが、ずいぶんとご苦労なことね。子どもの泣き真似までするなんて」 「人の世界に溶け込むには、必要不可欠の擬態だよ。きみたちの主のようにね」 「おあいにくだけど──この子に目をつけたのはうちの主が先なの。優先順位にこだわるなら、手を引いてもらえるかしら」  子どもが、その見かけどおりの存在じゃないのはわかった。尾が幾本にも分かれた猫が人間のようにしゃべる光景からして。  闇の深淵を足もとに、まるでおのれの一部のように従える子ども。クスリ──と笑う様は、絶対に子どものものではありえない。その圧倒的な存在感。  現実のものとも思われない。 「その人の価値に気付きもしなかった主だろう? きみたち使い魔もひどいね。その可能性に気付いていながら、主にさえも黙っているんだから」 「……美桜は、人間よ!」  いきなり自分の名前を出されて美桜はビクリとする。信じられない光景に、ただのまれている自分を知った。  子どもは静かにほほ笑んでいる。 「そうだね──。彼女はただの人間でもあり、ボクらが望む存在にも、きみの主たちが望む存在にも──なり得る」  何気なく上げた片手に、立ち上がった闇が見る間に周囲を覆った。圧倒的な重量感あるそれにのまれて、美桜は声もない。  逃げることも、抗う術もなく、闇にのまれた。──あの時、いつもかたわらにあった真っ暗闇に。  視界の隅の猫がいくつもある尾を毛の先まで逆立てて白い光を放ち、闇の重圧と対峙したのが見える。が、圧倒的な重量差の前に踏みつぶされたように屈した。  美桜は闇一色の景色の中、痛い声をたしかに聞き、何事もないように近付く子どもをただ見ていた。  闇一色の中でも変に子どもの容貌はわかった。白い肌の目鼻立ちがはっきりした、こんな時でなければほほ笑ましくなるくらいの愛らしい子ども。  にこりと笑う顔は子ども特有のもので、──とても異質なのだとわかった。  しゃがみこんだ子どもが美桜の方に身を乗り出してくる。 「──ねえ、お姉さん。お願いがあるんだ」  ミオお姉ちゃん、と無邪気になついてくる妹の子どもと、変にその様子は似通っていた。小首をかしげるしぐさも。 「ボクらのお母さんになって?」  一瞬、目が点になった。あまりの状況に自分は気がふれたのか。幻聴に違いない。  なにかを言おうとして、グルグルしていた頭の中が一瞬空っぽになった気がして、酸素がうすくて呼吸がしづらいのにも遅まきに気がついた。やっと出た言葉は。 「──ムリ」の一言だった。 「ムリ? どうして?」  小生意気になってきた五歳の甥っ子は、ことあるごとになんで? どうして? とたずねてくる。そっくり同じ訊き方だった。 「ムリなものは、ムリ」  おもちゃを買って、とねだられた時にはキッパリ言わなければならない。お家にもう、いっぱい持ってるでしょ、と。 「うーん。なんか、さすがボクらのお母さんになれる人だなあ、って感心しちゃうけど……。お姉さん、ただパニクってるだけなんだね」  小馬鹿にしたように笑われて、ムッとした。 「きみ、ね。こんな状況で、なにがなんだかさっぱりだけど、いきなりお母さんになって、はいそうですか、なんて言えるわけないでしょ」 「えー、命の危険があっても?」  言うなり、黒い影が蛇のように美桜の身体に巻きついた。ひっと悲鳴をあげるより早くそれは身体の自由を奪い取って喉を締め上げる。 「……っ」 「ホントはね、あなたの承諾は別にいらないんだ。形式上、言ってみただけ。ボクらには、あなたの胎さえあれば、それでいいよ」  子どものあどけない声音の分、寒気を覚える残酷さだった。クスクスと、それはうれしそうな様子が伝わる。 「ほんとうに………何百年ぶりのことだろう。ボクもまさか、今この時代に出逢えるとは、思いもよらなかったよ」  にじむ視界の中で、子どもの小さな手が伸ばされてくるのがわかった。抱っこして、とせがむそれではなく、影の力がいや増すためのものだと理解できた。  息苦しさがこの上なくて、酸素が足りなくて、美桜の頭にはかすみがかかる。  その時だった。  肚に響く重たい音を耳は拾う。と同時に束縛する力が失せ、一気に呼吸がもどった。  咳き込むように酸素を渇望して転がり、目の前がチカチカする。切れ切れの息で涙がにじんだそこに、頑丈な作りの大きなブーツが入った。  ガチャリ──と、金属的な音がした。  なにが彼女の顔を上げさせたのかわからなかった。  闇色の空間も一転、都会の夜空と夜明かりと、それを切り取るように立ちはだかった青年。  おそろしいほどの長身。鍛え上げられた体躯。夜明かりに浮かぶ鋭角な顔立ち。獲物を捕らえた、獣の眸。  その手に握られた銃口が、たがわず美桜を捕らえた音だとわかった。引き金が引かれるのを、ただ見ているしかなかった。
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