下総の罠 2

1/1
前へ
/45ページ
次へ

下総の罠 2

 下総の山荘は、意外にも穏やかな時間が流れた。  妖魔の活動時間はやはり夜ということで、シュウと霜月は周辺の状況確認と調査に二日費やし、金曜日の今晩、いよいよ討伐に出るという話だった。  美桜はその間、絢音に遊ばれていた。……いや、この言い方は語弊がある。絢音と一緒に遊んでいた、と言ったほうが正しいかもしれない。  お泊りをした次の日は、朝から絢音の着せ替え人形状態になり、一日に三度は着せ替えをされた。おかげで少しだけ、着物の着付けを覚えた気がする。  うちの若い頃の着物あげるわ、とまたも同じようなことを言われ、少したそがれた気分になった。  美桜の服ははじめに着ていたもの以外は、寝間着用のスウェットだけ。当初の予定が一泊二日だったから、他の着替えは持っていなかった。そして、その服もコートもブーツも、木曾で処分されてしまった。  消費される分、着物だけが増えていく。なんなのだ……と思いながら、楽しそうな絢音に美桜も気分がほぐれて楽しんでいた。  一緒に料理をして、互いの知らないレシピを教え合って、味見から、さらなる探求と発見にはしゃぎ合う。家庭菜園をしているという庭で春野菜の収穫を楽しんだり。洗濯物を一緒に干して、いい天気、とほほ笑み合った。  お菓子作りも久々に行って、山荘中にただよう甘い香りに、霜月がうれしそうな顔をしていた。熊さんは甘いものがお好きらしい。  庭の一角にある六分咲きの桜の木の下で、由基と絢音と美桜、三人で午後のお茶のようななごやかな時間を過ごした。  由基ははじめにおびえてしまったのが申し訳ないくらい、物静かでやわらかな男性だった。そして、絢音をとても大切にしているのがだれの目にもわかるくらい、惜しみない愛情をあふれさせていた。  ただ……、その身ゆえに日中はあまり活動できないらしく、美桜も彼の姿を見るのは、お昼をかなり過ぎてからだった。  タマはこの家の敷地内がその性質に合わないらしく、快くない様子でほとんどを伯父のもとへ戻っており、日に一度ぐらいしか姿を見せてくれない。その理由も、ようやく復活した携帯電話で判明した。 『──そこは、魔を封じる地だからな』  携帯電話の履歴や通話アプリには、それはすごい量がたまっていた。ほとんどが母親や友人からだったが、その中の伯父とやっと会話した中で、美桜にも理解できた。  ここには、妖魔を同化させてしまった由基を封じ込める術が施されているのだと。そのために、由基はこの地から出ることは叶わず、聖魔の力はもちろん、妖魔の力も使えない。  ああ、だから、と美桜も納得した。  霜月は食事を取ったり身繕いをするのに山荘を出入りはしているが、就寝はどうやらジープ内でしているようだと美桜も気付いていた。シュウだけは、美桜の近くの部屋で就寝していたが。  聖魔の力が使えないというのは、あの閻鬼の時と同じ。何かがあっても把握も対処もできない。それゆえに避けられたのだろうと。  ここは美桜が呑気に楽しんでいただけじゃない、大変な場所なのだとあらためさせられた。その伯父と話せたのも、金曜日の今日だったのだけれど。 『──美桜』  伯父の声が通話の向こうから聞こえるが、電波状況がよくないのか、先から遠く途切れがちだった。 『私もすぐにそちらへ向かいたいが、鬼沙羅の残り火が厄介だ。少し時間がかかる。だが──おまえは早めにそこから離れなさい』 「え……?」 『おまえは……そ──』  声が切れて耳を澄ませた後、プツッと切れた。急いでかけ直してみるが繋がらない。行き違いかと待ってみたが、やはり応答なしだった。  どうしよう、と美桜もとまどった。時刻はそろそろ夜に差し掛かる。この時間帯に外に出るのは、あの新幹線の夜を思い出してしまう。それにきっと、他の者も反対するのではないかと。  シュウと霜月に話そうと、美桜も腰を上げた。この地は聖も魔も遮断しているせいか、他とコンタクトを取りにくい、と霜月が重たそうに口にしていた。でも──美桜にはきっと、何よりの隠れ家なのだと。その考えが、二人とも口にはしないが伝わってきた。  しかし、伯父が言うのならとリビングへ向かって、ふしぎそうな声がかけられた。美桜ちゃん? と絢音の声で。 「どないしたん?」  絢音の様子は昼過ぎに桜の下でお茶をした時と変わらない。 「あの……シュウと霜月さんは」  ああ、と絢音はあっさり答える。 「今さっき、出て行きはったよ。ユキさんとも話してたけど、今夜中に片付ける、言うてたわ。大物やと、聖魔でも下準備するからな」  妖魔退治。その事実にはどうしても恐怖を覚えてしまう。  霜月とシュウはどちらかが必ず美桜の近くにいたが、討伐を決めた今日はさすがにそうもいかないのだろう。それで、タマを見ませんでしたか? と問うと、絢音はさらに訝しそうにした。 「タマちゃんは見てへんけど……美桜ちゃん。どないしたん? なんや、悪い知らせでもあったん?」  絢音の態度はほんとうに何も変わらない。先まで一緒に過ごしていたものと何も。……あの、と美桜は穿ちすぎ、と自身に言い聞かせながら、それでもたずねていた。 「由基(よしもと)さんは……?」  ユキさん? と絢音は瞬いた。彼女が由基をユキ──と呼ぶのは、はじめに逢った時、学がなかった絢音が誤ってそう呼んだのが由来なのだと。そう恥ずかしそうに教えてくれた。 「さっき地下の部屋に行かれたけど……。夜の時間帯はどうしてもな。逢うぐらいなら、平気やよ」  なんか用やの? と訊かれて美桜もとまどった。由基は夜の──妖魔の力が活発になる時間帯は山荘地下に設置された、さらに厳重な座敷牢みたいな場所へ籠るのだと。この地が妖魔を封じる厳重な力で押さえられていようと、念には念を入れて。  だから、彼の活動時間は昼過ぎから夕暮れにかけてのほんの一時。そんな生活を二十年近く過ごしている。そして、伴侶である絢音も。  その絢音は、少し困ったように首をかしげた。夕飯の準備しよや、美桜ちゃん、と。 「ユキさんもお腹空かせて待ってるわ」  変わらない言葉に美桜も伯父の言葉をしまい込んで、うなずいた。  美桜の身には何もない。むしろ、この土地は由基を封じるとともに美桜の存在も隠してくれている。閻鬼に鬼沙羅。聖魔の彼らでさえも警戒する相手。その存在から隠されるなら、それの何がいけないのだろうか。  ──伯父さんにも隠してることがあるようやし。耳にしてしまった言葉が美桜にも陰りを生むが、首をふって気にしないことにした。  シュウや霜月の、無事の帰りを待とう、と。  昼までと変わらない絢音と二人のにぎやかな料理を終えて、手伝ってや、という言葉にはい、と美桜もお櫃を抱えて後に続く。  山荘地下への階段を降りて、途中から変に足元が歪んだ。どうにか降りきったが、いやに身体が重く息が切れはじめる。なんだろうと思うが、この状態には覚えがあった。  風邪の引き始め、というか、熱を出し始めた時の症状に似ている。あれ……と美桜も反省した。  下総の暖かい気候にはしゃぎすぎたかな、と。それとも、吹雪の中から春の気候と変動が激しくて、身体が驚いて変調を来したのかもと。早めに休んだほうがいいな、と自分でもあらためた。  とりあえず先を行く絢音について、地下とは思えない回廊の奥、座敷牢みたいなそこについた。  一昔前の貴人のための座敷牢は、きっとこんな風だったのではないかという、広く大きな造り。おそらく、山荘の土地のほぼ半分を占めるのではないかという広さ。  格子の向こうに見えるそこは普通の部屋となんら変わりない。少し多めの書棚と文机。灯りは少し落とされ気味で、普段使いのそことは反対側に、衝立で仕切られた寝所。  少し時代がかっただけの、一般的な部屋。ただ──部屋を仕切る分厚い格子だけが一般とは線引きしているようだった。  その中にいた人物が、やって来た絢音たちを見てやわらかに笑む。絢、と。 「ユキさん。──お待たせしましたわ」  にこやかに絢音が格子の入り口を開いて入っていく。美桜も続こうとしたのだが、なぜかふいに止まった。タマの声が聞こえた気がした。  疑問と、これをくぐってはならないという変な予感。瞬いた先で、「あら、タマちゃん」と絢音の声がする。目を上げると、格子の中、由基の近くで何かを話していたような様子のタマがいた。  なんだ、と美桜も安心して格子をくぐった。声は中から聞こえたのか、と納得して。  奇妙な違和感を覚えて、シュウは顔を上げた。  山荘から離れた浜辺の一角。霜月が人払いの術式をかけ、妖獣を誘い込む罠を各所に張って待機している最中だった。  近辺を調査した結果、大きな妖獣が三頭おり、その妖獣につられたように小物が各所にはびこっている状態。小物はいくら祓ってもきりがない。大物を仕留めるのが彼らの定石だ。  この地へ着いた夜、一頭に手傷を負わせたところ、他の妖獣が身を潜ませるのがわかった。どうやら三頭の妖獣は連携しており、一頭が倒された場合、他の二頭は別の場所へ移動してしまう可能性があった。確実にここで三頭を倒す、と言う霜月の判断は彼らには当然のもの。  そして、手間はかかるが罠を張ることにした。その割り振られた持ち場で、シュウは何かを感じた。  反射的に山荘の美桜の気配を探りかけて、あそこにはすべてを遮断する術がかけられているのを思い出す。それ以前に、彼女には存在を隠すピアスがついているのだと。  小さく苛立つ思いを拳に込める。妖鬼将二人に狙われるようになってしまった今は、その苛立たしいピアスが確実に彼女の身を守るひとつになっている。  何も言わずに出てきてしまったが、夜出かける彼らを見るたびに、美桜は不安そうな顔をするのだ。そして彼らが帰ってくるまで、深夜でもずっと待っている。そのため、霜月と相談して、夜の早い時間帯の短時間決着を決めたのだが。  やはり一言、告げてくるべきだったろうか。彼らがそばにいない間は、一匠の使い魔が近くにいる手筈だが。 「…………」  大物妖獣をすべて仕留め、明日には山荘を辞し、巽家へ戻る予定。  シュウは自分が感じた違和感の正体を探ろうとした。何か見落としてはいけないもののような気がした。しかし。  ドォン、と振動のような、遠くの爆発音のような音が伝わる。霜月の罠にかかった妖獣が怒りの気配をふりまきながら、シュウのいる浜辺へ向かってくるのがわかった。  意識を切り替え、氷色の大刀を片手に作りだす。近付く気配に戦闘の光を眸に宿した。  ~・~・~・~・~  今晩も美桜ちゃんが一品作ってくれたんよ、と絢音がうれしそうに由基に話す。ああ、これ美味しいね、と返す由基と、変わらぬ二人のやり取りに美桜も給仕を手伝いながら、ほほ笑ましくながめた。  その間にも、身体が熱を持っていくのがわかる。そこで、あれ? と美桜も少し疑問に思った。悪寒はしないのに、熱と呼吸だけが上がっていく……。  ええよね、と絢音の朗らかな声がする。 「美桜ちゃん、ホンマええ子やわ。ねえ、ユキさん」  そうだね、と由基が変わらぬ二人の会話のように答え、絢音が続けた。 「うち、美桜ちゃん、欲しいなったわ」  美桜も冗談の範疇で笑もうとしたが、ふいにお櫃のしゃもじを落としてしまった。指先が変にしびれている。訝しく思った先で、さらに異変に気付いた。タマが、さっきから同じ姿勢で一言もしゃべらない。 「タマ……?」  ああ、とそれに答えたのも絢音だった。 「美桜ちゃん、堪忍。そのタマちゃん、映像や」  え、と瞬く横手で由基の脇息が少し動かされ、タマの姿も同じように動いてフッと消えた。 「タマちゃんは、うちの術式で預かっとる。霜月や美桜ちゃんの下僕に知らせに行かれると、やっかいやしね。ああ、預かっとるだけ。山荘に戻ってきた時に、うちの術でな。なんも心配いらへんよ」  わけが分からず、美桜は困惑だけが増した。絢音はやはり変わらぬ笑みで実はな、と話しだす。 「うち、美桜ちゃんのこと少し前から知っとたんよ。……と言っても、耳にしたのは小梅からなんやけどな」  うちと小梅、けっこう仲いいんよ、と。 「もと一条家繋がりでな。……ああ、誤解せんといて。小梅はうちがこんなこと考えとるなんて、思ってもみぃひん」 「……こんな、こと?」  舌先までしびれてきて、美桜の鼓動もどんどんと早くなっていく。フフ、と絢音の笑みはどこかいたずらっぽかった。  あんな、と変わらぬ笑み。それはどこか、彼女がユキさん、と愛しい人を呼ぶときのものと似ていた。 「美桜ちゃん。うちな、ユキさんの子ども欲しいねん」 「……っ!」  とっさに姿勢を崩して後ずさった。しかし、正座が崩れただけで身体が思うように動かない。さらに、手足の先がしびれて力も入らなかった。 「うちにも、賭けやったんよ。美桜ちゃんの存在を知って、どうやってここに来てもらうか、色々考えてなあ。そんなところに木曽での騒ぎや。玄のご老人は美桜ちゃんの存在は伏せてるようやったからな。使える、思ってん」  意味がわからず目をみはった前で、絢音がやわらかにほほ笑んだ。 「うちが知らせたんよ、一条本家に。そうしたら、案の定、九重の阿呆が動いたやろ。そんでもって、美桜ちゃんたちはここに避難してきた」  美桜ちゃんが来てくれてうれしいわ、とはじめに逢った時の絢音のあの言葉。それにはこんな思惑が隠されていたのか。  呑まれたようにただ見つめる美桜の前で、絢音は変わらずやさしげな口調のまま。 「最初はな、美桜ちゃんにユキさんの子ども生んでもらえればええわ、思ってたんやけど。美桜ちゃん、ええ子やし。……なあ、美桜ちゃん。うちとユキさんと三人、ここで一緒に暮らさん? 妖魔にも、妖鬼将なんかにも狙われへんよ?」  毎日楽しいわ、と絢音の調子はまるで、日中に交わしていた他愛ない会話の続きのよう。  美桜はまだどこか信じられなくて首をふる。絢音も小首をかしげる。あかん? とほんとうに邪気なく。  意味がわからない困惑と感情が入り混じって、美桜は由基を見返した。絢音を心から愛している彼なら、止めてくれるのではないかと。その由基はふわりと笑んだ。 「私が愛する女性は絢だけですが……生まれてくる子にも、きちんと愛情はそそぎますよ」  美桜は愕然とした思いで目をみはり、そして視界を閉ざした。……この人たちは、何か──。ここに二十年も閉じ込められて、何かを掛け違ってしまった感じがした。美桜の言葉や常識は通じない。二人だけの世界。  しびれる舌先で美桜は彼の名を呼んだ。呼べば絶対来てくれる、美桜の護衛。 「……シュウ……シュウッ!」  ──しかし。彼は現れなかった。  目を開けて美桜は室内を見渡し、シュウ! ともう一度呼ぶ。けれどやはり、彼は姿を見せない。  あの圧倒的な存在感。迫力。他者を射竦める、獣のような眸。  なんで? と美桜は重たい身体を引きずって出口に向かおうとした。そこを、間近で膝を折った絢音に止められる。堪忍な、美桜ちゃん、と。 「この地下牢はな、外界との繋がりを一切遮断するんや。外に声は届かへん。使い魔との繋がりも切れる。……使い魔があやかしなら、異変をすぐに察知するんやけどな。美桜ちゃんの使い魔は聖魔やし」  もともと、美桜ちゃんには存在を隠すもんもついてるしな、と絢音は彼女の身を守るものも利用したらしかった。  おびえる美桜の眸にも、絢音はやさしくほほ笑む。 「ほんまは美桜ちゃんの同意が欲しかったんやけど……仕方ないわ」  そう言って、スルスルと美桜の帯を解きはじめた。  お花見しよや、美桜ちゃん、と言って彼女に着替えさせたピンクグレーの無地の着物。帯は印伝の花柄という紋様なのだと教わった。帯揚げを芝翫茶色で引き締めた装いは、上品な大人可愛い、という言葉がぴったりの装い。そして、グレーの小紋着物に同じ帯を締めた絢音は、美桜と一緒に鏡に映して、「姉妹みたいやわ」と、とてもうれしそうだった。  美桜も、とてもお気に入りになった着物──。 「あ、やね……さ……」  ポロポロと涙がこぼれた。身体が熱い。重くて指先や舌先はしびれているのに、涙だけは美桜の意志のままあふれる。  着物を脱がせて長襦袢姿になった美桜を見て、絢音はやさしく微笑した。細い指先で涙をぬぐってくれる。なのに、紡がれた言葉は残酷だった。 「身体が熱いやろ、美桜ちゃん。それな、四条家の薬師、特製のものや。今日日、なんや胡散臭いものはたくさんネット上に出てたけど、効果がわからんし、うちが自分で試しても効かひんしな。……四条家に、妖魔の力を封じる試薬を作ってる薬師がいてな。その人に冗談半分、頼んでみたんや。──人に効く媚薬って、ほんまに作れるん? って」  でも、と美桜は言葉にできずに否定する。美桜はそういった類のものは口にしていない。昼過ぎに三人でお茶をしてから、ずいぶんと経っている。絢音がやわらかに美桜の目にある疑問に答えた。 「美桜ちゃん、さっきのお夕飯の味見、三回はうちの料理口にしたわ」  ハッと、美桜は視線だけで由基のお膳を見やった。由基も絢音も口にした。でも、美桜だけに効いているその効果。 「そん、な……」  どうして、と言葉にできない思いで泣く美桜を、絢音は驚くべき腕力で抱え上げた。美桜とさほど変わらない体型、細腕なのに。  そのまま室内の奥、衝立で仕切られた数段高い寝所の上へ美桜を横たえた。恐怖と驚きでとまどう美桜に、絢音ははんなりと笑う。うちは聖魔やで、美桜ちゃん、と。 「刺国若比売命(さしくにのわかひめ)の存在が伏せられててよかったわ。知られてたら、四条家の薬師も、さすがに警戒したやろしなぁ」  いったい、何がどこから絢音の計画の内だったのか。見つめ続ける前で、絢音は枕元の香炉をつけたようだった。そこから、ゆるやかに甘い香りが広がってゆく。  かいだ瞬間、美桜の身体がさらにしびれた。身体の奥から熱が生まれる。その熱に捉われて理性が押しやられる──そんな危険な匂い。  絢音がやさしく美桜をのぞき込んだ。 「これな、その薬師から一緒に使うと効果が増す、言われたんや。あん人、ほんま研究にしか興味ないんね」  ホロホロと、涙だけをこぼしながら美桜は絢音を見返した。こんなことをしても無駄だ、と声にしたいのに、舌がしびれて言葉を紡げない。美桜は今、月経が終わったばかり。不妊治療に通っていたから、女性の身体のサイクルは美桜も知っている。 「あや、ねさ……っ」  フフ、と絢音も笑った。まるで美桜のその言葉を聞いたように。うちも勉強したんよ、美桜ちゃん、と。 「うちら、女性の聖魔にはないその仕組み。美桜ちゃんは今、その時期やない。でも、な……美桜ちゃん」  片手がゆるりと美桜の頬をなでた。そして紡がれる、そら恐ろしい言葉。──先んじられればええんや、と。  涙が止まって見開いた視界に、絢音のやさしい──けれど、どこか眸の奥に狂気をはらんだ色を美桜は見た。 「美桜ちゃんがユキさんと関係を持ったら、その時期やなくても疑いは持たれる。ほんで、もし──その後に一条家が刺国若比売命を得ても、あの家が抹消しようとした、ユキさんのお手が付いた存在やと──ずっとそう言われるんや」  狂気をはらんだ微笑だった。  美桜はぼうぜんとした。たったの二日でも、絢音と過ごした様々な出来事が目の前に浮かぶ。その時の笑顔や驚いた顔や、美桜をちょっと叱るような顔も。人と距離を置きがちな美桜でも、しぜんと気をゆるしてしまう、明るくてやさしい女性。その彼女の中にもあった闇。  絢音は復讐をしようとしている。美桜という存在を使って。自身の何より大切な人を殺めようとした家を──一族を。  この人は、そんなにも──心を壊される目に遭ったのか。 「…………」  言葉にしたくても、香りに捉われて舌先はさらにしびれを増していた。そんな美桜からつと離れると、静かに二人のやり取りを見ていた由基のもとへ戻る。そして、妖魔である彼の半身に手を貸すと、その身を支えて寝所へ導いた。  恐怖と呪縛が美桜を捉える。  逃げなければ。早く、早く、と切羽詰まった焦燥で鼓動が強くなるのに、それは身体に作用したものなのか、判別がつかない。甘い香りが美桜を惑わす。嫌だという思いが溶けてしまう。  動かない身体。拒絶や悲鳴も上げられない喉。  たすけて、と無意識に呼んでいた。呼んだらほんとうに来てくれた。もっと早く呼んでくださいと怒られた。  美桜を守ると、──あなたを、俺が守りたいと言ってくれた。はじめて、自分の意志を見せて。  シュウ。──たすけて、シュウ。
/45ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加