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下総の罠 3
ほな、ユキさん、美桜ちゃんに優しゅうな、と絢音はお膳と着物を片付けて格子の外──地下からも出て行ってしまったのがわかった。
美桜にはどうしてもわからない。この二人の思考が。
せり上がる息を切らし、横たわる美桜の近くに座した人が、顔半分を隠した片側でほほ笑んでくる。美桜は、それがなにより嘘くさいと感じた。今この時、この状況で美桜にほほ笑めるなんて。
「あな……は……」
なぜ、と美桜は問い質したくて仕方なかった。
なぜ、嫌だと言わないのか。愛する女性から他の好きでもない女をあてがわれて、なぜ、拒絶しないのか。
フッと小さく片側で笑んだ由基が灯りを落としましょう、と地下牢全体の照明を落とした。タマの姿を映していた器具といい、古風な造りとは反対に設備だけは現代的なのが皮肉だ。美桜とシュウの繋がりは絶たれてしまったのに。
一段と灯りが落ちた一角。寝所の付近は香炉と小さな灯りのみ。その中で由基が口にした。
「私はね、美桜さん。もう長くはないのです」
え、と反応する瞬きを察したように、微笑が深くなった。
「妖魔に食われた半身が、遠からず残りを喰い尽くす。身体も徐々に動かなくなってきた。夜のみならず、この地下牢で我が身を封じる時間が長くなった。──私は近い未来、この鬼と成り果て、そして同族に退治されるでしょう」
香りに沈み込みそうになる思考と抗い、美桜はどうにかそれを理解する。そんなことになったら、絢音が、と。
由基の微笑がさらに深いものになる。だからね、美桜さん、と。
「私は、絢の望むことならば、なんでも叶えてあげたい。絢が望むのならば、他の女性とも子を成そう。それで、絢がこの先も生きてくれるのならば。──彼女が望むのなら、同族への復讐だとて、否むものではない」
「……っ」
そんなの間違ってる、とシュウの時にも感じた思いが美桜の中を駆け巡る。それなのに、声が出ない。
「鷹衛の迅には恩があるが──仕方がありません」
由基の左手が美桜の腰紐をほどき、絹をすべる小さな音で解かれていく。その下の肌着にも触れられて、嫌だと思うのに身体は反応していた。美桜にはそれが何より厭わしくてならなかった。
「……めて」
やめて、と言葉にもならない吐息のような声がもれる。左手ですべてをはだけられて、枕元のほのかな灯りの中で肌が外気に触れた。
おののくように、それとも身体を巡る意思に反した熱さにか、大きく反応した美桜に由基の息遣いにも感嘆が込められていた。
「きれいですね。……あなたは、きれいだ」
「……っ」
イヤだ、と生理的な涙がこぼれる。
たすけて、たすけてシュウ、ともうずっと心で呼んでいるのに、彼は来てくれない。言葉が届いていないのだとわかる。でも、どうしたらいいのかわからない。いつかの時のように指を噛もうとしても、歯にも力が入らない。何より、もはや手足を動かすことすらままならない。
どうしよう、と焦る思考も甘い香りに溶けていく。と、彼女の上に影が落ち、そむけた顔で視線だけ上げると、美桜の上にかぶさった男がいた。
一瞬で、記憶が呼び起こされた。
美桜の心を占めたのは、ただ恐怖だった。熱い身体もしびれる手足も、甘い香りに酔わされる思考も何もかもが凍り付く様で。──美桜を苦しめた男。彼女を心ない人形のように扱った男。傷付けても平気な顔で笑っていた男。
「──っ!!」
声にならない声で叫んだ。でも、それだけだった。
「……シ……ウッ!」
もう一度なけなしの力で叫んだ。シュウ……! と。でも、何も変わらない。
覆いかぶさった男だけが少しとまどった様子を見せ、そして静かに美桜の涙をぬぐった。申し訳ありません、と彼女の心からの拒絶を感じたように。
しかし、行為を止める言葉は出なかった。
「ほんとうは睡眠薬のほうがよいのでしょうが……刺国若比売命の意識がないと効果はないようなので……。すみません、美桜さん。息を楽に。吸い込んで。大丈夫、楽になりますから」
なす術なく美桜は大きく吸い込んでしまい、強く身体に刺し込んだ酩酊感に意識が一瞬消えかけた。それを、由基が彼女の心臓の上に置いた手でとどめた。
ああ、と歓喜のような、それこそ陶酔したような声がもれる。すごい、と。
「直接触れることに意味があるのか。これが……刺国若比売命」
彼の顔半分は人の顔で、そこには声音どおりの表情が浮かんでいる。けれど、もう片側には。
髪で隠されていたそれも、覆いかぶさったらわかる。下からのぞき込んだそこには、金に光る人のものとは思えない片眼──瞳孔まで金色に光る鬼の目があった。美桜を爛々と見つめた目が。
声にならない声を上げた美桜の恐怖を感じたように、由基が微笑う。
「鬼が喜ぶので、右手では触れないよう、気を付けます。気を楽に、美桜さん」
だれか……、だれかたすけて、といつかも思った思いが浮かんでは溶ける。あの時はどうした……っけ、と。
だれもたすけてくれなかった。美桜という人間はボロ雑巾みたいになった。また、あの時みたいになるのだろうか。
違う、と声がする。何度も、何度も言ってくれた。自分を呼んでください、と。自分はあなたの護衛です。──俺が、あなたを守りたい、と。
美桜はなけなしの力で、たぶん、もうこれ以上は無理という最後の力で、自身の耳についたピアスを片方、強く引きちぎった。襲った激しい痛みとともに、身体中で叫んだ。
「シュウ……! たすけて、シュウ……っ!!」
瞬間だった。地下牢をそれとなさしめる格子が、激しい音を立てて一瞬ですべて吹っ飛んだ。とたん──外気がブワッと押し寄せてくる圧迫感だった。
紛れもなく、怒りと殺意という名でもって。
続く、ドンッと肚に響く音。それは一発では収まらず、二発三発と続け様に響く。
美桜にかぶさっていた由基が声にならない声で弾き飛ばされるのがわかった。それは、美桜が血を流したとたん、彼の半身である鬼が反応して喰い付こうとし、由基がとどめようした、刹那の攻防だった。それが、間近の美桜にはわかった。
しかし、何も反応できない前で由基は部屋の端まで弾き飛ばされていた。左半身の鬼を瀕死状態になるほど的確に撃たれて。
そして格子の向こうから一足飛びに来たシュウが、間近で燃え上がるような殺意と怒気をはらんだのがわかった。
「……っ」
見られたくなかった。さらに涙があふれるのがわかったが、もう何も動けなかった。
膝を折ったシュウが手早く美桜の襦袢の前を合わせ、さらに自身が着ていた上着を脱いで彼女をくるんだ。そこに、新たな声と気配が駆け込んでくる。
「なんの騒ぎなん……ユキさん!」
悲鳴混じりに由基に駆け寄る絢音の様子。続けてシュウが再度の銃声で枕元の香炉を破壊するのがわかった。美桜の身体を抱えてその場から距離を置き、そして彼女の怪我した耳元に精気を分ける。
激しい痛みで頭痛がするほどだったが、少しだけおさまった。荒い息遣いの中でわずかに目を開け、視線をさ迷わせて、彼女を気遣うように見てくるシュウの怖い顔を見付けた。
「……遅くなりました。すみません」
謝っているのに、これ以上ないというくらい、顔が怖い。たぶん、ものすごく怒っている。でも……美桜が何度も呼んだのを、彼はわかってくれているのだろうか。
そう思うと、やっと来てくれたその存在に涙があふれた。
「シュ……」
鋭い目付きがクッと一瞬ゆがむと、めずらしく美桜を横抱きに抱えた腕で彼女を抱きしめた。もう大丈夫だ、と教えるように。その前で、絢音の泣きわめく声が響く。ひどい、ひどい、と。
「ユキさんになんてことするん!? 戦闘兵の分際で!」
ああ、この人も、と美桜は整理のつかない思考の中で思う。しかし、それより早く彼女を抱えたシュウの片手が銃口を絢音に向けるのがわかった。
「──一匠さんの使い魔を離せ」
その威力を感じ取ったように、絢音の声も止まる。そして、静かに着物の片袖を振る音がした。厚い布が大きく地に落ちるような音。その後の、トン、と軽い音は美桜が聞きなれた猫の重さ。
その主は美桜、と急いで駆け寄って来ようとして、ハッと何かに気付いたようにひるんだ。たじろいだ後、一瞬で逃げるように姿を消す。
シュウも訝しんだが、気配をこらせば少し離れた霜月のもとへ行ったのがわかる。この地下牢では妖魔も聖魔の力も絶対不可の術が施されていたが、美桜の血がそれを消した。
彼女の流す血がシュウを呼んだ。だが、すぐに彼女の傍へは駆け付けられず、目の前に立ちふさがった格子がそれを阻んでいると知った。術式が組み込まれたそれ。そのため、すべて破壊した。今、この地に聖魔も妖魔もとどめるものは何もない。
妖魔を宿した男に同族が近寄って来ようが、好きに食い荒らされろと狂暴な思いがシュウを占めていた。
彼女を汚そうとした者に、肉片ひとつ、この世に残してやる価値はなかった。その思いのまま、とどめを刺すために銃口が女性の向こう、絢音が庇う瀕死の半妖へ向けられた。
それを絢音が自身を盾にして庇う。そして紡がれる声。
「……刺国若比売命の下僕が怒るんは、最もや。ユキさん殺すなら、まずうちを殺してからにしてや。……美桜ちゃんに媚薬盛ったんは、うちや」
その言葉に、シュウの銃口が迷いなく絢音へ向けられる。痛みと苦しい息遣いの中で、美桜はかろうじてシュウの胸元で身動ぎした。ダメ、と。
彼の精気をもらい、外のにおいがするシュウの近くで少しだけ自由が戻った。理性と、思考。舌先はまだしびれていたけれど、今どうしても絢音に告げなければならなかった。
絢音の中で絶対のものがあるように、美桜の中でもゆずれないものがあるのだと。
「……ァやね……」
シュウの胸元をにぎり、何度も大きく呼吸を繰り返す美桜にシュウの動きも止まった。美桜もひっしに息を整えて眸を返した。
断罪を待ち受けているような女性に。
「……あや、音、さ……あなた、自分たち一緒、殺して……る、だれか、待ってた……?」
絢音の眸がさざ波のように揺れる。美桜は彼女の様々な表情を思い出して、やはりやるせなくなった。
暗く、二人だけの世界で閉ざされた彼女に届くのはなんだろう。美桜は絢音を救いたくて、自分の心に抱えてきたものを吐露した。
「わたしは……ずっと、子どもが欲しかった。いっぱい、ほんとうに見栄とか意地とか、くだらない思いもあったけど。子どもができたら……って、いつも考えてた。母親は、十月十日、自分の身体の中で子どもを守る。自分に何かあったら、子どもも死んじゃう。だから、絶対、全力で守る。そんな風にして命懸けで守って生んだ子どもを、わたしは、他の人に渡すようなことはしません。子どもを、生み捨てるようなこと、わたしは絶対にしない」
だから、と続けた。ユキさんの子どもがほしい、と言った絢音の言葉。まるで絵空事のようで、現実味がなかった。絢音もきっとわかっている。
たとえ──もしも、由基の子どもができたとしても。絢音を救うのは子どもではない。
「もしも、わたしに何かあっても、子どもが無事ならそれでいい。わたしが母親なら、一番にそう考えます。でも──絢音さんの一番は、違うでしょう? 由基さんの子どもじゃない。誰かへの復讐でもない」
ゆっくりと、絢音の眸が開いた。
──美桜ちゃん、と呼びかけてくれる声が美桜はとても好きになった。ユキさん、と絢音が好きな人へ呼び掛ける声と似ていて。
絢音さん、と苦しい息遣いの中から告げた。
「わたしは、あなたの望みは叶えられない。でも、由基さんの願いを叶えられるのは、絢音さんだけです」
絢が、この先も生きてくれるのなら、と由基は言った。自分がいなくなった後も、絢の生きる力になるのなら、と。
「…………」
開いた眸から、ボロボロと感情がこぼれた。頑なな感情の壁がはがれ落ちるようにして、絢音は両手で顔をおおって泣いた。そして、自身が背後に庇った由基に取りすがった。
ユキさん、ユキさん、と詫びるように。
美桜はもう、それが限界だった。痛みと身体をめぐる熱に朦朧として、シュウの胸元をつかんでいた手からも力が抜ける。ハッとする様子があったが、何を口にする気力もなかった。
そこに、空気にヒビが入るような音で新たな存在が姿を見せる。見慣れた大きな肢体。肩に一匠の使い魔を乗せた霜月だった。
シュウ、と重たそうに視線を向けられた瞬間、霜月の片腕が巨大な獣のように倍増して彼らに向かって来ようとした。とっさにシュウが距離を置いて飛びすさるのと、おっと、と霜月が片腕を止めるのが同時だった。
「こりゃ……まいったな」
「アホ熊」
だから言ったでしょ、と言わんばかりの一匠の使い魔。
あー、とさすがの霜月も頭をかく余裕もなさそうに片腕を押さえたままシュウに告げた。
「シュウ。おまえはいったん、ここを離れろ。ここはもう安全じゃない。オレはとりあえず、後始末をする」
そう言って、素早く車のキーを投げて寄越した。銃を消した片手でそれを受け取り、霜月の肩口にいる使い魔に目をやると、白い猫は忌々しそうに毛並みを逆立てていた。
「私は美桜に近付けない。一匠のところに報告に戻るわ。血を止めて、シュウ。……美桜の血が、濃くなってる」
どういうことだ、と思う間に一匠の使い魔は影に消え、霜月にも無言でうながされてシュウも従った。
意識はありながら荒い息遣いの美桜を気遣い、飛び石でその場を後にする。
一瞬で地下から山荘の表、駐車場とも言えない路上に止めた車の前に出る。ロックを開けて後部座席に美桜を横たえた時だった。
「…………!」
調査した時にはいなかった、新たな大型の妖獣が遠くから向かってくるのがわかった。この地にいる妖獣の一頭はすでに仕留めた。霜月も一頭を仕留め、残り一頭──と注意していた時の美桜の叫びだったのだ。
なんだこれは、と震撼としたが、逡巡はほんのわずかだった。
シュウが守るべきは、美桜の存在。それに優るものはない。運転席からすぐさま乗り込むと、エンジンをかけ、数瞬後には山荘を後にしていた。
残していく霜月の存在に、小さく唇を噛んで。
~・~・~・~・~
山荘からひたすら離れるようにして車を飛ばし、田舎道をひた走った。
ゆっくりとだが、彼らの後を追って来る闇の気の気配がわかった。使い魔は美桜の血を止めろと言った。自分も先ほど、応急処置的に精気を吹き込んだが、きちんと手当はしていない。
舌打ちをこらえた。車を止めて手当をしたいが、場所が悪い。どうする、と夜道に視線を走らせ、よくある看板を目にした。迷ったが、車のまま入れて人目に付かないのは打って付けだった。彼女を休ませることもできる。
その建物の一室に入って抱き上げた彼女を寝台に寝かせ、まずは建物と室内に二重の結界を張った。自身でも威力が昔とは違うのがわかる。よほどのものでなければ近寄っては来ない確信があった。
そうしてからタオルを濡らし、霜月の車のサイドボードにあった救急セットを開く。戦闘を主にする彼らは万が一に備えて常備しているものだ。濡らしたタオルで彼女の左耳から首筋と血の痕を丁重に拭い、消毒をしかけた時だった。
「……ゥ」
かすかに彼女がつぶやいた。
意識はずっとあるようだった。ピアスが半分ないせいか、いつもよりその気配は濃厚だった。ピアスを付ける以前に戻ったように。
身体の中を渦巻く熱い熱に捉われているのはわかっていた。そのために意識を失うこともできないのだと。その彼女が目を閉じたまま、そむけた顔をゆがめてつぶやいた。
「手当……しないで」
耳を疑う言葉だった。だが、同時にシュウには理解できた。痛みに意識を奪われていたいのだと。
迷ったが、それは聞き入れられなかった。
「すみません」
謝罪をしてコットンに含ませた消毒液で傷痕を拭う。激しい痛みをこらえる様子がシュウにもわかった。
傷痕はかなりひどい有様だった。縫うほどではないが、かなり思いっきり引きちぎったらしい。精気を分けても、傷口はすぐにはふさがらないだろう。それは、彼女の渾身の抵抗の跡だった。
ギリッと唇を噛んで消毒を終え、彼女の耳に唇で触れて精気を吹き込む。血が止まったのを確認して、ガーゼで応急処置を終えた。
灯りが落とされ気味の室内に美桜の荒い息遣いが響く。彼女が懸命にその熱に抗っているのがわかる。鼓動の音もいつもよりかなり早い。
どうする、とシュウにも逡巡する思いが走った。以前、彼女が熱を出した時には、精気を分けても無理だと言われた。しかし、薬を盛られたのなら、彼女の体内を苛むものを静められるのではないか。
考えて、彼女をくるんだ上着の襟を下げようとした時、美桜が拒んだ。
「……さわらないで」
ハッと、シュウの動きが止まった。
彼女は再び、男に乱暴されかかったばかり。シュウに触れられたくないのは当然だろう。グッと拳を握る手に力がこもり、抑えようとしても激しい怒りで目がくらみそうだった。
また、間に合わなかった。男に恐怖を抱いている彼女を、またも男の欲望の目にさらした。どれだけ、傷付いただろう。身体と心を傷付けられただろう。
やっと少し、歩み出そうとした彼女はおそらく、再び足を引き返してしまったに違いない。やっと──少しだけ、シュウに心をゆるしてくれたようだったのに。
唇を噛みながら、シュウは離れるしかなかった。男は彼女をおびえさせる対象でしかない。
しかし、ベッドの端から腰を上げかけた時、離れていく気配を感じたように美桜が眸を開けた。そして、違う、というようにふるえる右手でシュウをとどめようとした。
「…………」
美桜は、なんて言えばいいのかわからなかった。
シュウは怖くない。呼んだら、ちゃんと来てくれた。美桜を守ってくれた。絶望から、ちゃんと救い上げてくれた。
絶対的なたすけの存在がいることは、どれだけ彼女を救ってくれているか、シュウは知らないだろう。だから、彼が傷付く必要はない。
でも、今はさわってほしくなかった。今触れられたら、きっと欲望のまま懇願してしまう。そんなことはしたくなかった。でも、さわらないでなんて言葉、誰だって絶対傷付く。
分けられた精気に耳の痛みが引いて、押さえられていた熱が思考を占めている。こんな汚いものに彼を巻き込んではいけない。
シュウは護衛だから。美桜を守る使命があるから。──伯父から、そう命じられているから。
でも、身体が熱い。他の男に触れられた跡が気持ち悪い。……上書き、してほしい。欲望のまま、呑み込まれてしまえばいい。美桜はその先にある快楽を知っている。
でも……そんなこと、してはいけない。
理性と欲望と狭間で揺れる視線の先で、シュウの目も瞬きを忘れたように美桜を見ていた。その鋭角な目付きに美桜も、ああ、とあきらめた。こんな汚い自分に、強く潔癖な彼を巻き込んではいけない。
伸ばしかけた手を引きかけた時だった。その右手が強くつかまれると、寝台の上に押し付けられた。
驚いて見上げた視界の中に、熱い熱をはらんだ獣の眸があった。美桜を食い尽くしそうな、強い意志を宿した目が。瞬間──。
「……っ!」
噛み付くような口付けだった。
一瞬で美桜の中に入り込んで、その熱で内にあるもの、すべてを焼き尽くしてしまうような。彼が美桜に分ける時の精気と、なんら変わりないそれ。
飢えた獣のように美桜を貪るシュウのそれは、彼女が抑え込もうとしてできなかった熱だった。待ちかねていたものを与えられた歓びで、身体が歓喜する。理性は一瞬で砕けた。
このまま、滅茶苦茶におぼれてしまえばいい。
欲望の歓びと、潜む、ほのかな闇。潔癖なシュウを、自分の欲望に落としてしまったという、仄暗い歓び。
左手はしぜんと彼の頭を抱えるようにして美桜はねだっていた。もっと、と。息継ぎもままならないくらい激しい口付けをして、互いの熱を分け合う。高められる官能に酔わされた時、美桜は目を見開いた。
シュウの精気が口内から直接そそぎ込まれた。美桜の身体の中をかけめぐって、異質な熱を払拭しようとする。彼女の中にある異質なものはゆるさない、シュウの潔癖さで。
違う、と美桜は首をふって唇を離そうとした。彼女が求めているのはそれじゃない、と。
しかし、彼女の頭を抱えたもう片手がそれをゆるしてくれず、今までにない沸騰しそうな熱い精気に美桜の思考も限界まで追いやられて、そして──フツリ、と消えた。
「…………」
彼女の左手が力なく落ち、落ちた意識を知って、シュウも唇を離した。
残り火のように宿していた美桜の熱い呼吸が唇にふれて、再度理性が消えかかる。どうにか、こらえて身を起こした。
腕の中で見下ろした存在を見つめて、もう逃げられないのを知った。
好きだ。──美桜が、好きだ。
護衛とか下僕とか、敬愛する一匠の姪だとか、そんな言葉も立場も使命も、何も抑えられない感情。
たぶん、もうずっと、シュウはどこかで気付いていた。けれど、見ないフリをしていた。彼女は刺国若比売命。自分は彼女の下僕。彼女を絶対的に守る立場でいなければならない。彼女を傷付ける者になってはいけない。想いに気付いたとして、どうしようもない。
彼女は聖魔の一族の中で尊重される存在だ。本来なら、シュウには到底手が届かなかった存在。
いつか──彼以外の上級聖魔と心を通い合わせ、次代の聖魔を生む。自分はそれを見届けなければならない。シュウが気持ちを自覚したとしても、どうにもならない。苦しみの真っただ中に落とされるだけだ。
自分は、それをどこかでわかっていた。だから、気付かないフリをした。見ないフリをしていた。おのれの気持ちに。
しかし、もう無理だった。
シュウを巻き込んではならない、とおのれの欲望と理性に葛藤して苦しむ彼女の目を見て、あきらめそうになった仕草を見て、燃え上がるような腹立たしさを覚えた。
巻き込め、と自身で心から望んだ。自分を巻き込め。他の男はゆるさない。他の誰でもなく、シュウをこそ、望め、と強く思った。
彼女に口付けたのは、その欲望に負けたからではない。流されたのでもない。おのれの内にずっとあった想いが、制御をふり切ったのだとわかっていた。ずっと──彼女にふれたかった。
自分一人のものにしたかった。
他の男に精気を分けるのはゆるしがたかった。妖魔になんてもっての他だった。無邪気にふりまく彼女が腹立たしくて──同じくらい、愛しかった。
彼に歩み寄ったり引いたりを繰り返して、時おり無防備な顔を見せた。彼にはじめて精気を分けて、よかった、と安堵したように。シュウをうかがうように上目遣いになったり、彼がいつもの通り返したら、バカ、と泣きそうな顔をした。やわらかな思いと信頼を見せて、「──シュウ」と彼の名を呼んだ。
自分はその度に、内にある感情を押さえられなかった。そうだ、と思う。とっくにわかっていた。
なぜ、彼女に他の男がふれるのが嫌だったのか。他の者にはふれさせたくないと思ったのか。
美桜が、好きだからだ。彼女が愛しい。誰にも傷付けさせたくない。そのすべてを、守りたい。
腕の中の彼女を見下ろして、今すぐにでもふれられる距離にいて、自分はそれをしてはならないのだとシュウにはわかっていた。
あのまま、勢いに流されたフリをして美桜を抱くのは簡単だった。しかし──彼女はあとで必ず激しく後悔する。欲望に流されてしまったことを。それにシュウを巻き込んでしまったことを。
何より、彼女が傷付く。
そしてシュウとの関係も悪化する。それを野生の勘で悟った。だから、踏みとどまった。彼女の心を守りたいのはもちろんだが、シュウはただ、彼女との関係が悪化することを──そばにいられなくなることを、ただ恐れているのかも知れないと思った。
「……っ」
唇を噛み、ようよう、腕の中の彼女から身を引いた。
自分はおそらく、この夜のことを後々、激しく後悔するだろうと思った。欲望でも激情でもなんでもいい。ただ今この時、我を忘れるくらい、がむしゃらに彼女を抱いてしまわなかったことを。
クソッと、もてあました熱と苛立ちで寝台から離れ、近くの壁際で鬱屈とした夜を過ごすことになった。
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