主人と下僕 4

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主人と下僕 4

 深夜。  眠れず周辺に意識を配っていたシュウの、体内に取り入れた武器が反応するのがわかった。落としていた腰を上げ、戸口付近の離れた場所で手の甲から百雷の術を解放する。  壁に向けると、パリッと、乾いた音で巽家の家紋が浮かび上がった。シュウ? とそこから聞こえるのは、巽家十二節、情報収集と指示を出す睦月のもの。  はい、と応える彼に、一声は彼らの最優先を教えるものだった。 『──お姫さんは無事?』 「はい」  うん、とわかっていたように、睦月はいつも通りキーボードを操作する音を響かせた。そして口にする。まいったねと霜月と同じ言葉を。 『ボクらの使い魔を向かわせようとしたら、その時と同じように嫌がったんだ。血のにおいがする、って。どうも……ピアスで隠されていた守護がなくなって、余計に近付けないみたい。一匠さんからも留める指令が出てる。ボクらは近付くなって。隼人かヨッシーをサポートに行かせたかったんだけど、あいつら今、海棠家で手間食っててさ』  海棠家、と眉をひそめたシュウの様子は知らず、家紋の向こうから状況説明は続く。えーとね、と。 『まず、一色由基は再度封じられた。別場所にね。多智花絢音は一族に徒なす者として拘束。処罰はこれからのこととして、下総の封印は解体。もうそこに用はなくなったから、引き上げていいよ』  思わず、シュウは反復していた。霜月さんは、と。ああ、と睦月もくったくなく答える。 『なんか、突如大型の妖獣出現、ってこっちも泡食っちゃったよ。でもまあ──熊さんだから。問題なく討ち取った。てか、その戦闘で下総の封印が粉々になったんだけどね……。山荘も壊滅だって。あれ、ほぼ四条家の力だったし、色々使えそうだったのになぁ』  シュウも破壊してくれたよね、とその声にはうらめしそうな響きがある。四条家の威力を惜しむように。  少なからず張っていた肩から力が抜け、シュウも息をつく。まあ、で、と睦月の声には一転、腹立たしそうな様子があった。 『お姫さん連れてこっちに戻って来てもらおうと思ったらさぁ……九重が来ちゃったんだよ。もうホント、すげーイヤ、あいつ。前当主の操りロボットみたい。貫成さまが相手してるけど、滅茶苦茶失礼極まりないんだよ。ホント、叩きだしたい』  グチグチと口にする睦月はどうやら他に発奮する相手がおらず、ずいぶんとため込んでいるらしい。  変わらない彼の様子にシュウも少し眉間をゆるめ、問い返した。木曽の時から疑問には思っていた。 「一条本家の当主は」  いくらなんでも、そこまでの暴挙をゆるしているのか、と。それがさー、と睦月の口調も不満を吐き出すそれだった。 『ボクらもおかしいなと思って貫成さまに聞いたらさ。なんと現当主、海外出張中なんだって。本家にいるのは前代さまのお内儀だってさ。まったく、さもありなんって感じだよ』  それは腹立たしそうに断じる睦月に、シュウも少し思うような顔になった。一条本家の前代当主夫妻……。でさ、と家紋から声は続いた。 『前回みたいなことになったらシャレにならないから、戦闘兵だけでも向かわせる手筈になってる。十二節はまだだれも手が空かないし、その辺、他に強力な結界もないしね。お姫さんの怪我って、そんなに深刻?』  いえ、ととっさに口にして、シュウは自身でもおのれの判断を冷静に努めるように強いた。  私欲に走っていないか。彼女の安全のために、最善の手を、と。周辺の状況と自身の結界に問題がないのを客観的に確かめ、それを告げた。安全に問題がなければ、他の者を近付けるのは避けたほうがいい、と。 「問題ありません。明日、念の為病院に行きます。……今は、できるだけ人払いを」  ああ……うん、と睦月も事情を聞いているように思うような口調になった。うーん、と考えるようにキーボードを打つ音が続き、そして息をついた。 『アー君も一匠さんもそう言うんだよね。シュウがいればまず問題ないって。まあ、妖獣の襲来も熊さんが倒したら後は問題ないっぽいし。……うーん、なんかキミ、ボクらを飛び越えちゃったりしたわけ?』  睦月の問いはほんとうに世間話の続きだった。そこ・・に重きを置いてはいない者の口調。黙して答えないシュウに、ま、いいやと、あっさり返す様がその心根を表わしている。 『とりあえず、今巽家には近付かないで。熊さんとの合流もまずいから、まあ、どっか適当によろしく。ヤバそうなにおいがしたら早めに言って。一応、下総の後始末に何人か近辺にはいるから。お姫さんの血のにおいが消えたら、ボクらの使い魔も向かわせる』 「はい」 『一匠さんも現場を別口に任せて向かうってさ。きっちり清めてほしいんだけど……まあ、仕方ないか』  妖魔との戦闘の跡は、きれいに清めるのが彼らの習わしだ。そうしなければ、闇の残りから次の新たなものが生まれる。それが、妖鬼将との戦いの跡ともなればなおのこと。  睦月の言う通り、時間がかかってもしっかり清めなければ、そこから新たな大物が生まれる可能性を示唆していた。しかし、今は仕方ないと、彼らも判断する優先事。  じゃあ、と睦月は会話の締めを言葉にしながら、小さな嘆息で言いたくなさそうなこともシュウに告げた。 『お姫さんをよろしく、シュウ。……たぶん、次のお姫さんの危機は、貫成さまでも庇いきれない。下僕の交替要請は、──一匠さんでさえも、たぶん』  そう口にして、壁の家紋が消えた。かるく腕をふって力を自身の中に戻し、シュウにも思うような沈黙が落ちた。  おそらく。  シュウがここに彼女を連れてきて結界を張り、血を止めた。それゆえに、妖獣の襲来は消えた。そう考えるのが妥当ではないのか。移動の最中、闇の気がゆっくりと付いてきた。彼女の気配と血をたどるように。そして、それを消したら他の気配も消えた。  あのピアス。彼女の存在を隠していた、それもきっと要。  狂暴になる妖獣。祓っても祓っても彼女に近付こうとする闇の気。刺国若比売命。その存在にまつわる何かが、きっとまだ隠されている。 「…………」  小さな息で短い髪をかき上げ、室内に戻り、彼女のそばで仮眠に戻った。  皮肉にも、睦月の言葉で自身の浅はかな欲望が取るに足りないものに思えた。彼が、美桜の存在を守れなければ交替されるだけ。  当たり前だと思えた。自分がこの立場にいなくても、そう思えただろう。力不足な者を、だれが彼女の護衛に付けたいと思うか。  自分はただ──力を付けるだけ。術式を身に付けろ、と告げたあの男の言葉のように。力を付け、彼女の身を守る。  たとえこの先──彼女が他の男を選ぶのだとしても。  もう今さら、シュウには彼女に出逢わなければ、という選択肢は存在しない。ならば、答えはひとつだ。  美桜を、守る。新たな力を学び、手に入れ、なんとしてでも。彼女のそばにいる限り、自分は地獄の業火を味わうのだとしても。おのれの欲望よりも何よりも。守るのだ、と、自身に萌した思いとともに。  おのれが敷いた結界の中で、彼女の落ち着いた呼吸とともに、静かな夜を過ごした。  ~・~・~・~・~・~  お水、と美桜は目を覚ました。  ひどく喉が渇いていた。窓もない薄暗い室内は照明が落とされ気味で、時間帯もわからない。いやに頭も重い。  ん、と目元をこすって身を起こし、また見知らぬ部屋にいるのがわかった。しかし、同時に胸元から落ちた衣服の下からあらわな肌がのぞいて、一瞬でパニックに陥った。  はわわっ!? と急いで服と両膝を抱え、それが男性ものの上着なのを知る。なにこれ、と頭がこんがらがる思いでもう一度周囲を見回し、だれもいなくて恐怖が襲った。  そこに、戸口が開く音がして見ると、現れたのは一瞬で室内を占める存在感の主、シュウだった。  彼を認めた瞬間、美桜の目から涙がこぼれた。え? と自分でもびっくりしてあわててぬぐって、とたん──昨夜の出来事が見る間によみがえった。  人里離れた山荘。海辺に近いそこは、ちょっとだけリゾート気分だった。暮らしていた仲の良い夫婦。好意を持ち、信頼を寄せた絢音に裏切られた。再び、身体を好きにされそうになった。何度呼んでも来てくれなかった彼。恐怖と絶望。でも──来てくれた。たすけてくれた。  パタパタ、と子どものように涙をこぼす美桜を見て、シュウも眉根を寄せた。そして彼女の欲するものを理解しているように歩み寄ると、購入してきたペットボトルの封とキャップを外して渡してきた。  流れるまま受け取って口を付けると、美桜は身体が欲するまま、半分の水を飲みほしていた。  息をつき、身体の中に浸透した水分に色々と冷静になった。そして、そのまま消えてなくなりたい気分になった。  抱えた両膝に顔をうずめ、ぎゅうっと縮こまった。 「……ごめん」  とんでもないことをした。恥ずかしくてなさけなくていたたまれなくて、もう本当に美桜はこのまま消えてなくなりたかった。  なんてことを彼に強いてしまったのだろう。ごめん、ごめん、と何度謝っても足りない思いで申し訳なさでいっぱいで、身体を小さくした。 「ごめんなさい……」  もうこれで、彼が自分から護衛の任を降りたって当然だ。美桜が絶対たすけてくれる相手と認識していたって、その相手に護衛以外の行為を強いるなんて。 「……っ、ごめんなさい」  違う意味で泣きそうになった時、ベッドの足元付近に腰掛ける様子が伝わった。いつも通りのそっけない声とともに。 「構いません」  構おうよ! と美桜は自分が加害者のくせに膝の中で抗議しかけた。その彼女がにぎっていたペットボトルがつかまれるのがわかって、そっと目を上げた。  シュウの変わらぬ、鋭くて人を射竦める目があった。それがペットボトルをするりと手にすると、残りを目の前で飲み干した。 「……っ」  それ、わたしが飲みかけたやつ……! と言葉にならない声で真っ赤になったが、たぶん、もとはシュウのものを美桜が口にしてしまったのだ。再度ごめん、と思って突っ伏した。  思い出すと──思い出してはいけないが、もうほんとうに色々と恥ずかしくて逃げだしたくて、そこら中、わめいて叫びだしたいくらいだった。それをこらえて、美桜は自分の卑しさと向き合った。  彼を巻き込んだ。自分の汚い欲望に。  あの時の美桜は、自分のことしか考えていなかった。身体の中にある熱をなんとかしてほしくて。その先にある快楽を貪りたくて。でもそれは──おのれのことしか考えていなかったあの男と、どう違うのだろう。美桜を、自分たちの目的のままに扱う者たちと。  涙がこぼれたが、今自分に泣く資格はないとひっしでこらえた。ごめんなさい、ともう一度ふるえる声をおさえてシュウに謝った。  彼は、美桜を救ってくれる、唯一の人なのに。 「もう……しない。絶対。……絶対」  だから、見捨てないで。  怖くて縮こまった美桜に、もう一度そっけない言葉がかけられた。構いません、と同じ言葉で。グシャリと音を立ててペットボトルがにぎりつぶされると、シュウが腰を上げて怒ったような声で告げた。 「あなたが気にされるのなら何度でも言いますが、本当に構いません。あなたはあの時、おかしな薬を盛られていた。ご自分を責める必要はありません。むしろ──他の男にされたほうが、腸煮えくり返る」  は……? と思わず目を上げた美桜に、シュウの眼差しはどこか苛立たしげな──苦しげなものを秘めた様子だった。  あなたが、と口にする言葉はその先を続けたくなくて、しかし彼の潔癖さを示すように息を入れ替え、いつものように告げた。 「あなたが望むなら、自分は昨夜のことはすべて忘れます」  真面目な軍人、そのままの態度だった。上官や上役から言われたことはそのまま従う潔癖さ。美桜が忘れて、と言えば、ほんとうに彼はそのまま従うのだろう。そして、昨夜のことは何もなかったようにこれからもふるまう。  忘れる──?  思い返して、美桜は音を立てて全身が沸騰した気がした。シュウの熱も交わした熱さも唇も、自分がねだったことも、全部覚えている。これを忘れる──? 「……ムリ」  膝の中にうずめた先でどうにか口にした。たぶん、自分は今、耳まで赤い。忘れたほうが絶対にこの先、良好な関係を保てると思うのに、なんでかその選択肢はなかった。  すると、目前の気配がめずらしく嬉しそうになったのがわかる。ビックリして顔を上げそうになったが、恥ずかしくて無理だった。では、と口にする声はいつも通りなのに、どこかいたずらっぽい。 「自分は忘れません」  叫びだしそうなほど身悶えして、美桜は羞恥心の中、かろうじてにらむように目を上げた。変わらぬ鉄面皮なのに、絶対違うとわかる雰囲気。 「シュウ……わたしをからかって、遊んでない?」  気のせいです、と答えながら、口元を拳で隠して横を向いた。絶対、笑ってるじゃん……! と美桜は腹立たしくてならない。  羞恥でふるえる美桜に、息をついて意識を切り替えたようなシュウがあらためて告げてきた。 「申し訳ありませんが、時間がないので身支度を急いでいただけますか」 「え……」 「替えの服は用意がないので、そのままで。いったん、ここを離れます」  え、どこに、と聞く前で、シュウはそれ以上話す気はないらしく、扉の外にいます、と出て行ってしまった。  そもそも、ここどこよ……と室内を見回して、寝台のすぐ横がガラス張りの風呂場なのを知った。え、と固まった美桜はおそるおそる枕元に目をやり、その用途のものを目にした。  ラブホじゃん! と何度目かわからない羞恥心で急いでベッドを出た。  あらためると、美桜の格好は昨夜の脱がされたものがかき寄せられただけだとわかった。その上からシュウの上着でくるまれていたらしい。思い出すとまた泣きたくなったが、とりあえず近くにあったタオルをぬらしてしぼり、身体を拭き清めた。……さすがにお風呂を使う勇気はなかった。  洗面もして耳の怪我が手当されているのも知る。自分が引きちぎった片方のピアスはサイドボードの上にあったので、ティッシュでくるんでなくさないよう、シュウの上着のポケットにしまった。  肌着と長襦袢を着付けしなおし、その上からシュウの上着を羽織る。男物のマウンテンパーカーは大きくて、美桜の膝まで隠れてしまう。自分でもチグハグなおかしな格好だと思ったが、仕方なかった。  そうして、そっとドアを開けると、張り番のようにそこにいたシュウがふり返った。 「……あの、上着、借りる」  今さらだが一応断ると、眸でうなずいたシュウが美桜をいつもの子ども抱っこで抱えた。また履物がない……と悲しくなりながら足袋の足元を見下ろす。  そのままシュウは手早く清算を終えて駐車場へ入り、霜月のジープに美桜を乗せると、迷いなくその建物を後にした。そして着いたのが、町中の小さな個人診療所だった。  瞬く美桜に、「傷口を診てもらってください」と言う。 「でも……わたし、保険証もお財布も……」 「自分が実費で払います」  マジ、と思いながらまた抱えられてその建物へ入る。土曜日はたいていの病院は休みか午前診療のみだから、シュウも急いでいたようだ。  そして、そこへ入ったら非常に注目を浴びた。当たり前だろうと美桜も思う。シュウはただでさえ、日本人離れした体格と存在感で注目の的なのに、彼が抱えているのが、いかにもわけありの女性なのだから。  赤面する思いで受付を済ませ、さほど混んでいなかったために呼ばれて診療室へ入る。ピアスを誤って引っ張ってしまって、と苦しい言い訳で傷口を診てもらい、手当をし直された。  そしてなぜか、身体検査みたいなこともされて他に怪我をしていないかチェックもされ、問題がないのを確かめたのに、初老の医師は難しそうな顔をしていた。そして、案じる目付きでそっと提案される。 「……気付かれないように警察に通報するのなら、こちらでしますよ」  え? と瞬いたが、山荘での出来事はきっとまた内々に処理されるのだろうと予想が付いた。そもそも、由基の存在は公になんかできない。だから、小さく首をふった。  すると、今度は奥さんらしい年配の看護師が美桜を気遣うように背をなでてくる。 「大丈夫ですよ。ちゃんと保護してあげられますから」  心配はいらない、と二人がかりで言われて美桜も目をしばたたいた。若手の女性看護師は待合室のほうを警戒するように顔が怖い。それで美桜もようやく理解して、冷汗をかく思いだった。  そういうのではない、彼は自分を守ってくれている者だ、と説明をして、どうにか引き下がってもらい──あまり信用していなさそうだったが。化膿止めの薬や、当分ピアスはしないようにという注意を受け、支払いを済ませたシュウとともに診療所を後にした。  変わらず運転をするシュウをバックミラー越しにながめ、うん、と思い出した。自分もはじめは、彼がとても怖かったな、と。 「……シュウ」  ミラー越しに視線を向けられ、美桜は彼に頼りっぱなしなのを申し訳なく思いながらもお願いをした。 「服と靴、欲しい……」  思うように少し眉根を寄せたシュウが路肩に車を留め、ナビを操作しはじめた。近辺の情報を確認する様子に、美桜もあらためて問い掛ける。あの、と。 「タマと、霜月さんは……?」  なぜそばにいないのか気にかかっていた。美桜は今、その時ではないのに。昨夜、シュウが絢音からタマを解き放ったのは、うっすら記憶にある。でも、今なぜいないのだろう。  それに、霜月も。妖魔退治に出ていたはずだが、あの後どうなったのか。  シュウが小さくはない息をつくと、ハンドル片手に視線を正面へ戻した。 「使い魔は、一匠さんのもとへ戻っています。霜月さんは後始末です」  その言葉には、美桜も胸を突かれた。封じられた山荘の夫婦。彼らに感じた好意も憧れも、まだどうしようもなく美桜の中に残っている。彼らは自分たちの目的のために、美桜を利用したのに……。  それでも、どうしても聞かずにはおれなかった。 「由基さんは……無事?」  シュウから怒りの気配が立ち上って、美桜も身をすくめた。彼が怒る理由はわかる。美桜をあのような目に遭わせた相手を、護衛として見過ごすわけにはいかないのだろう。でも、と。 「無事かどうかだけでも……知りたい」  シュウはそのまま、怖い沈黙をただよわせた。車のエンジン音だけが響く車内で美桜も耐えていると、ややして、苛立たしげな息とともに言葉が吐かれた。 「無事です。多智花絢音も処罰待ちの状態です」  ホッと、とりあえず二人の状態がわかって美桜も力が抜けた。まだ二人に対して、どういう感情で折り合いをつければいいのかわからない。けれど、絢音が悲しむ事態になっていないことには、安堵する思いがあった。 「……あなたは、人が好すぎる」  苛立ち混じりなのに、どこか許容したあきらめがあるようだった。シュウはそのまま、再度車を走らせはじめる。  美桜も申し訳ない思いを抱きながら、でも、と思う。昨夜あんなことがあったのに、自分は前回の時ほど傷付いてはいない。それはたぶん、男の欲望を向けられたり、暴力をふるわれたからではないと思う。……いや、薬を使われたが。  由基と絢音がほんとうに互いを想い合っていたのを見ていたのも大きい。けれど、きっと──。 (シュウが、いたから……)  彼の息吹が美桜を吹き清めてくれた気がした。傷付いた身体も心も、全部守ってもらった気がした。  赤面する思いで急いで窓の外に目をやった。そこで、あっ、と通り過ぎたお店のショーウィンドウに目を留める。シュウ、と声をかけて近くのコインパーキングに車を留めてもらった。  美桜の田舎町と似た雰囲気の商店街だった。にぎやかに栄えているわけではないが、地元に根付いた落ち着いた様子。土曜日の昼前は少しだけ人通りも多い。  抱えられて衆目を浴びながら、一軒のブティックに入った。よくある個人経営の、地元の年配婦人が利用するようなお店。しかし、ショーウィンドウにあった服は美桜でも着られそうだと判断した。  店主らしい品のよさそうな婦人は入ってきた美桜たちに驚いた様子だったが、深くは詮索せずに服を試着させてくれた。  紺地にスカートの下半分と襟元に花の刺繍が入った、膝丈ワンピース。ちょうど美桜のサイズにも合ったので、薄手のパーカーと合わせてそのままいただくことにした。婦人は美桜が足袋のままで履物がないことを知ると、わざわざサイズを聞いて、「ヒデちゃん、お願い」とメモを書いて奥のだれかに頼む。すると、間もなく中学生ぐらいの男の子が袋を持って姿を見せた。  どうやら、母親の使いで近くの靴屋でストラップシューズと靴下を購入してきてくれたらしい。  ありがとうございます、と恐縮してお礼を言う美桜に、婦人はシュウを警戒するように小声で確認してきた。 「交番なら近くにあるから、お巡りさん呼んで来ましょうか?」と。  ハハハとまたも引きつった思いで、彼は大丈夫です、と美桜は二回目の断りを入れた。  そう? とうかがうような表情のご婦人だったが、支払いをすべてシュウが請け負い、靴までそろえてくれた彼女に礼を言うように目礼をしたので、心証をあらためたようだった。  これはオマケね、と手作りらしい布製の斜め掛けポシェットにハンカチとティッシュを入れてもらい、小さな子どもの気分だった。再度お礼を告げて店を後にする。ようやく自分の意志で歩けるのがうれしかった。  美桜のすぐ横、少しだけ後ろを歩くシュウにもあらためてお礼を告げる。目線でうなずくシュウに、あと、と続ける。 「服代と靴代は、絶対返す」  ビシッと告げても、そっけなく返されそうになったので、それにも先んじた。 「シュウが構わなくても、わたしが構う。わたしは、自分のものはなるべく、自分で働いたお金で手に入れる」  カッコつけて口にしたが、すでに今週いっぱい会社を休んでしまっている状態だ。連絡は巽家当主の貫成がしてくれたと聞いたが、早くも来月のお給料が心もとなくて仕方なかった。  シュウはふしぎなものを見る目で瞬いている。あと、と美桜は着ていたものを入れてもらった袋をちょっと抱きしめた。 「……借りてた上着、クリーニングして返す」 「構いません」  物に執着しないもんね! と美桜はわかっていた思いでちょっと横を向いた。今日は少し曇っていて、気温も低めだ。シュウの身体にフィットした無地のカットソー一枚では、きっと肌寒い。  でも、これをそのまま返す気にはなれなかった。昨夜からずっとくるまっていて、涙もこぼしたし、今日もずっと着ていた。ムリ、返せない、と車に向かおうとしたそこで、手を伸ばしたシュウが自分の上着だけを取り出した。  抗議しようとした美桜の前で、平然とそれを羽織る。 「シュウ……!」  構いません、とまた同じ言葉を口にした。次いで、とんでもないセリフも。 「あなたのにおいは、嫌いじゃない」 「…………!」  真っ赤になって固まった美桜に、確かに小さく笑った。なんだかシュウは、今朝顔を合わせてから、いやに機嫌がよいようだと美桜も気付く。  彼はそのまま視線を道の先へ投げると、食事にしましょう、と昨夜から食事抜きの状態を教えた。  町の定食屋さんに入って、美桜が焼魚定食を食べる間に、シュウは定食に丼ふたつ、麺類ひとつ、ご飯のお替り二杯を平らげた。どうやら、美桜に合わせて昨夜から何も口にしていなかったらしい。  それにしても、と美桜はあらためてあきれてしまう。  胸板の厚さが服の上からもわかる、鍛えられた体躯。たるんだところなど一切なさそうな、無駄のない体型。高身長に長い手足。手も大きくて、指も長い。武骨な感じがする指だけれど、意外にやさしいのを美桜は知っている。引き締まった首筋だって脈打つ肌はすべらかで──。 「……っ」  急いで美桜は自分の思考を止めた。脳内で自分を罵る声が止まらない。モー!! と牛の鳴き声のように。  ひっしで脳内思考を追いやり、目の前の食事にだけ集中しだした彼女は気付かなかった。シュウが目前で、彼女の感情を読んだように小さく笑いをかみ殺していたのを。  食事を終えて近くのコーヒースタンドで飲み物を購入し、のんびりと散策しはじめた。  なんだか、昨日までとずいぶんと様相が違う。シュウはこれからのことを何も話さないし、うながすこともしない。いいのかな、と思いながら、美桜も自分からたずねることを避けていた。  あの山荘に戻るのは、やはり抵抗がある。でもあそこは、きっと美桜を守るのに最適な場所だ。自分の荷物も、山荘に置きっぱなし。戻るべきだろうと思う。でも……まだ、やはり怖い。  思うように歩きながら、いつの間にか商店街が終わって、春の田んぼのあぜ道に出ていた。あれ、と思いながらカフェオレの甘さを一口含み、美桜は道の先、木立の向こうの色に気付いた。  一瞬で心が浮き立つ思いで、そこに惹かれる。ふり返って、シュウ、とお願いをしていた。 「少し、寄り道してもいい……?」  今さらだ、というような目の色で、怖い感じの面がうなずく。そんな仏頂面だから、見知らぬ人たちに色々怪しまれるんだから、と美桜は内心で毒づいて、それよりもはやる思いで小走りになっていた。  交差する道路の先、木立で少し隠れたそこには、小さな桜並木があった。数えてみたら、六本ほどの並木とも言えない場所。  でも、すべて満開に近い隆盛を誇っていた。二、三組の地元民の姿も見える。皆が桜の木と、その花々に明るい表情で、はかなくも短い、見事な隆盛を愛でていた。  わぁ、と美桜もやはりその光景に心からの感嘆を覚える。蕾から花開いたその姿も、幻想的に散っていく花びらも、木の下にたまった桜の絨毯も、桜というだけですべての光景がいとおしい。  下総は桜の開花が早いと聞いていたが、これほどとは思わなかった。今まで知らずに損をした、と美桜はただひたすら、その光景に見惚れた。  一本一本の違いに感嘆と心からほころぶような笑みを覚え、それを堪能して別の桜の前に着いた時。そこから、ひらりと舞った花びらがカフェオレの蓋の上に落ちた。  ああ、となぜだか美桜は泣きそうになった。  ──美桜ちゃん、堪忍と、絢音の声が聞こえた気がした。それはほんとうに彼女の気のせいで、ただの思い込みだったけれど。  絢音は──きっと、だれより大切な由基が妖魔と身体を分ける身になり、さらには同族の手で殺されそうになって、何かが壊れてしまった。ゆるさない、という怨念と復讐の心が棲み付いた。  妖魔と、同族、きっと両方に。  絢音の選択は、美桜には受け容れられない。けれど、もし──。自分が絢音だったら。だれより大切な人がそんな目に遭ったら。美桜も、もしかしたら、彼女と同じ道に踏み込んだかも知れない。  絢音の中にある狂気は、自分にだってあるものだと思えた。あの時──。彼女の隣にいつもいた、闇の塊のように。  だから、あんな目に遭わされても、裏切られても、どうしても美桜の中に彼女を恨んだり、憎むような気持ちは生まれなかった。  もう一度、今度こそ絢音と腹を割って話してみたいと思った。けれど、たぶんきっと、美桜はもうあの二人には関わらないほうがいいのだろうと思った。美桜という存在が絢音の狂気の後押しをしてしまったのだろうかと、自身を苛む思いも浮かんだ。  けれど、目の前の桜はただやさしくて。  心なぐさめられる思いで、ただ一心に満開の花びらの数々をながめて、自分の心を癒していた。
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