主人と下僕 6

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主人と下僕 6

「五歳ぐらいの時です。自分の聖魔としての力は幼少期に発動して、知らぬまま母を殺しました。一族がそれを察知し、その時偶然、日本にいた一匠さんが自分を引き取り、養い子として育ててくれました。以来の付き合いです」  言葉なく固まった美桜に、シュウの眼差しはあくまで凪いでいた。そして小さな息をつく。 「他に聞きたいことはありますか」  静かに線を引いた拒絶だった。美桜が聞きたいことには答える。先に約束したように、彼女が望むのなら。  なにそれ、と美桜の中で感情がせり上がった。美桜が欲しかったのはそんな約束ではない。シュウのそんな思いではない。せり上がった思いのまま彼にぶつけそうになったが、そうではないと思った。  膝を抱えた手を解いて、全身で大きく深呼吸をした。そして口にした。彼女の中にある憤りを。 「──男って、ほんっとに勝手」  自分でも、内にある怒りと憎しみがこもった声だと思った。その怒りのまま、シュウに目を上げた。 「わたし、答えたくないことは答えなくていい、って言ったよね。なのに、自分からそういう大変な過去を口にして、線引きをする。どうせ、おまえにはわからない。おまえみたいに、恵まれて育ってきた人間には、って。自分の大変さはわからない。理解できない。だからこっちに来るなって拒絶して、自分一人傷を抱えたフリでカッコつけて、そのくせ、好き勝手に人をふり回す。内心で拒絶してるくせに、だれも、ほんとうは信用していないくせに」  突き詰めてしまえば──きっと、自分以外のだれもいらないのだろう。だから、自分勝手なふるまいができる。他人のことなんて考えない。  だから──自分の命だって、軽率に扱える。  感情のまま涙がこぼれてしまって、美桜は急いで強くぬぐった。美桜を救ってくれた相手にこんなことは言いたくない。でも、悲しい。シュウの踏み込ませない線引きが。  伯父さんは、と口にしてひどくふるえた声だったので、もう一度大きく深呼吸をした。そしてできるだけ冷静に言葉にする。 「伯父さんは、そういうこと何も話してなかった。シュウがいれば大丈夫だって。下総の……あの時には、わたしに早めに山荘を出ろって言ってた。たぶん、わたしに近付けたくない人は、伯父さんは警戒する。でも……シュウの時にはいっさい、何もなかった。それって、シュウはそんな罪を犯していないって、そういう証明じゃないの?」 「………」  おまえのせいじゃない、と言われた。  気付いたら病院で、そこを出てから見も知らぬ大きな屋敷に住むことになった。クローゼットの中ではない、広い世界はよくわからなかった。当初は、記憶も認識も把握もすべてがあいまいで、ただうつろな人形のようだった。その日々の中で、繰り返し小さな彼を抱き上げ、様々な景色を見せてくれた人がいた。言葉はかけられた。おまえのせいじゃない、シュウ、と。  あの時──。  母親は、部屋を閉め切ってガスの栓を開けた。理由はよくわからない。頻繁に来ていた男がいなくなったからかも知れない。閉め切られた世界の壁の外で、母親がはじめて聞く声で彼に語りかけた。  シュウ──ごめんね。こんな母親で、ごめんね、と。  彼にはよくわからなかった。ただ、いつも聞こえていた、世界のすべてである声の主が消えようとしていることだけは本能的にわかった。だから、どうにかしたかった。でも力がない。どうしたらいいのか、どうするべきなのか、何もわからないまま──彼の内の力が目覚めた。  後には、吹き飛んだ部屋の残骸と、血だらけの母親がいた。  その光景のまま、シュウの中の時は止まった。  母親の死因は一酸化炭素中毒で、シュウが無意識に放った力のせいではなかった。だが、たすけたかった相手が血まみれで伏していた光景は、彼の心に焼き付いた。  母親は、最低な人間だった。三、四歳になる頃からシュウをクローゼットの中に閉じ込めた。うるさいから。泣きわめくから。邪魔だから。いやな臭いがしはじめるとようやく外に出して、気まぐれに風呂に入れた。ハウスキーパーは察していただろうに何も言わなかった。そんな生活が一、二年続いた。過酷な環境でもシュウが生き延びたのは、聖魔の力ゆえだったろう。  愛されていたなんて、とても思えなかった。あの人はただ父親もわからない生みたくもない子どもを身ごもってしまって、仕方なく生んだだけ。自分が生んだ命のことなんて、なんとも思っていなかった。最後まで身勝手だった。シュウを道連れに死のうとしたのだから。  それなのに。 『母親は、十月十日、自分の身体の中で子どもを守る。自分に何かあったら、子どもも死んじゃう。だから、絶対、全力で守る。そんな風にして命懸けで守って生んだ子どもを、わたしは、他の人に渡すようなことはしません。子どもを、生み捨てるようなこと、わたしは絶対にしない』 「…………」  あの時の彼女の言葉がよみがえる。シュウの腕の中で心から怒りの感情を見せた、その言葉の主。  あの時救われたのは、その言葉を向けられた多智花絢音だけではない。シュウの中にも差し込んだ言葉だった。……愛されていたのだろうか、と。シュウを産み落としたその人は、ほんのわずかでも、彼の命を愛しんだ時があったのだろうかと。  昨夜からずっと、彼女の言葉と思いがシュウの中でもかけめぐり続けた。  世の中は、けっして彼女みたいな善良な人間だけではない。自分の子どもをどうしても愛せない親だって存在する。子どもを生みたくなかった女性だって。それでも──。  彼女の言葉と存在に救われ、癒される者もいる。自分みたいに。  そして、彼女はシュウのこだわりを真っすぐに貫いた。おまえにはわからない、と拒絶して一線を引くのかと。  そんなこと、するわけがない。できるわけがない。もろ手を上げて降参している。──美桜という存在が、いとおしくてたまらないのに。  かすかに笑って、乾きはじめた自身の短い髪をかき上げた。 「拒絶は、していません」  疑問のような気配が彼女からもれた。じゃあ、なぜ、と。なぜ今、その話をしたのかと。 「あなたになら、もう話してもいいと思ったんです」  自分があの時、だれよりはじめに認識した人物。黒田一匠。鷹衛の迅、と二つ名を持つ、聖魔の一族でも一目置かれる存在。  自分の中で、再び絶対の存在となった。あの人に追い付きたかった。あの人の役に立ちたかった。そのために力を付けた。通信で大卒までの教育課程を早々に履修し、十代初めでは無理だ、と言われた海外の傭兵部隊に入り、それこそ血反吐を吐く体験をして実践を学び、実力をつけた。たぶん──彼女がすべてを知れば、まず間違いなく、彼を見る目も距離も心証も、すべてが一変するだろう経験も。  そうしてただひたすら──一心に追い求めた。彼の世界のすべてであるその人を。  それを、彼女が壊した。  年上とは思えないほど頼りなくて、泣き虫で。自分を立て直そうとひっしにささやかな毎日をこなしていた。癒えていない傷口をポロポロとのぞかせ、それでもだれかに頼り切らず、自分で乗り越えようと前を見ていた。  彼女の心がいつも、シュウに飛び込んできた。  彼が経験してきたのとは違う、一般的な日常。ただ摂取するためだけだった食事ひとつ、美味しい、と感嘆する思いや、探求するような好奇心。緑や空気のにおいに感動したり、真白な雪の光景に見惚れたり、満開の桜に憧憬の思いで開けっぴろげに心を開放させたり──。  彼女の心がシュウの中に届いて、少しずつ、彼を変えていった。  今の彼には美桜が絶対に守るべきすべての対象だが、同時に息衝いている、様々な存在を自覚している。そして、それが当たり前なのだと。だからもう、だれか一人に自分の生を預けるようなことはしていない。  自分が生きて、彼女を守らなければ、美桜が理不尽な目に遭う。再度また傷付けられる。そんなことには、絶対にさせない。 「…………」  小さく息をつき、ためらいはあったが、静かに話した。彼女が予想した通りの内容を。彼が育ってきた環境を。一匠が繰り返し、彼の罪悪感を消そうとしてくれたことを。  やはり絶句したような彼女を見て、シュウも申し訳ない思いが浮かんだ。そして繰り返した。拒絶はしていない、と。 「ただ……今までこの話をしたことはないので、自分でも表現がわかりません。あなたを不快にさせたのなら、申し訳なく思います」  見る間にあふれそうな感情をたたえて眸を落とした美桜が、ただ首をふった。声と感情をひっしに殺しているようだが、強く目元をこする様といい、シュウには手に取るようにその思いがわかった。  もう、それだけで十分だった。  一匠が言っていた言葉がよみがえる。『おまえの傷がいつか癒える時を、変わらずに信じている──』と。  自分はもう、十分癒されている。彼女のおかげで。あの時の、心に焼き付いた光景のまま、時が止まっていた小さな彼を抱きしめてもらった思いで。  ただ、とシュウには不愉快でならない引っ掛かりがあった。それで返した。 「自分もひとつ、聞きます」  鼻をぐずらせながら、美桜が少しだけ目線を上げた。それに感情を押さえられず、苛立つ思いが声にこもった。 「あなたの先のセリフは、俺にではなく、他の男への怒りなのではないですか?」  図星を突かれたようにその目が固まった。ピアスが片方ない今、彼女の感情はシュウには手に取るようにわかる。だが、例えピアスがあっても、素直すぎる反応はだれの目にも明らかだった。 「おまえにはわからない、そう拒絶されたのにふり回されて、男は勝手、と思ったんですか?」  口にすればするほど、シュウの中には怒りが沸いた。もとより、彼女を傷付け、今も捉えているその存在が腹立たしくてならない。知らず、剣呑な殺気があふれ出るくらいに。  はわ、と変な声を出した彼女が何かを探すように周囲に目をやり、「……ちょっと、タイム!」と突然洗面室へかけて行った。彼女も夜目に慣れてきたらしい。灯りをつけて顔を洗う様子と、ややしてタオル片手に赤い目で戻ってきた。 「……なんでこの部屋、ティッシュのひとつもないの」と、うらめしそうに。  再び同じ位置に座り直すと、大きな息をついた。シュウが話してくれたから、わたしも話す、と言いながら、それでも口ごもって。  もう一度、踏ん切るように深呼吸をした。 「おまえにはわからない、って言われた。実家が茶畑営んで呑気にお茶をすすってればいい家と、自分の家は違うって。恵まれてるおまえにはわからない、って」  彼の母親は軽度の認知症を患っていた。一人で生活をしていたが義父はとうに亡くなっていたため、兄妹間でだれが引き取って面倒を見るか、ずっとギスギスとした話し合いがもたれていた。その時に発せられた言葉だった。  彼の家が裕福だったのは過去の話で、内情は大変な有様だった。だから、施設を探す話は出ず、兄妹間の争いが絶えなかった。  彼の母親の面倒を見ていたのは、ほぼ美桜だった。彼の兄妹家族にはまだ手のかかる子どもたちがいるから、と。美桜さんは暇でしょう? と。美桜もその時、派遣から社員への登用を打診されていた時で、その機会を逃したくはなかった。けれど──彼の母親を選んだ。  もし自分だったら、と考えたのだ。  母親に自分の存在を忘れられる。小さな頃から積み重ねてきた思い出や記憶、それらをすべて忘れられてしまう。母親に。それは、どんな絶望だろうと思った。美桜だったら、と自分に置き換えて、それで彼の母親のために色々と尽くした。その結果があの言葉と裏切りだったわけだが。  美桜はもう一度深呼吸をした。あの時の思いに今は捉われたくなかった。ちょっと気になって、自分の周囲と窓の外にも目を向ける。  すると、目の前から大丈夫です、とシュウの声が出た。 「二重の結界を張っているので、闇の気は近付きません」  ホッと息をついて、美桜はその話を触りだけした。シュウのようにすべては話せなかったけれど。そして自身の言葉を反省した。 「だから……ちょっと八つ当たりが入ってたと思う。ごめん……」  あの時、あの人にぶつけられなかった思いをシュウに向けてしまった気がした。彼はあの人とは違う。それはよくわかっている。でも──美桜の中では、異性はまだ一括りの対象なのだとあらためてわかった。  小さく息をついたシュウが、タオルで再度自身の顔をぬぐい、髪をかき上げた。 「もう、休んでください」  でも、まだ眠くない、と思った美桜に、鋭く獰猛な眼差しがひたと据えられた。 「あなたが起きていると、襲いたくなる」  は!? と思わず後ろに下がった美桜が冗談ではなさそうなその視線を受けて、アワワとあわてて腰を上げそのまま寝室へ飛び込んだ。鍵もかけられる音に、シュウもようやく全身から息をつく。  まったく、と腹立たしさと怒りが際限なくわき起こった。  ほんとうに彼女はもと既婚者か、と疑問と苛立ちが止まらない。自身が怖がっている男に対しての警戒心がなさすぎる。昨夜のこともすっかり忘れたかのような態度は腹立たしくてならない。  先の怪我の手当だって、シュウの手の中で痛みを与えられながら、その相手の手にすがっていたのだ。そして安堵の息をつくだなんて、あり得なさ過ぎた。あの時、自分がどれだけ内にわき起こった感情に支配されそうになったか──。かるく拳を握って額を押さえ、こもりそうになった熱を再度静めた。  不本意な事態でピアスがなくなってから、彼女の感情が様々にシュウの中に飛び込んできた。  昨夜の、自分を巻き込んではならないという彼女の誠実さ。護衛として認識している信頼。絶対のものを預けられている、彼女の心。  はじめの頃は──断言できるが、そんなものはなかった。彼女は常にシュウの存在におびえ、怖がり、距離を置いていた。それは男というものに対する以前に、シュウの風貌や存在感、すべてにおびえていたようだった。  それには慣れていた。だから、気にしたことはなかった。だが。  徐々にその警戒をゆるめているのはわかっていた。それにどこかで喜んでいる自分も。しかし、その彼女の心の動きがピアスという存在でまったくわからなくなった。  苛立ちはあの時から生まれた。彼女の気配が見づらい。──心も。感情の動きも。シュウに対する、すべてが。  だから、それを阻むものが苛立たしくて仕方なかった。それでたぶん……色々と失敗をした。彼女をさらに怖がらせた。それなのに、彼女は歩み寄って来てくれた。 「…………」  夜の中で息をつき、カーテンを引こうとした時だった。  ふいに寝室の鍵が解除されると、ずっとそこで何かを迷っていたようだった彼女が早足でシュウにかけ寄り、真剣な顔で横に回ると、膝をついて首筋に口付けてきた。彼女の精気がそこから吹き込まれるのがわかる。  シュウが気付かない、全身の疲労をいたわるような、やさしいやわらかさ。  そして言葉はかけられた。彼をなだめる、やさしい気遣いとともに。 「……おやすみ」  羞恥心でいっぱいなのは、手に取るようにわかった。そのまま再度かけて寝室に入り、鍵をかける。  それで、追いかけそうになった自分もとどまった。彼女はただ、いつもの通り精気を分け返しただけだ。男は近付いてはならない。自分が特別だなんて、思い上がってはならない。 「……っ」  それでもシュウは、彼女が内にある恐怖を踏み越えて部屋を出、彼に分けてくれた精気が、なにより尊くて特別なものだと感じられた。  男におびえているのに。彼女のほうこそ、一線を引くように鍵をかけるのに。それでも、シュウへの信頼と気遣いが扉の向こうから伝わった。もちろん──首筋に吹き込まれた精気からも。  めまいがするような思いで首筋を押さえ、おのれの中の邪な葛藤を抑え込んだ。  彼女の過去を問い詰めたら、意識がここから飛んでいくのがわかった。他の男に。それがゆるせなかった。自身の精気を吹き込んで注意を戻すこともできたが、──なぜか、それはしたくなかった。  理由が今わかる。そんな強引な行為ではなく、シュウに意識を向けてほしかった。ただ、それだけだ。  そして、それが叶えられたのに、さらなる葛藤に追い込まれた。  彼女を守る護衛ではない。男として見て欲しい。そんな欲望が気持ちを自覚する前から生まれだした。彼女をおびえさせるのに、自分の存在をアピールしていた気がする。でもそれは、今日一日で払拭された。  忘れてもいい、と言った彼に、ムリ、と恥ずかしさでいっぱいになりながら断った。シュウの容姿に目を配りながら、男として意識されているのを知った。それに、何より歓喜した。  しかし彼女は、あくまで自分の傷は自分で癒していた。桜を見つめながら、自分を傷付けた者たちと対話しているようだった。シュウとは違う。  過去の傷に捉われたまま、縛られていた自分とは。今はまだ自身を縛るものがあっても、彼女ならきっと、時間がかかってもおのれの傷はおのれで癒す。  その力がある人だと。  聖魔のように、人より数倍の力と命があったからといって、ほんとうに強いと言えるのは、彼女みたいな人なのだろう。  だからこそ、憧れも覚えた。強く惹かれた。自身と対極にいる彼女がまぶしくて。  再度大きな息をつき、厚手のカーテン越しに窓に寄りかかりながら、彼女が自分の寝台で眠る様子に、高まる熱をこらえて目を閉じた。
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