伯父の正体 1

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伯父の正体 1

 タシッ、と頬に肉球のあたる感触がした。  美桜は寝ぼけながら寝返りをうつ。飼い猫がエサをねだっているのだ。もうちょっと待って、と心でつぶやいて惰眠をむさぼる。  頭上を回り込んだ気配が今度はタシタシ、と額をせっついて、んもう、と不機嫌になった。 「……なんでそう、食い意地がはってるの」  だれに似たの、と言葉にこめた美桜は、次いでベシッ、と肉球にはたかれた。 「──だれが食い意地はってるってのよ! いい加減起きなさいよ。この寝ぼすけッ」  音がする勢いで目が開いた。  飼い猫がしゃべるなんて椿事はありえない、でもこの気配は猫のものだし、前にも聞いた声、と一瞬で頭の中をかけめぐり──何度もまばたきした。  ふんッと鼻をならした毛並のよい白い猫が、間近で美桜を見下ろしていた。 「猫がしゃべってる、ってセリフは昨夜も聞いたからもうやめてよね。ほら、さっさと起きて。人様の家でいつまでも寝こけてるんじゃないわよ」  オカルトの世界か、ファンタジー世界かの続きはまだ終わっていなかったらしい。  いやそれとも、これはまだ夢の続きだろうか。目をつぶって二度寝すれば、起きた時にはいつもの光景にもどっているのではないだろうか。──うん、きっと。  期待となかば意地で目を閉じた美桜は、やはりというか猫の大渇をくらった。 「起きろって言ったのがわかんないの!この大バカ者──っ!」  肉球で連打までおまけがついた。肉球でも痛いものは痛い。 「ちょっと待って……!」  あわてて頬をかばって美桜は飛び起きる。なんで夢じゃないの!? と心で叫び、自分が見知らぬ和室にいるのを知って二度ビックリした。  さらには腰に窮屈さを感じて見れば、無地の浴衣を着ている事実に仰天する。 「なにこれ……!? なんで? なに? あ、やだ。肌触りめっちゃいい。時代劇みたい。……そうじゃなくて! え? どこ、ここ」  一人ツッコミをしてパニックを起こす美桜を猫はあきれた目で見ていた。そしてそのまま尻尾をふって去って行こうとする。  とっさに美桜はむんず、と尻尾をつかまえていた。 「ちょっと待ってよ、タマ! ……あれ、尻尾が一本」  きッとふりむいた猫が美桜の手から尻尾を取りかえすと、ペシッと叱るように尻尾で手をはたいた。 「いい加減、あんたもいい大人なんだから、私のことをタマって呼ぶのはやめてちょうだい。私の名前は紫野命珠明良宮(しののみことのたまあきらのみや)。どっかの国民的アニメのキャラじゃないのよ」 「シノ……タマ」  一度では覚えきれない名前にまごつき、猫がしゃべって受け答えしている現実に、夢ではないとあらためるしかなかった。  それにしても、自分はなぜこの猫をタマと呼ぶのか。 「ここ……どこ」  十二畳ほどもある和室は床の間に掛け軸、生け花、観音開きの押し入れ、透かし彫りの欄間や襖の模様、畳のにおい、すべてからして質のよい、高級旅館の一室を思わせた。  自分はそんなところに布団をしいて寝ていたようだ。  枕元には封の切っていないミネラルウォーターが伏せたコップとともに置かれていて、行きとどいた気遣いに身がすくむ。 「一匠の実家みたいなところよ。ちなみにあんたの怪我の手当てして着替えさせたのは、女性のお手伝いさんだから変な心配しないで」 「おじさんの実家……」  居住まいが正される気分で背筋がのび、美桜は自分の腕や肩にガーゼが貼られているのを知った。思い出したように引きつった痛みがある。 「やっぱり、夢じゃなかったんだ……」 「ぐーすか寝こけておいて、なに言ってんのよ。今はもうお昼近いのよ。私はあんたが起きたことを知らせてくるから、あんたは顔を洗って身支度しなさい。あんたの荷物はそこ。洗面所はそっちの扉」  示された方には木目の引き戸がある。猫は言うだけ言って尻尾を立て去ろうとする。やはり美桜はその尻尾をつかんで引き止めていた。 「タマ。おじさんは……無事でしょう?」  猫はタマと呼ばれたことにピクリとヒゲをふるわせたが、美桜のすがるような眼差しにため息をついた。 「ええ。一匠たちはめったなことじゃ怪我したりしないのよ。大丈夫」  ホッと肩を落とす彼女をながめて、猫が小さく笑った。相変わらずね、あんたって、と。  美桜に訊き返される前に冷たく追いやった。 「さっさと顔洗ってきなさいよ。言っておくけど、あんたメイクしたまま寝たのよ」  そこまで面倒みられないわよ、という言葉に美桜は一瞬で青ざめた。  ウソッ、と顔にふれてスッピンではない感触に叫びだしたい思いで洗面所にかけ込んだ。タマのあきれた眼差しがそれを見送った。  ~・~・~・~・~  洗面所は和洋折衷の広くきれいな造りだった。二つある扉のひとつは檜造りのお風呂場で、もうひとつはトイレ。  洗面所は脱衣所も兼ねているらしく、タオルや女性用のアメニティグッズまでぬかりなくそろえられている。ほんとうにどこかの旅館並みだ。  美桜はちょっと開き直った。いまはそれらを借りるしかないのだから、と。  洗顔をして、化粧水、乳液もやさしめにする。旅館にあるような使い捨て歯ブラシで歯をみがき、スッキリしてからホッとした。  鏡の中の自分をのぞき込むといつもの見慣れたスッピンの顔で、ありえない場所、状況に違和感ばかりがつのる。自分はなにか、とんでもない間違いを起こしているんじゃないか。  昨夜の出来事の数々も、この怪我の跡も──そもそも、伯父に逢ったあの時から。  なんだかまた、夢の続きに入り込んだ気分になって、美桜は足もとのバックを探った。  スマホを取り出し、母からの着信履歴と友人からの謝罪メールを確認する。皮肉にもそれが現実へのバロメーターをかたむけた。  スマホで額を押さえて、あれ?と思う。昨夜、そこそこ飲んだから次の日には多少なりとも後遺症が残っていていいはずなのに、まるっきりない。クリアな脳内にバロメーターの計りがまたもかたむく。  と、スマホのバイブが音をたてて、あわてた美桜は取り落としそうになった。なんてことはないお知らせメールに、どっとため息がでた。  バックの中を再度探って化粧ポーチを取り出し、鏡にむきなおる。化粧なおし程度のものしか入れていないから心もとないが、顔なしから人間程度にはもどった。  鏡で確認して、意識して呼吸を入れ替えた。  洗面台を片付け、バックを手に部屋に戻る。と、いつの間にか襖のわきで端坐していた女性を認めて、ぎょっとした。  室内の布団は気付かないうちに片付けられており、床の間よりに食事一式が用意されている。  空気が動いたためしがない雰囲気は、禅寺のような気色だ。  美桜がなにか言うよりも静かに目を返した女性が、「お食事をどうぞ」とうながしてきた。五十代ぐらいの和装が似合う女性で、無駄口を好まない姿勢がそのたたずまいに表れている。  それでも美桜は社会人のふるまいを思い出した。 「……お家の、方ですか?わたし、高城美桜といいます。あの、色々とお世話になって」 「私はこの家の使用人です」  シレと返されて美桜は内心縮こまった。礼を言う相手が違うと、そういうことだろうか。  なんとなく……この女性がおそらく外への入り口であろう襖の前に陣取っているのは、不用意に美桜を出さないためではないかと思われた。  再度、お食事をどうぞ、と感情のうかがえない声で言われ、逆らう理由もなくて、ソロソロと美桜はお膳の前にすわった。  焼き魚に卵焼き、お漬物、お味噌汁。料亭で供される精進料理のような手の込んだそれではなく、美桜も作る家庭料理と変わらない味と湯気が漂い、忘れていた空腹を思い出した。  はたに座りなおした女性がお櫃から白米をよそってくれる。美桜は素直に「いただきます」と手を合わせて食事をはじめた。  ……我ながら図太い一面があったことに、いまさらながら気がついた。お膳をきれいにたいらげて、さらにご飯のお代りまでして、美桜は入れてもらった食後のお茶に至福の一時にひたってしまった。 (いたれり尽くせりって、いい……)  まさに旅館で上げ前据え膳の気分だった。ご飯はおいしかったし、後片付けの心配もお掃除の心配もない。ハヘ~、と満腹感でゆるみかかる思考に、ハッとした。  イカンイカン、と。 「あの……一匠おじさん、は」  お膳を下げて両手に抱えるほどの盆を持ってきた女性が間近に膝をつく。ていねいに長方形の漆盆を置いて美桜に答えた。 「外出なされています。お戻りになるまで待たれるように、との言伝でございます」 「え……あ、じゃあ、タマ……白い猫は」 「存じ上げません」  取り付く島もない、とはこのことだろうか。女性はおそらくタマの言っていたお手伝いさんだろうが、昔堅気な女教師のような芯の通った厳しさがあった。 「お召し替えをどうぞ」  示されたものに美桜はえっ、とひるむ。  漆盆には白地に薄墨色の、見るからにお高そうな着物一式がそろえられている。桜の散った模様には心惹かれたが、大人っぽすぎて絶対自分には似合わないと断言できる。  そりゃ、美桜も三十路を越えたいい大人だが……。  この着物を着たら自分の内面の子どもっぽさがあらわになるのを本能で感じた。そんな上品さがある。好奇心だけで手を出せる年齢はとうに過ぎていた。 「いや、あの……けっこうです。私の服は」  荷物はあったのに、着ていた服がなかった。女性は少し沈黙すると、お待ちください、と膝を上げて部屋を出ていった。  いくらも待たずに戻ってきた女性が同じように漆盆を抱えてくる。美桜の前に置いて淡々と告げた。 「お勧めできません。ご処分されるのでしたら、お引き取りします」 「ウソ……ッ」  お気に入りのアンサンブルはひどい有様だった。袖や肩が大きく切り裂かれて血の跡が残っている。  自分の血なのはわかっていたし、手当もされていたのだから着ていた服がこの有様なのは至極もっともだったが、美桜はあらためて昨夜の恐怖がぞくりと身にしみた。  スカートは唯一無傷だが、これだけあっても仕方ない。 「あの……じゃあ、コートも?」 「お預かりしていますが、ご処分をお勧めします」  ガクリ、としょげきった。  昨夜着ていたダウンコートは雪も降るこの時季、とても重宝する一着だったのに、買い直さなければならないだろうか。 (よけいな出費が……)  心で泣く美桜に女性は現実を突きつけた。 「寝巻姿でお出しするわけにはまいりません。お手伝い致します。お着替えをどうぞ」  せめてほかの着物に替えてほしい、とかどんな言葉もはね返される空気だった。 「……はい」とあきらめて従うしかなかった。  着物を着るのは何年ぶりだろうと思う。親戚の結婚式で着たのが最後で、歩きづらさや所作に気をつけなければならない気億劫さしか記憶になかった。  姿見もない部屋で指示されるまま帯を押さえていた美桜は、襖の向こうの音に気がついた。  だれかの足音がしてすぐそこで膝をつく気配だった。 「──笹野さん。よろしいですか?」  女性の声だった。美桜の後ろで帯紐をしめていた女性がどうぞ、と答える。  失礼します、と断って襖が開かれ、笹野と呼ばれた女性と同じ無地の着物を着た女性が姿を見せた。お仕着せらしい着物姿に、ますます旅館の色合いが濃くなる。  美桜と同年代ぐらいの女性は好奇心をのぞかせて彼女をちらりと見、両手をそろえて用件を告げた。 「黒田さまがお戻りになられました。大旦那さまが雪見の間へお連れするようにと」 「わかりました。すぐにまいりますと伝えてください」  はい、と答えた女性は美桜にかるく会釈すると襖を閉めて下がった。  伯父の名前が出て美桜は落ち着かない気分だった。伯父に聞きたいことがいっぱいあったし、知っている人の顔を見て安心したい気持ちもあったが、なれない着物姿を見られることには抵抗があった。  が、そんな彼女にかまわず袋帯を締め終えた笹野ができました、とあっさり告げる。仕方なく美桜は向き直ってお礼を言った。 「ありがとう、ございます……」  ぺこり、と頭を下げて顔を上げると、笹野はじっと美桜を見つめていた。出来栄えを検分するのとはちょっと違う雰囲気だった。  あの? と美桜が訊き返す前に視線を伏せて膝を上げると、ご案内します、と先に立つ。 「あ、すみません。荷物」  急いで取りに行こうとする美桜を静かに止める。 「お帰りの際にお持ちいたします」  和服姿で洋風のバックを持ち歩く気ですか、と言外に聞こえた気がした。 「あ、じゃあ……お願いします」  泊めてもらったり色々とお世話になったのだから、家の主人にお礼とごあいさつをしなければならないのはわかっていた。  が、一匠に逢ったらすぐに帰宅するつもりでいた美桜は、なんだか気億劫な事柄が待ち構えている予感に早くも気分が重たくなった。
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