伯父の正体 2

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伯父の正体 2

 純和風造りの邸宅だった。  似たような回廊と曲がり角、通り過ぎたいくつもの障子張りの部屋に、美桜は一人だと確実に迷うと心でうけ合った。  途中、とても立派な日本庭園まであって、思わず目の前の女性にたずねた。ここって、旅館とかですか、と。  返ってきたのは迷いのない足取りで歩をゆるめない女性の静かな声だった。 「巽さまのお屋敷です」と。  やっぱりお屋敷なんだ……と心でつぶやいた美桜は、奥まった一室に案内された。  ひときわ格調を感じさせる水墨画のような襖絵の前で、笹野は膝を折る。お連れしました、とかけた声に中からお入り、と老成した声が返る。  ──静かに襖が開かれた。  室内は明るかった。片面の雪見窓から冬の日差しが障子の白さを強調して差し込み、人工的な明かりを必要としない。  それでもふわりと頬に感じた暖かさは暖房の息吹だった。  部屋には二人の人物がいた。  障子を背に伯父の一匠がいて、その隣、上座の席に和服姿の老人がいる。  こちらはほんとうに還暦過ぎに見える年配者で、だが重厚そうな雰囲気とは席を異にして穏和な面差しの好々爺だった。  伯父の強面顔を見てきた美桜にはなんだか意外でホッとしてしまった。  笹野にうながされて室内に足を踏み入れ、襖のすぐはたにいた三人目の人物に気付いて、美桜はとっさに数歩あとずさった。  昨夜見た青年だった。  された行為をありありと思い出し、声を上げなかったのが精一杯だった。そのまま回れ右しそうになって、伯父の声がかかる。 「──美桜」  逆らえず、美桜はしぶしぶ──そうっと、なるたけ彼から距離をおいて部屋に入った。  背後で静かに襖が閉まり、伯父に示された席へ正座する。上座の正面だった。  伯父は気にしたふうもなく紹介をはじめた。 「こちら、この屋敷のご当主で、巽貫成(たつみやすなり)さまというお方だ。──貫成さま。姪の高城美桜です」  老人が鷹揚にうなずいた。 「楽にしなさい、美桜さん。怪我の具合はいかがか」 「あ、はい。大丈夫です。……あの、泊めていただいたり、色々とお世話になって、ありがとうございました」  着物の所作はなれないながらも、どうにかお辞儀をした。ふっと、笑う気配がある。 「なるほど。たしかに蓉子さんの面影がある。一匠、狙ったのかい?」 「まさか。狙って生まれる存在ではありません」  確かにそうだが、と答えるやりとりはどこか言葉遊びの気軽さがある。  美桜が困惑に眸をゆらすと、一匠の視線が彼女に向けられた。 「美桜。笹野さんに着せられたのか?」 「あ、うん」  目線でなでられて美桜はひるんだ。鏡を見る間もなく連れて来られて、ただでさえ自信がなかったのに、どんな風に人目に映っているのかを思うと裸足で逃げだしたかった。  と、めずらしく伯父の目つきがやわらかくなった。 「蓉子がむかし、着ていた着物だ。……私が蓉子の姪だと口をすべらせたから、笹野さんが引っ張り出してきたんだろう」 「え……」  そんな思惑がふくまれていたとは思わなかった。なおさら美桜はいたたまれなくなった。 「ごめんなさい。わたし、知らなくて……」  いまからでも廃棄するしかない服に着替えてこようかと思った。伯父の口調は淡々と簡潔だった。 「よく似合っている。蓉子もおまえに着てもらえるなら、喜んでいるだろう」  伯父はお世辞とかとは無縁な感じだったから、今度は面映ゆい気分で顔が上げづらかった。 「……あの、蓉子おばさんは、こちらに住んでいたの?」  二人がどこに住んでいたとか、そういった話はほとんど聞いたことがなかった。伯父は少し、なつかしむような眸をした。 「むかし、一時期な」  ほがらかな口振りで巽老人がそれに続く。 「蓉子さんがいた時は、この家もにぎやかだったね。あの人は見かけによらず料理下手で、いつもお膳には斬新な料理がのっていた。一匠がまた、文句も言わずにそれを平らげるものだから、笹野たち家人の七不思議に数えられてね」 「貫成さま」  伯父がいかめしく口をはさんだが、はじめて聞く逸話に美桜は思わず笑いをこらえた。  伯母の蓉子は母方の親族の中では飛び抜けた美人で、写真などで見るかぎり、いかにも才色兼備の美女といった風情だ。だからこの老人も見かけによらず、と口にしたのだろう。強面の伯父との意外なエピソードに気分がやわらいだ。  一匠は伯父の威厳を取り戻すように息をつく。そして美桜、と呼びかけた。 「はい」 「ほかに、私に聞きたいことはないのか」  少しく、背筋がのびた。伯父の静かな眼差しにあって、ためらうように屋敷の主人である巽老人に視線が行って、一匠が言葉を添える。 「貫成さまなら心配ない。昨夜の出来事もすべてご承知だ」  背筋にヒヤリと汗が伝った。昨夜の出来事から関連される、背後の人物の存在がずっと怖くて、気になってしかたなかった。  気配を消したように静かで、身じろぎひとつ、物音ひとつ立てずに鎮座していたが、美桜にはありありとその存在感がわかった。  鳥肌が立つほど。 「あの……」  膝上の手をにぎりしめ、その手の甲からのぞくガーゼの跡に意を決した。 「おじさんたちは、だれなんですか」  おびえを隠しながら真剣に問いかけた。  言葉を選んだふうなのに、するりと出た彼女らしさに、一匠は掛け値なしに相好をくずした。  思わずもれた笑い声に、美桜があぜんとした様子から頬を染めて唇をかみ、目を伏せた。  ──ほんとうに、素直な娘だ。  一匠は彼女が赤ん坊の頃から知っている。泣き虫で意地っ張りで、長じるにつれ年長者ゆえの意固地な面も見せたが、心を寄せたものにはお人好しなほど無償の愛情をかたむけた。  危なっかしいその愛情の振り幅に、蓉子は我が子のように可愛がり愛情をそそぎながら、ときおり心配そうな顔をした。いつか、悪い男に付け込まれそうだわ、と。  美桜は、美しい女性に成長した。一匠の伴侶に似た面差しをしながらもどこか頼りなげな面を残し、しかして感情の起伏は豊かだ。ここ数年、彼女に身に起こったことは調べて知っていたし、蓉子の心配が当たってしまったことにはげしく怒りを覚え後悔したが、美桜の彼女らしさはなにもそこなわれてはいない。  一匠と蓉子がいつくしんだ姪。  何者なの、と隔絶するのではなく、だれなの、とあくまでも自分に近しいものとして捉える気質。それが一匠の眼差しをやわらかくした。 「私たちは、聖魔という種族だ」 「……せい、ま?」  聞きなれない単語に美桜はきょとんとした。一匠はうなずく。 「美桜。私が何歳くらいに見える?」 「え……正直に?」  言っていいのか、と顎を引くと、一匠はやはりうなずく。昨夜から思っていたことを美桜はおそるおそる口にした。 「四十代、ぐらい……」  ふッと巽老人も笑った。 「白髪と白ヒゲもたいして効果はないようだね」  伯父も苦笑するようにヒゲをなでた。日本なら大丈夫かと思ったんですが、と。 「美桜。私が蓉子と結婚したのは三十七年前、蓉子が二十六の歳だった。だから私も、本来なら還暦を越えている辺りの年齢のはずだ。だろう?」 「うん………」 「それが、おまえは四十代ぐらいに見えるという。なぜだと思う?」  やっぱり美桜は困惑した。世の中には実年齢より若く見える人はいくらでもいる。でも伯父が聞いているのはそんな答えではないようだ。  困り果てそうになったそこに、声が割って入った。まだるっこしいわね、と。  ふいに、伯父の身体からぬけ出たようにタマが姿を見せた。美桜は思わず目をこすった。伯父の背後に隠れていたのがそう見えただけだろうか。 「一匠らしくもない。なによ。いまさら実年齢言って美桜にドン引きされるのが怖いわけ?」 「……タマ」  やっぱり人前でもしゃべっている。美桜の幻覚や夢じゃないようだ。  すると、キッと鋭い目が向けられた。 「タマって呼ぶなって言ったでしょーが! このおとぼけ娘!」 「とぼ……とぼけてなんかないわよ!」 「私にすっとぼけた呼び名つけておいて、いまさらバックレんじゃないわよ。このボケボケ娘」  見るからにスラリと体型も貌立ちもよい美猫から出たとは思えない、はすっぱな言葉遣いだった。  暴言を浴びた美桜はボケボケ……とショックを受ける。それはたしかに、ぼーっとしてると言われることはあるが。 「ホント、小さい時からちっとも成長してないんだから。そのぼうっとした性格。牧場の羊もいいとこよ。これからは改めなさいよね。自分の貞操の危機がかかってるんだから」 「は……?」  なぜ猫に貞操の危機を心配されなければならないのだ。 「あんたもう、昨夜閻鬼に狙われたの忘れたの!?」 「忘れてないけど、覚えてるけど……でも!」  タマの迫力に気圧されて美桜はタジタジとなる。あの子どもと貞操の危機となんの関係があるのか。  あんたねえ、とタマが言いかけて、一匠のため息が落ちた。 「タマ。少し静かにしなさい。順繰りに話さないと、美桜だって混乱するだけだ」  むうッとしたようにタマが黙りこんで、伯父にはそう呼ばれても怒らないんだ、と美桜は感心する。それに、と一匠は続ける。 「むかし、美桜にタマと名付けられて訂正しなかった時点で、おまえの負けだ。いまさら文句を言うのはやめなさい」 「あれは、美桜が子どもだったから……!」 「わたし、むかし、タマに逢ってるの?」  キッと向けられた視線がボケナスッ! という罵りを連想させて、美桜はあわてて言いつのった。 「あ、あの、タマに見覚えはある……よーな、ない、ような……あれ。でも、なんでタマ?」 「私に聞くバカがどこにいんのよっ!」  やっぱり怒られて美桜は首をすくめた。ほがらかな笑い声は巽老人だ。 「タマコがこんなに元気がいいのも、久しぶりだね。本当ならもう二度と逢うことはなかったはずの美桜さんに逢えて、それはうれしいと見える」 「おじじまで好き勝手なことを」 「おや。外れているかい?」  フンッとタマはそっぽを向いた。美桜は自分がなぜこの猫をタマと呼ぶのか、ふしぎに思ったのを思い出していた。 「わたし、子どもの頃にタマに逢ってるんですね。で、タマって名付けた。……なんで、二度と逢うことはなかったはずなんですか? おじさんが外国に行っていたから?」  タマの飼い主が一匠でいつ日本に戻ってくるかもわからず、美桜たち親族とも関わらなかったからか。  一匠がふと眸を静かにした。 「いや、私が誓約させた。美桜には二度と近付いてはならない、と」 「え……なんで」  一匠は眸を伏せる。タマのいうとおり、ここまできてなおためらう自身の迷いを知った。  一匠と蓉子の可愛がった姪。人としての人生を歩んでほしかった。が、もう手遅れだ。 「──一匠。私から説明するかね?」 「いえ。貫成さま。私の責任です。私が話します」  向きなおった眸の強さに美桜はひるんだ。タマが言語を話すめずらしい動物だから美桜から隠されたとか、話はそんな単純ではなさそうだ。  なにより、伯父がここまで迷いの色を露呈する事実が美桜の不安を誘った。聞かされる話はきっと、彼女にとってよいものではない。 「美桜。私たちは聖魔という種族だ。私も、貫成さまも、──そこにいる如月シュウも。聖魔は突然変異で生まれ、個体差はあるが力に目覚めるのは十代から二十代。使い魔を使役し、人にはあらざる身体能力を有する。そのひとつが、寿命と老齢化の遅延だ」  ぽかん、と美桜の唇が半開きになった。一匠はかまわず続ける。 「私の実年齢は百八十二歳。十二の年に力に目覚め、十八の頃から成長が遅くなりはじめた。現代の人の寿命が八十前後だとして、聖魔のそれは四百前後。約五倍だ。私の外見年齢はおまえの推測どおり、四十手前だな」  言って、一匠はヒゲをなでる。これを剃って証明するわけにもいかないが、と。 「出生記録を見せてもいいが──そんなものを見せても、信じる信じないはおまえ次第だ。美桜。おまえも私たちの仲間だ」 「は……ぃ?」  半開きの唇から間抜けな声が出て、美桜は急いで口を閉じ息をのんだ。伯父はなにをいきなり、奇想天外な話をはじめたのか。 「私たち聖魔は、身体能力に秀でている。病気には罹りにくいし、怪我などもしにくい。よっぽどの大事故でもなければ、生死に関わる怪我は負わない。ただ、私たちも食べなければ飢えて死ぬし、酸素がないところでは生きてはいけない。弱点がないわけではない」  伯父の口調は辛抱強く、美桜に言い聞かせるよう。 「そして、私たち聖魔が食物や酸素を供給するのと同じくらい、欠かせないエネルギーがある。大気と自然界にふくまれる精気だ。──それを、疫病のように汚す存在もある。人と、妖魔だ」 「あの……おじさん」  美桜の困惑をわかっているように伯父は片手を上げて制す。どこまでも堅苦しく続けた。 「妖魔は、──異質なるものだ。人と異なる我々の異質さともまた違う。どこから生まれ出、どのような生態系があるのかもつまびらかではない。わかっているのは、我々が生きていく上で欠かせないものを侵すこと。我々が自然界の精気をエネルギーとするように、彼らは自然界や人の負のエネルギーを糧とする。ゆえに、いつからか私たちとは相反する存在、──敵対する立場をとって幾久しい」  またもやぽかんとなりそうな美桜をおいて、一匠の話は進んでいった。 「昨夜、おまえを襲って怪我を負わせたモノがいたな。あれが妖魔だ。──怪我や病気をしにくい聖魔でも、対極のモノには弱い。手傷を負うこともあるし、死に至ることもある。両極には並び得ず、共存もできない以上、どちらかが滅するまで闘い続けなければならない。それが、我々の業だ」  美桜は口をはさめなかった。  あり得ない話の数々に頭の中は空回りして整理が追いつかないし、冗談に付したい気持ちが大きい。でも、伯父の口ぶりには笑ってはいけない重みがあった。  それはきっと、美桜の知らない、伯父がおのれに課しているものだからだ。  伯父の中に長い──長い、闘いの影を垣間見た気がして、それが美桜の言葉を失くした。 「私たち聖魔は、闇の気を見て感じ取り、それを払う力を持つ。(あやかし)と主従の契約を結び、使い魔としてその力を使役する。このタマがそうだ。タマを見つけたのは私ではない。美桜。おまえだ」 「わたし……?」  かるく狼狽して美桜は身じろぎする。一匠は眼差しだけでうなずいた。 「聖魔には、互いの存在がわかる。見知らぬ者同士でも、逢えば同族がわかる。だが、おまえが小さな頃、遊び相手として逢っていたモノを見た時、私は仰天した。契約前の妖だったからだ。その時に気がついた。おまえには聖魔の力があるのだと」 「どういう……?」  意味かと、困惑が深まる。一匠は少しく肩を落とした。自身の行いをあらためるように。 「時折──人の中に現れる。妖を見つけることができ、闇の気を目にすることができる者が。祓う力を持つ者もいるが……私は、おまえがそういう種類の者だと思った。聖魔と呼ぶには微弱な力、人と呼んでも差し支えない存在感。いまなら……封じてしまえば、人としての一生を送れると」  伯父の声には苦い悔恨がにじんでいた。驚く美桜の前で巽老人の深い声が一匠を問いつめた。 「それだけかね、一匠」 「いえ……」  軽く瞑目して伯父は自身の内の悔恨をかみしめているようだった。開いた眸は自身の罪を認めた者のそれだった。 「美桜には、妖を見る目や、闇の気を見つける目がありながら、それらと対峙する力がなかった。聖魔には、必ずそなわった力です。それが私の判断を見誤らせた原因でもありますが。──私は、姪を我々の因業に関わらせたくなかった。力も微弱な今なら、私が封じてしまえば──妖を遠ざけ、私が関わらないようにすれば、美桜は普通の人として一生を送れるはず。蓉子が、そう望んだように──」  美桜は胸をつかれた。自分のあずかり知らぬところでからみ合った、むかしの出来事。 「蓉子おばさんは……知っていたの? おじさんたちのことを」  伯父の眼差しはやさしく、苦かった。ああ、と答える声も。 「私たち聖魔も、長い時の中で人と心を通わせることがないわけではない。すべてを話すかどうかは相手にもよるが。──蓉子は、すべてを知って受け容れてくれた。私と、この一族を」  美桜は少なくなく、息をのんだ。彼女には想像もつかない、その覚悟を。 「おばさんは……普通の、人間だったのよね……?」  一匠はしっかりとうなずく。それをかみしめるように。 「普通の人間だ。寿命も力も人のそれと大差ない。……だからこそ、おまえが聖魔かもしれないという事実にはだれより驚愕し、私の提案に進んで乗った。おまえから距離を置き、聖魔や妖魔といったものと隔絶できるように。二度と逢えないかも知れないという条件にも、ひるむことはなかった。──美桜。おまえが人としての生涯を歩むことを、だれより望んでいた」  記憶にもおぼろげな伯母の存在がふいに身を包みこんで、美桜は言葉をつまらせた。  自分が知らないところで──覚えていないだけで、美桜という人間はそんなに大事に思われていたのかと。  ふむ、と考え深げな声は巽老人だった。 「それで、一族には報告せず、独断でその子を封じたのかね」  伯父とはまた違った厳しさがその声音にはあった。返したのは一匠だった。 「はい。すべての責は、私にあります」  巽老人の視線は美桜にそそがれていた。じっと、内面を見つめるような視線にさらされて、美桜は身がすくむ思いだった。 「……まあ、過ぎたことをいまさら言い立てても始まらぬ。それに、きみの気持ちもわからないでもない」  しかし、と巽老人の視線は思案深げだった。 「聖魔と思って見れば、たしかに彼女には同族の気配がある。だが、あまりにかすかだ。彼女の力が微弱なことと、昨夜妖鬼将の一人、閻鬼(えんき)が現れ彼女を狙った事実。そしてタマコの言う彼女の貞操と──それらはどう説明づけるのかね? 一匠」 「……私も、確信があったわけではありません。しかし、皮肉にも昨夜閻鬼が現れたことで間違いはないかと。美桜は、刺国若比売命(さしくにのわかひめ)です」  巽老人に震撼とした緊張が走った。穏和な表情がかき消えて、怖いくらいの眼差しが美桜を射る。美桜は逃げ出したかった。 「──なにを言ったか、わかっているのかね。一匠」 「はい。証拠もあります。シュウ」  呼ばれた青年が音もなく立ち上がり、美桜の後ろ横で膝をついた。  美桜は思わず正座のまま避けてしまう。かまわずにシュウと呼ばれた青年はその場で上着を脱いだ。  冬の日中では暖房のきいた室内でも半裸は絶対に寒い。なのに彼は無表情にそれをしてのけた。  彼の行動におどろいた美桜はマジマジとその鍛えられた半身を凝視してしまい、巽老人の息をのむ気配も聞いた。 「王印か──」  巽老人が凝視しているものを美桜も見た。  冬の乾いた日差しの中、日に焼けた肌のちょうど心臓の真上にあたる箇所に、氷の結晶があった。  それは人の肌の上にあるせいか息衝くようにあざやかで、なにより強い存在感で彼の胸の上に刻まれていた。  右腕の包帯の跡とを見てとって、美桜はあわてて目を伏せた。伯父の声が響いた。 「聖魔を使役できるのは、伝承にいう刺国若比売命だけです。それは、妖魔と拮抗する力を持たず、代わりに聖魔を下僕(しもべ)とする──。使い魔を身に棲まわせている我々では不安がありました。ですが、魔を身にまとわせない戦闘兵なら、可能性があった。これも独断でしたが。──シュウは、美桜の下僕です」 「は……ぁ!?」  美桜は今度こそ反発感情が高まった。今までついていけない話の数々にも甘んじていたが、こればかりは聞き捨てならない。  そこにタマがトコトコとやってきて美桜の足袋の足を踏んだ。声にならないしびれが全身をかけぬけて、美桜はもだえた。 「タマ……っ!」 「なれない正座してるからよ。おじじが楽にしろって言ってたでしょ。ああ。シュウに治してもらったら?」  元のように上着を着直した青年に目を向けられて、美桜はしびれる足のまま後ずさった。いい! と声にならず首をふって。  やわらかな笑い声が入って、場をなごめた。巽老人がもとの穏和な表情を浮かべて、やれやれ、と苦笑の息を吐いた。 「とんだ爆弾を落としてくれる。一匠。少しは年寄りをいたわったらどうかね」 「肩でもお揉みしますか」 「よしてくれ。私の肩が破壊される。美桜さん。楽にしなさい。遠慮はいらない」  巽老人の言葉に甘えて、美桜は膝をくずした。しびれが一気に逃げていった。  それで、と巽老人が一匠をうながす。 「なぜ、刺国若比売命とわかった」 「その前に──確認を取らせて下さい。美桜が刺国若比売命であることに異論はありませんか? 白夜翁(びゃくやおう)」  伯父がだれに話しかけたのか、わからなかった。声は一拍置いて響いた。──応、と。  深く響く重みのある声音に、美桜はドキリとして周囲を見回した。だれが口にしたのかわからなかった。  一匠は少しく息をはいた。意識をあらためるように。 「三月ほど前から、都内の数ヵ所に目立って邪気がたまるようになりました。貫成さまにも報告は行っていたと思いますが」  返された視線を巽老人は黙ってうなずいた。一匠はそのまま視線を美桜に返す。 「私たち聖魔は、自然界の精気を侵す妖魔の存在に無関心ではいられない。放置すれば、それは我々の死活問題になるからだ。不自然にたまっている闇の気があれば、大きくなる前に祓う。それが──祓っても祓っても、邪気がたまる箇所に気がついた。美桜。おまえの生活圏内だ」 「え……!?」 「昨夜も聞いたな。おまえの周りで、近頃妙なことは起こっていないかと」  言われて美桜は思い返した。  一月前に起こった会社近くの通り魔事件。自宅付近の痴漢や引ったくり事件の話。あらためると物騒な事柄に数えられるが、でも、大都市に住んでいるかぎり、それらは頻繁でなくとも身近な事件だ。 「あの、でも……」 「おまえは把握していないだろうが、おまえの勤め先近辺では交通事故や工事現場事故が多発していた。住まいの近くでも事件が多発していたな。──妖魔が好むのは、負のエネルギーだ。奴らは時として人に乗り移り、妖魔と化すことがある。私たちははじめ、妖魔が人の中にまぎれているのだと思った。だが、どう探しても原因が見つからない」  一匠はかるく息をついた。 「場所か人に問題があるのかと、調査がされた。私がその一件を目にしたのは、本当に偶然だ。私は数年に一度、蓉子の墓参りに帰国する都度、美桜、おまえの身辺調査をしていた。妖が周辺に現れてはいないかと。結果はいつも問題ナシだった。それが──」  苦い、かすかな悔恨が浮かんだ。 「日本の、都内で起きている案件に美桜、おまえのデータが乗っていた。驚愕したなんてものじゃない。急ぎ、シュウに都内の事案を引き継がせ、おまえの身辺を洗い直した。それで、もしや、という事実に行き着いた。──美桜。おまえは子どもができないことに悩んでいたな」  血の気が引いた思いを味わったのは美桜だった。暖かい室内でも指先まで冷たくなったのがわかる。かろうじて声をつむいだ。 「それと……これと、なんの関係が」  一匠の眸が少しく、いたわるようになった。 「ある。──聖魔には、繁殖能力がない。突然変異で生まれるのを待つばかりだ。蓉子も、私との間に子は望めないのをわかっていて、私の伴侶となった」  言って、かるく伯父は首をふった。話を戻すように。 「私は当初、美桜の聖魔としての力がここに来て目覚め始めたのかと思った。三、四十代での発生は過去にも例がないわけではない。だが、美桜の調査はノーマルとして処理されるほど、ごく普通の人間だった。偶然かとも思った。だが、思い出した。タマたち妖は、子どもだった美桜の前に姿を現わしながら、契約を結んでいなかった。そして、美桜の周りにはいやに邪気が現れやすかった──」  美桜はただ理解できなくて首をふった。とほうにくれた気分だった。  伯父の眼差しはどこか詫びるように、だが後戻りはしないもののそれだった。 「聖魔は妖魔と対峙するもの。それは、妖魔側にとっても同じ。だが、妖魔は敵対するはずの美桜に近付いた。祓われても祓われても──まるで、慕うように。昨夜、美桜の血に闇の気はあり得ないほど増大した。美桜の血と存在は、妖魔と──我々、聖魔を惹きつける。それは、美桜が命を生み育むもの、刺国若比売命だからだ」  しん、とした沈黙が落ちた。  美桜はまだ意味がわからなかった。だから訊き返した。自分でも困惑した声だと思った。 「それって、なんなの………?」 「聖魔に伝わる伝承だ。刺国若比売命は古事記にいう大国主命(おおくにぬしのみこと)を産み落とした母親であり、息子を蘇生させた存在でもある。同じように、刺国若比売命は繁殖能力のない聖魔を産める存在といわれている。その存在は聖魔に蘇りに等しい大いなる力を与える、と」  美桜にはまだ理解できない。 「でも……わたし、子どもができなかったのよ」  伯父は静かにうなずいた。 「普通の人間との間にはできない。聖魔との間にしか命が宿ることはない」  美桜はぼうぜんとした。ふいに、伯父が昨夜、もっと早く逢いにくるべきだった、と言った意味がわかった気がした。  自分があれほど悩んで、それこそ鬱になるくらい思い悩んでいたものすべて、時間ごと否定された気がして、でも、と美桜は反論した。 「じゃ、なんで……なんで、タマはわたしが小さい時にそのことを伯父さんに言わなかったの。妖がわたしに惹かれるなら、気がついたはずでしょう?」  一匠は詫びるように美桜を見、そっぽを向いて顔を洗う猫を見やった。 「美桜、彼らをあまり信用しすぎてはいけない。妖は主従契約を結んでも私たちに秘することはたくさんあるし、自分たちのことも話はしない」  信を置きながら、どこか一線を画した口調だった。  美桜は泣きそうになった。 「じゃ、なに……わたしは、聖魔と妖魔、両方を生みだせる人間だってこと?」  伯父がなにか、大きな悪ふざけをしているだけだといい。足のしびれも、腕や肩の痛みも、悪い冗談としか思えない。  伯父の眼差しは静かだった。 「人ではない。美桜。おまえはもう、聖魔としての力を示した」 「え……?」  伯父の視線が静かに座した青年に向けられた。 「聖魔は妖と契約すると、身の内に妖を棲まわせ、それが刻印となって肌に表れる。心臓に近い妖ほど力が強い。そして、心臓に刻まれた妖は王手となって、生死を共にする。聖魔が死ねば、通常は解放される妖が共に死ぬ。──美桜、おまえは妖と契約する力はなかったが、聖魔と契約する能力があった。シュウに刻まれた王印は、そういう意味だ」  え、え、と美桜の頭の中は混乱も極地だ。 「か、彼が死ぬと……わたしも死んじゃうって、こと……?」 「逆だ。主人はおまえだから、シュウになにかあっても、おまえの身に危険が及ぶことはない。だが、その反対はあり得る」 「なに、それ……」  まるで呪いだ。美桜は頭がクラクラした。  生死の話とか、刻印とか、子どもができない、でも、聖魔や妖魔との間ならできる……?  ハ、とかわいた笑いが喉をついた。  首をふって美桜は伯父を見返した。勘弁してよ、と言いたかった。彼女はもう、小さな子どもではない。これでも大人の分別もそなえた、酸いも甘いも経験した社会人だ。 「今の話全部、信じろっていうの……?」  伯父はかるく、眸を曇らせた。美桜がそういうのをわかっていたようだった。 「信じてもらうしかない。美桜──」 「もういいよ!」  我慢も限界だった。悲鳴のように声を荒げた。 「もう、ホント……意味、わけわかんない。もういいよ。もうたくさんだよ。昨夜からいっぱい、変なことばっかり……。ホントに、もういいよ」  なにかにしがみつきたくて、自分の腕をつかんだ。力をこめたら、子どもみたいにわめいている自分が少しだけ恥ずかしくなった。でも、泣きだしそうな気分を押さえるしかなかった。 「美桜」  呼ばれても意地になって顔を上げなかった。それを一匠は厳しく強いた。 「美桜。私を見なさい」  ほんとうに泣きそうになって、美桜は唇をかみ、イヤイヤ顔を上げた。伯父の眼差しは厳しく、それでも美桜をしゃんとさせる強さだった。 「私はおまえの伯父だ。……そうだな?」  確認させる声だった。それに美桜は、ふいに小さな頃の記憶をよみがえらせた。  抱き上げられた時の大きな手。肩車してもらって目にした景色。おぼれた時にたすけてもらった力強さ。伯父がいれば、怖いものなんてなかった。大好きだった、ヒゲのおじちゃん──。  こぼれそうになったものをこらえて、美桜はうなずいた。  一匠の声音はやさしく静かだった。 「これだけは心に留め置きなさい。私はおまえを決して裏切らない。そして──シュウの命をにぎっているのは、美桜。自分なのだと」 「……はい……」  うなだれる思いで目元をこすった。しかし、と少し疲れたような吐息は巽老人だった。 「困ったことになったな。一匠」 「はい。私は昨夜──美桜に、闇の気を見る目を今も持っているのか、払う力はあるか。それを見極めるつもりでいました。シュウを先行させたのは、万が一のためです。しかし……閻鬼が現れるとは予想だにしていませんでした」 「うむ……。きみらが生きて彼女を奪われなかっただけでも上々だ。しかし、妖鬼将に彼女の存在を知られたか」 「彼らは競争意識が高い。美桜の存在をたやすく吹聴はしないでしょう。問題は──我らの方かと」 「わかっていて、シュウに契約を結ばせたのではないかい?」  ちらりと投げた視線はどこか愉快がる気色があった。それに一匠は微苦笑で視線を伏せた。 「お許しください。伯父として、姪に保険をかけたかったのです」 「どちらが狸か狐かわからないね」  かるく笑って巽老人は美桜さん、と呼びかけた。目を上げた美桜にいたわるようにやさしくほほ笑みかける。 「混乱しているだろうが、聞いてもらいたい。きみは、妖魔に狙われる身の上となった。できれば、当家に住まいを移して身の安全をはかってもらいたいのだが、どうだろう?」  美桜は思い惑った。蓉子伯母のようにこの屋敷に住むということか。でも、狙われているという言葉はピンとこない。  しかし、自分の身の安全は、引いては如月シュウという青年の安全でもある──。 「あの……一度、とにかく家に帰りたいです」  飼い猫がお腹を空かせて待っている。それに、やっぱりどうしても夢の中にいるようにフワフワとして落ち着かない。  巽老人はやさしく笑った。 「少し、急ぎすぎたかね」 「貫成さま。美桜の護衛はシュウがいればさほど問題はないかと。今のシュウと本気でやりあって、たやすく勝てる者は聖魔の中にもいません。もちろん、私も含めてですが」 「それが、刺国若比売命の力か………」  大きなため息を巽老人はこぼした。 「わかった。一匠、きみの判断に任せよう」と。  長い話し合いの場から解放される雰囲気に、美桜は心の底からホッとした。  初春の日差しがかたむきはじめていた。
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